III. 魔眼
心臓を貫いたはずなのに死なない少年。
近づいてくる恐怖の存在に彼女は殺されると思った。
だが、違う。彼が見ていたのは、彼女ではなく、彼女の後ろにある屋上への出入り口。
彼女がそれに気づいて振り返る間もなく、もう一つの恐怖が姿を現す。
一瞬のうちに彼の背中の後ろに現れたそれは、彼女のよく知る姿をした、闇に呑まれてしまった者。
目の前で何人もの命を奪っているところを見た、化け物の姿。
「先輩。屋上は今日の放課後じゃあなかったっすか?」
彼女に背を向けて熊無が口を開いたが、その内容を彼女が理解するのには少し時間がかかった。
何故なら、その化け物の手が握るものに目がいってしまったから。
思わず声が出そうになってしまうが、彼女は自らの口を両手で抑えて、声を必死に押し戻す。
(もう……)
彼女が守れなかった一つの命が、化け物の手の中で遊ばれていた。
そして、悪魔の正体は、着ているその制服からも明白で、彼女とも少年とも同じ、この屋上の学校の生徒だ。
だが、そこで彼女は気が付いてしまう。
彼女の左眼は彼女を中心とした半径百メートル以内の悪魔を見つけることができる。
それは常時ではなく、彼女が見ようと意識しなければ見ることはできない。
目の前の少年が悪魔だと見えた時には確実に、今急に現れた化け物は存在しなかった。
「おい。お前は後ろの出口から逃げろ」
その声は今の彼女には聞こえていない。
(嘘……なんで……?)
「逃げろ――――!」
呆然としていた彼女の耳に届いた少年の声。振り返りながら彼女に向かってくる少年。
何が起きているのかがさっぱりわからないまま、彼の横腹から大量の血が流れ落ちて、彼女にもかかった。
自分の方に倒れこもうとする彼を座ったまま後ろに下がって避けると、小さな声で舌打ちしながら何かを呟いた。
倒れた熊無の背後に現れたのは、右手を真っ赤に染めて、瞳以外の白い部分も真っ赤に染めた化け物。
彼は自分の身を呈して、彼女を守った。
しかし、何の目的があって悪魔が自分を守ったのか。そんな悪魔は彼以外に見たことがない。
左眼で今目の前で立っている悪魔を見ることができなかった理由など考えている暇はない。
彼女は左眼につけた眼帯を取って、地面に転がった十字架の形をした剣を手に取った。
これ以上の犠牲は絶対に出させない。
彼女の中で何かが吹っ切れた。
(皆を守るんだ……! だって私は――――)
「――――
その瞬間、彼女の左眼で見ていた景色が変わった。
彼女がいつも左眼を眼帯で覆っていたのは、単にその真っ赤な眼を他の人に見せたくないからではなかった。彼女自身が左眼から見える景色を嫌っていた。
悪魔を探す時以外は全てのものが赤く映った。それはまるで血に染まっているかのように。
友人のそんな姿など見たくはない。だから彼女は、左眼の景色を消した。
だが、いま彼女の左眼で見ている景色は、全てが真っ赤ではなく、鮮明に色づいている。
こんな事は、左眼が赤に染まってから一度も無かった。
そして、無かったはずの黒い瞳が現れ、それは化け物の眼と同じになった。
悪魔の眼。
彼女の左眼は紛れもなく、悪魔のもの。
悪魔を捉えることのできるそれは、悪魔全員が持っている訳ではない、非常に珍しい眼だ。
そんな代物を彼女が持っている理由には、勿論、彼女の家が関わってくる。
昔。見た者全てを殺す眼を持った悪魔が日本に出現した。
珍しい眼を持つ悪魔は、悪魔の中でも強い個体であり、
そこで彼女の先祖のとった方法が悪魔を自らの中に封印することだった。
自らの中に悪魔を封印した先祖の左眼は腐り落ち、その眼は悪魔と同じ様相をしていた。
それからずっと、水無瀬家はその悪魔を代々、封印し続けてきた。
彼女の祖父が亡くなると、その悪魔は彼女の中に封印され、左眼は真っ赤に染まり、黒き瞳は無くなった。
見ただけで人を殺す魔眼は、人に宿るのと同時にその能力を変え、悪魔を捉えるものになった。だが、本来の能力は人を殺すほどの魔眼なのだから、人に封印されているとは言え、それだけでは収まらない。
彼女の感情を表しているのか、悪魔を捉える能力だけしか彼女は使えなかった。
祖父が使えていたはずのもう一つの能力を使えなかったのだ。
その理由は明白だった。悪魔を殺す事に対する複雑な感情が自分の中を巡っていたから。
だが、今は違う。
複雑なものは一つに纏まって、それが正しいのかは分からないけれど、それを貫こうと思った。
皆を守るために力を使う。
彼女の覚悟に魔眼の悪魔が反応したのか、霞んでいた景色を鮮明にする。
景色の中で唯一佇む化け物を彼女はその眼で捉えた。
同時に化け物の足元に異様な影が出現する。
それは化け物の姿を落とした影ではなく、吸い込まれそうなほど黒い、沼のようだった。
彼女にとっては見た事のあるもので、それが何なのかもすぐに分かった。
左眼は悪魔を捉えるだけでなく、捕らえることができる。
足元に広がった黒い沼は悪魔の足を捕らえ、動けなくする。
人よりも素早く動ける悪魔の動きを封じるのは、非常に有効な手段で、円滑に悪魔祓いを進めることができる。今は悪魔祓いではなく、悪魔を殺すことだが。
十字架の形を成した剣を携えて、彼女は動けない悪魔に近づいていく。
動けないとは言っても捕らえたのは足元のみで、沼から脱出しようと上半身は暴れている。
今のうちに殺さなければ、生首だけとなった女子生徒のような犠牲者が増えるかもしれない。
目の前の男は人間ではなく、悪魔。
自分を助けて倒れてしまった彼を刺した時のように心臓を貫けばいい。
同じことをすればいいだけだ。
彼女は一歩近づけば剣を刺せる位置まで来ると、その足を止めた。
胸を剣で刺せば死ぬ。
先ほどやったことなのに急に怖くなった。
彼は心臓を刺してもどういうわけか死ななかったが、それは彼が例外なだけで、目の前の悪魔は死んでしまうだろう。
それは人間だった者を殺すということ。
彼女の覚悟が揺らぎ始める。
『甘いな』
誰かにそう言われた気がした。いや。実際に言われたのかもしれない。
魔眼の悪魔に。
悪魔となった男子生徒との間の距離は確実に短くなっていた。
彼女が動いたわけではなく、悪魔が彼女との距離を縮めてきた。
(馬鹿だなぁ……私……)
足元に広がっていたはずの黒い沼は消え去っており、いつも通りの屋上のコンクリートが見えた。
その視線はすぐ、空へと向く。
悪魔に首を絞められ、彼女は体を持ち上げられる。
握っていた剣も手から離れた。
自分はこの悪魔に殺されて死ぬ。
死んだらどうなるのか。封印された悪魔は自分の体を乗っ取ってしまうのだろうか。
(何も考えずに刺せば、死なずに済んだのに……)
それでも彼女は考えずにはいられなかった。
(神様……私は間違っていたんでしょうか……?)
自分はきちんと光を求めて抗えていたのか。
神様は答えてくれない。
神に祈れば救われるというのなら、いくらでも祈ろう。
「たす……け……て……」
その声が届いたのか、彼女の体は急に落下し、誰かに背中を抱きかかえられる。
彼女の首を掴んでいた悪魔の腕が切り落とされていた。
目を開けると、青空とともに見知った顔が映る。
「おにい……さま……?」
その問いに実の兄はにこりと微笑む。
「無理はしなくていいって言っただろう? 自分を犠牲にしてまで他人を守ろうなんて考えは愚かだよ」
「ごめんなさい……」
兄の言葉は彼女の胸に突き刺さる。
優しい口調だが、時には厳しいことを言ってくれる兄は家族の中で最も信頼できる。
「悪魔は……?」
「大丈夫。もう動けないよ。あとは止めを刺すだけ」
そう答えながら彼女の背を支えたまま座らせる。
彼女の目に映ったのは、既に四肢を切られて動けなくなった悪魔の無残な姿だった。
兄は、彼女を助けながら、悪魔の四肢を捥ぎ取った。
止めを刺していないと言っていたが、一瞬のうちに手足を切った彼ならば、止めを刺すのは造作もない事だろう。
悪魔を殺さなかったのには理由があるはず。彼女のように躊躇ったというわけではなさそうだが。
恐る恐る兄の方に視線を戻すと、先ほどの表情とは打って変わって、深刻そうな顔をしている。
それを見た瞬間、彼女は察した。
「今朝のお父様の発言は本気だ。僕が手助けした事はよくは思わないかもしれないけれど、止めを刺したのが千鶴なら、この悪魔を殺したのは紛れもなく千鶴だ。お父様だって何も言えないよ」
兄は優しい。だが、その優しさは今の彼女にとって、重く圧し掛かる。
できるなら止めを刺してもらいたかった。
今朝の父の言葉が本当だと言うのは十分に分かっている。
躊躇う彼女の手に兄によって剣が握らされる。
冷たいその刃は兄の手の誘導の下で四肢が無くなった悪魔の首に向けられた。
「……やめ――――」
彼女が拒もうとした瞬間、刃は悪魔の首に突き刺さった。
この日、初めて悪魔を殺した。
兄に手を添えられながら、彼女の意思に反して、悪魔に止めを刺す結果となった。
彼女は悪魔ではなく、人を殺したという認識の方が強く残った。
「さて、彼はどうしようか?」
兄は屋上の床で倒れた熊無に目を向けた。
彼は自分を悪魔から守ってくれたが、兄にとってはそんな事は関係ないだろう。
彼は悪魔だ。彼女の左眼でそれは証明済み。
だが、兄は彼が悪魔だと気づかないかもしれない。
「彼は……」
彼女がどう説明しようか悩んでいるうちに兄は熊無の方へと近づいていく。
「千鶴を守っていただいてありがとうございます」
丁寧に頭を下げる兄だが、うつ伏せに倒れこんでいる彼は反応を見せない。
「きゅ、救急車呼ばないと!」
彼女が慌てた様子で声を張ると、兄の方は冷静に首を横に振った。
「それはやめておいた方がいいよ。彼は人間じゃないみたいだからね。病院の方が混乱しちゃうよ」
既に彼が人間でない事は兄にバレていた。
「それにしても心臓を刺されても死なないなんて面白いね、君。名前なんて言うの?」
背中の刺し傷から心臓を剣で刺した事を確認したようだ。
意識がないであろう相手に何を質問しても無駄だと思うが、兄には彼が狸寝入りしている事が分かっていたらしい。
「
聞こえないくらいの舌打ちをすると、名前を言って起き上がる。
「熊無くん。君は悪魔で、僕は
「俺を殺すつもりっすか?」
睨みつける男子生徒に対して、兄は笑みを浮かべる。
「殺すなら殺してやるって目をしてるよ。血がなくてフラフラなそんな状態で戦うつもりかい?」
「いや、元々貧血持ちなんで。いつもこんな感じっすよ」
「
「は?」
彼は意表を突かれたような表情をした後、訝しげな目で兄を見る。
彼女も同じような表情を浮かべていた。
何とかして彼を見逃してもらおうと、話を考えていた最中にそんな事を言われたからである。
「だから、僕は君を殺す気はないって言ってるんだよ」
「……お前狩る側だろ? そんなんでいいのかよ……」
「まあ、僕の姉さんだったら君を見逃したりしない。でも僕は姉さんとは違って、悪魔なら全て殺してしまえって姿勢で
狩られる側からすれば、狩る側の言い分はどうにも信用ならず、彼は複雑な表情をする。
兄が冗談を言うような人ではない事を彼女は知っているので、その言葉を聞いて少しだけほっとした。
一度でも殺そうとした人物が殺されないで済むと分かって、安堵する自分も相当おかしな人間だと思いながら、胸を刺した事について謝らなきゃと頭を下げる。
「何の話も聞かずに刺しちゃって、本当にごめんなさい。私の左眼。悪魔を視ることができて、それでこんなにも近くに悪魔がいることに驚いて、それで、えっと……」
言葉を上手く纏められず、その先が出てこない。
「千鶴は家に電話して。この一件の後処理をしないといけない。姉さんとお父様にだけは伝わらないように、田岡を通してやってくれ。電話したら教室には戻らないで、保健室に行くんだよ。千鶴も怪我してるでしょう? 熊無くんは僕と少し話を」
「……はい」
兄の言葉に従って、兄と彼のその後が気になったが、大人しく電話を掛けた後に保健室に向かった。
これで今日の出来事は終わるとそう思っていた。
だが、長い一日はまだ始まったばかりだった。
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