僕がとうこさんにふられるまでの記録 3
翌週、同じ哲学の講義で、僕はとうこさんとご飯を食べる約束をした。約束はその日の夜。場所は大学の近くのファミレス。なんてことはない、ほんとうに単純に「ご飯」だ。
ファミレスを提案したのはとうこさんのほうだった。
僕は一日の予定が終わるまでのあいだ、また思い悩むことになった。
二人でご飯を食べることを受け入れてくれたのだから、きっと付き合っている人とかはいないんじゃないだろうか。
けど、深い仲になりたくないからこそ、あたりさわりのない場所を自分から提案したのかもしれない。
いや、きっとお金がないからだ。携帯電話も持っていないとうこさんは、あまり高価なご飯に生活費を割くことができない。かといって男におごってもらう前提でいるような女性でもない。
いろいろと思い悩んだけれど、実際にとうこさんと会ったときには、悩みは頭の中から去っていた。とうこさんと過ごすのに、ただでさえ貧弱な脳の容量を、細かいことを悩むのに使いたくはないと思ったからだ。
夕日の射す大学のキャンバスの中、とうこさんはひとり、待ち合わせ場所のベンチに座って文庫本を読んでいた。夕日でオレンジに染まったカーディガンに包まれたその姿はとても美しくてかわいかったけれど、なんだか儚いような、ぼんやりした印象で、僕は言いようもなく不安になった。
僕はとうこさんに近づいて、声をかける。
「ごめん、おそくなっちゃった」
「だいじょうぶですよ、そんなに待ってないですし」
時間は待ち合わせ時間の五分前だった。
「じゃあ、さっそく行きましょうか」
「うん」
僕ととうこさんは、周りからみて、おそらく恋人同士ではないと想像されるには十分くらいの距離をあけて、並んで歩いた。
ファミレスに向かうまでの短い時間は特に会話もなくて、僕はすこし落ち着かなかった。とうこさんは景色を眺めていた。上京したてだから、まだこのあたりの風景が新鮮なのだろうと僕は想像する。
「このへん、ファミレス以外にもご飯できるお店、いろいろあるよ」
「そうなんですか……オススメとか、ありますか?」
「うん。っていっても、男と行くような定食屋とかばっかりだから、あんまり」僕はそこでちょっと言葉に詰まる。「……おしゃれなところじゃないけど」
「大丈夫ですよ」とうこさんはほほえむ。「美味しければ、どこでも。……今日の場所、変えますか?」
「えっ?」僕はちょっと悩んだけど、結局首を振った。「今日は、もう歩いてきちゃったし、ファミレスでいいんじゃないかな……また今度行こうよ」
それは「また次も」という打算を多分に含んでいるということをまったく隠しきれていない返事だったけれど、とうこさんは笑って「そうですね」と答えてくれた。
ファミレスでは、ふたりで同じ和食御膳を頼んだ。お茶碗のごはんとお新香、煮物、お味噌汁、おろしハンバーグ。とうこさんはの箸使いは丁寧で、上品だった。
ハンバーグを箸で一口切り分け挟むと、反対の手のお茶碗でわずかにフォローしながら、ゆっくりと口に運ぶ。綺麗なくちびるのあいだにハンバーグが吸い込まれて行き、続けてご飯を一口。咀嚼する口がなんだか艶めかしく見えて、僕は妙な気恥ずかしさを感じて、思わず目を逸らした。
「食べかた、すごく綺麗だね」
「左利きなこともあって、母に厳しく教えられたんです」
「左利き?」僕はとうこさんの手を見る。確かに、向かい合った僕と同じ側に箸をにぎっている。「ほんとだ、気づかなかった」
「左利きは個性でもあるっていう考えで利き手は直されなかったんですけれど、丁寧に食べることは相手への礼儀だとかで、親と利き手が違うと箸の持ち方など崩れやすいだろうと、特に丁寧に」
「そっか、いいお母さんだったんだね」
「子どものころはいやでしたけれどね、ご飯くらいリラックスして食べたいなって」とうこさんはちょっと笑う。「でも、いまは感謝しています」
とうこさんはそうして、食事を続ける。その姿をみて、僕もなぜだか、とうこさんのお母さんに感謝をした。
「そういえば、どうして哲学の講義受けてるの? 退屈じゃない?」
僕はとうこさんに尋ねた。僕らの通う大学の哲学の基礎講義は人気がない。ちなみに僕がそれを受講している理由は、単位が取りやすいという噂を聴いたからだ。出席点もなく、最後は文字数を間に合わせたレポートだけ出しておけば単位は確実らしいので、あまり真面目に出席するつもりもなかった。……とうこさんとの出会いが無ければ。
尋ねられたとうこさんは、箸をおいて、口の中のものを飲み込むと、ほんの少し目を細めて言う。
「……すこし、興味があって」
「哲学に?」
「はい」
「すごく真面目に講義聴いてるよね。僕とは大違いだ」
「そうですか?」
とうこさんは恥ずかしそうに笑う。ちょっと目線を逸らしてから、僕の眼を見て、ゆっくりと続けた。
「……勉強するのが、面白いので」
その言葉に、僕はなんだか射抜かれたようになって、一瞬、呼吸をするのも止まっていた。
きれいだ、と思ったし、かわいい、と思ったし、素敵だ、と思った。次からの講義はもっとちゃんと聴こう、と心のなかで考え直した。
それからしばらくとりとめのない話をして、御膳が片付けられたころ、僕はふと、とうこさんに尋ねた。
「パソコンのメールアドレスなんかも、持ってないの? ……こんどご飯行くときに、連絡できたら便利だなって思うんだけど」
勇気を出して一歩踏み込んだ僕の問いに、とうこさんはやっぱりすこし困ったように、申し訳なさそうに笑う。
「無いんです」
「でも、インターネットがないと、不便じゃない?」
「インターネットはできるんですけど、その、……メールアドレスを持ってなくて。……作る予定も、ないんです」
「……そっか」
僕がこれ以上踏み込んではいけないかな、と心のなかで退却を決めたとき。
とうこさんはほんのすこし身を乗り出して、僕を見た。
「だから、また、誘ってください、講義のときに」とうこさんはほんの少し早口だった。「あっ、あの、わたしからも、ときどき誘っても、いいですか?」
言われて、僕は机の下でこぶしをぎゅっと握りしめていた。……やった。
「うん、もちろん」
その日はそれぞれ会計を済ませて解散になった。日は沈んでいたので、家まで送ろうか、と提案したけれど、人通りの多いところだし、迷惑がかかるので大丈夫です、と断られてしまった。結局、二人の帰り道が同じところまでいっしょに歩いて、そこからは別々に帰った。
一人になってから、僕は携帯電話を取り出す。
画面を見つめて、思わず立ちどまった。
「連絡ができないって、思ったより、もどかしいな」
会って、話して、食事を共にして、でもメールアドレスも電話番号も知らない。それは思った以上に、不便だった。
「でも、二十年くらい前って、それが当たり前だったんだよな」
昔は、好きな子を遊びに誘うのだって家族が共用してる電話にかけて、本人が出るか家族がでるかドキドキしながら連絡を取ったらしい。
メールも携帯電話もなくて、とうこさんは不便じゃないんだろうか?
それともやっぱり、まだ距離を置かれているんだろうか。
僕は抱えたもやもやした気持ちをあたりさわりのない言葉に変えてSNSに打ち込み、電子の海へと放流した。
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