僕がとうこさんにふられるまでの記録 4

 あれから、僕ととうこさんは、何度となく食事を共にした。

 講義のあとに、お昼休みに、お休みの日に。


 メールやSNSで連絡が取れない、というのは、むしろ僕に次の約束を必ず取り付ける動機になった。不便に背中を押され、僕ととうこさんはその日の終わりには必ず次の約束をする。

 僕たちはお互いに様々なことを話した。これも、メールやSNSでのやりとりがないせいか、話題に困ることがなかった。日々経験したことを、会ったときに対面で伝える。SNSなどを通して知らせてしまうよりも、目の前で相手に聴いてもらうほうが、生のリアクションを知れて楽しいというのが、僕の実感だった。


 お互いを知り、食事以外でも時間を共にすることがなんどかあった。買い物に行ったり、お薦めの本や映画を教え合ったり。僕といるときのとうこさんはリラックスしてくれているように思えたし、僕も以前ほどには緊張しなくなっていた。


 夏を前にした青い空が、深い緑の葉と一緒になって鮮烈な色彩を見せる頃。いつものように食事に行くために二人で道を歩いていたとき、ふと気づく。

 僕ととうこさんが並んで歩くときの距離は、すこし近くなっていた。

 たぶん、今は周りからみたら、恋人同士だと思われることもあるかもしれない。

 意識した瞬間、僕の右手に緊張が走った。十数センチ先には、彼女の細い手指がある。

 それを握っても、ひょっとすると今なら、受け入れてもらえるかもしれない。

 そのくらいの時間と言葉は、交わしてきたと思う。

 僕はつばをのんだ。

 視界の端で観たとうこさんは、穏やかに道の先を見てる。

 休日の大学近くの通りは、人が殆ど歩いていない。

 家々の生活音と、二人の足音だけがひびいている。

 じわりと汗ばんだ右手をゆっくりと開き。

 僕は――


 立ち止まる。


 足音がとまったことに気づいたのか、とうこさんも僕の数歩先で立ち止まり、僕のほうを振り返り、不思議そうな顔をする。


「どうしたんですか?」


 僕は、開いた右手をぎゅっと握る。

 なんとなく、今なんだろうと思った。

 きっと、今を過ぎたら、ずっと言えないと思った。

 別にドラマチックでもなんでもない。日常的に、世界中のどこかで行われてる、気持ちの伝達。

 口頭で、行動で、手紙で、電話で、電子メールで、SNSで、歌で、絵で、そのほかあらゆる手段で。


「とうこさん――」


 それでもやっぱり、一個人である自分にとってはおおごとで、許容か拒絶か、すぐ先にあるかもしれない答えに大の大人がこれ以上なく恐れながら、僕は、続ける。


「――好きです、付き合って、ください」


 一緒に魂も放ってしまうんじゃないかと思うような緊張の中、言葉は確かに音として僕の口から発せられた。

 とうこさんは、すこし目を見開いて、それから口もすこし開いて、数秒僕と見つめ合ってから、そっと目を伏せてうつむいた。

 自転車が僕たちのとなりを走り抜けていった。

 どこかでガラス戸を開閉する音がきこえる。

 数秒が過ぎてから、とうこさんは小さく口を開く。


「……ごめんなさい」


 とうこさんは、僕にむかって、とても申し訳なさそうな、今にも泣き出しそうな、苦しそうな笑顔でそう言った。

 今、僕ととうこさんのあいだは、数歩分離れている。


「……っ」


 僕は、唇をかんだ。後悔はない。それでも、心が破けそうなくらい辛いのは、どうすることだってできない。


「すごく、素敵な人だなって、思ってます。気持ち、嬉しいです」とうこさんは穏やかな声で続ける。「でも……私と付き合うのは、やめておいたほうが、いいと思います」


 とうこさんは確かにそう言った。

 僕は、すごくかっこわるいことかもしれないと思ったけれど、気持ちを抑えきれなかった。


「そんなことないよ。……ひょっとして、付き合ってる人とかいるの?」


 とうこさんは黙って首を振る。


「じゃあ」


 言って、僕は言葉に詰まる。「じゃあ」ってなんだ。フリーだったら付き合ってくれてもいいじゃないかとでも続けるだろうか。そうではない。僕はいま、とうこさんからフラれたんだ。フリーじゃなくて、だめってことは、つまり僕がだめってことだ。

 それなら、これ以上なにを言ったって、自分がみじめになるだけだ。

 なんでもない、と、僕が直前の自分の言葉を取り消そうとしたときだった。


「私、特異体質なんです」


 とうこさんは悲痛な笑顔で言う。

 すこし、泣いているのかもしれなかった。


「特異体質、って」


 尋ねる僕に、とうこさんはうつむいて言った。


「私、この世のありとあらゆる『記録』に残らないんです」

「……」


 僕が言葉の意味を理解できずにいると、とうこさんが続ける。


「携帯電話、持ってますか?」

「え? あ、うん」


 僕はポケットから携帯電話をとりだす。


「カメラ、ついてますよね」

「うん」

「そのカメラを、わたしに向けて、撮影してみてください」


 僕は不思議に思いながらも、言われたとおりに携帯電話を操作する。

 液晶画面には、ノースリーブのブラウスにフレアスカート、珍しく眼鏡をかけた姿のとうこさんが映っていた。

 シャッターボタンを押す。

 カシャリと音がして、画面がその瞬間に固定され――


 僕は、目を見開いた。


「あっ、あれっ!?」


 視界の端で、とうこさんがうつむくのが見えた。

 撮影された写真には、ただ道端の景色だけが映っており、そこに当然映っているはずのとうこさんが、どこにも映っていなかった。

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