II. 心臓
熊無煌心。
彼は普通に生まれ、普通に育ってきた。
ただ一つ、普通じゃないことを挙げるとすれば――――。
「おい、お前。今オレのこと睨んだだろ?」
入学早々、廊下を歩いていただけで、先輩に目を付けられる。
彼は決して睨んでなどいない。ただすれ違った人物を見ただけだ。
「睨んでないっすけど?」
「は? 今も睨んでんだろ?」
「いや……生まれた時から目つき悪いんで」
そう。見ただけなのに、睨んでいると思われてしまうような目つき。眉間に寄ったしわ。
この顔のせいで、どれだけの面倒くさい事に巻き込まれたかは、数える気にもなれない。
それだけ自分の顔は人の気を害するものらしい。
それは初めて自分の姿を鏡で見た時から知っている。
初めて見た時、なんでこいつはこんなにも人をイラッとさせるような顔をしているんだと、自分でも思ったくらいだ。
幼稚園の頃には園児は誰も近寄って来ず、先生にまで見放され、それからずっとこのざまである。
一匹狼と言えば聞こえはいいが、狼というよりも兎の方がしっくりくる。
こんな顔で人が寄りついて来ないからこそ、人に可愛がられたいという思いが強いのかもしれない。
「どんなとこ行っても先輩みたいな人っているんっすね」
「あ? 入学したばっかで調子乗ってんじゃねえよ!?」
こんな奴らに絡まれるのが嫌で、勉強して偏差値の高い高校に入ったのに、やはりどこにでもこうやって突っかかってくる連中がいる。
それに彼の目の前にいる先輩は、その中でも一際沸点の低い部類に入るようで、彼目がけて拳を振るってきた。
熊無はそれを右手で軽々と止めて、その拳を握り潰さんとばかりに力を入れる。
「い、いでぇぇえええええ――――!!」
「ありがたいっすわ。入学早々、先輩に可愛がっていただけて。これからも宜しくお願いしますね」
そう言い放つと同時に、手を緩めて、何事もなかったかのように、廊下を歩きだす熊無。
余裕の笑みを浮かべながら、廊下を歩いていた彼だったが、彼の向かったのはトイレだった。
すぐさま個室に入って、ズボンを脱いで便座に座る。
一息吐くと、彼の余裕の表情は一変し、焦りが支配した。
(び、びびったぁあああああああ――――! まさか殴ってくるとは思わねえし! もう無理、この学校! 入学早々辞めたいんだけどぉおおおおお!)
彼は顔に似合わず、兎のように臆病だった。緊張するとすぐにお腹が痛くなってしまう。
できることなら先輩に目をつけられたくはないし、面倒事にも巻き込まれたくはない。
だが、自分の中にいる何かがそれを許しはしなかった。
悪魔。
それは闇に堕ちてしまった人間の成れの果て。
闇に堕ちた人間に悪魔が囁くことで契約は成立する。その契約からは決して逃れられず、祓うこともできない。
悪魔祓いがまだ有効だった頃は悪魔は人間と契約していたのではなく、ただ憑りついているだけだったが、今は契約を交わし、殺す事でしか悪魔を祓えない。
ただし、悪魔にもリスクは存在する。それは契約した人間が殺されれば、その悪魔も死ぬということ。
彼の目の前に現れた悪魔も、彼と契約する為だと思われたが、その目的は全く違った。
それは彼が中学二年生の時だった。
下校途中にすれ違った少女から彼は声をかけられ振り返る。
「お前、その顔から不幸が滲み出ているな」
「なっ! 初対面のやつにそんなこと言われたくねえ!」
「私が見えている時点でお前は既に不幸だ」
意味の分からない事を言う同じくらいの年齢の少女。これが所謂中二病というやつかと思い、無視して家に帰ろうとしたその時、背中に衝撃が走る。
最初は少女に背中を殴られたのかと思って振り返ったが、違った。
「ここで出会ったのも何かの縁だ。私がお前を幸せにしてやろう」
彼女はそう呟いた。何かを掌の上に乗せて、彼に見せつけながら。
「え……?」
自分の身に何が起きたのか理解できなかった。
手の上でドクドクと動く、赤い何か。
「それ……俺の……?」
少女の手に握られていたのは――――少年の心臓だった。
自分のだと思ってそう呟いたものの、そんな事などあり得るはずもない。
自らの心臓のあたりを見ても触っても傷は見当たらず、血も出ていない。
だが、少女は首を縦に振って、彼の言葉を肯定した。
「お前の心臓だ。信じられないなら潰してみようか? 不幸な人生とおさらばできるぞ」
「や、やめろよ! てか意味が分からん! 急に声かけてきて! グロいもの手に乗せてさあ! これがお前の心臓だとか言われても分からんわ!! それに人のこと不幸不幸って! いい加減にしろよ!」
「うるさい」
少女は手に力を入れて、赤い物体を強く握る。
するとその瞬間、少年の身に異変が起こった。
「うっ……!?」
苦しそうに胸のあたりを抑えながら、膝から崩れ落ちる。
偶然なのか。それとも本当に自分の心臓なのか。
「どお? 自分の心臓を掴まれる感覚は?」
「一体何者なんだよ……!?」
少女は明らかに普通の人間ではなかった。
「悪魔だよ。けど、お前ももう人間じゃないけどね」
「は……?」
「心臓を抜き取られて生きてる人間なんていないよ。悪魔でもそんな奴はいないけどね」
少女の手を見ると、既に心臓はそこにはなかった。そして、彼の中にも存在していなかった。
だが、胸の苦しみは強くなる一方だった。
「返せよ……!」
「それはできないよ。もう捧げちゃったんだから。まあ、私を殺せば返ってくるかもしれない」
地面に手を着いて少女を見上げる。
少女は不敵な笑みを浮かべていた。
「殺せるならね?」
「そうかよ――――」
胸の痛みがスッと消えると同時に、彼の中に得体の知れないものが沸き上がる。
怒りの感情とともに沸き上がったそれは、一瞬のうちに少女との間合いを詰めて、少女の腹を右手で貫いた。
自分は悪魔だと言った少女だが、人間と同じように赤い血を流してみせる。
「やるねぇ。でも残念、時間切れ」
そう言うと彼女の姿は、フッと薄くなり、消えてなくなった。
その日以来、彼はその少女とは会っていない。
その日以来、彼は人間ではなくなった。
悪魔を名乗った少女が何故彼の心臓を奪っていったのかは、誰にもわからない。知るのはその少女のみ。
彼が自らの心臓を取り戻すには少女を見つけるしかなかった。
そして、彼が水無瀬千鶴に胸を貫かれるその日。
彼はいつも通り登校していた。
今までに何度か
自分は悪魔なのか悪魔ではないのか。分からないが人間でないことは確かだった。今も心臓は彼の内には存在しないのだから。
教室へと向かう途中、彼は懐かしい人物と顔を合わせることとなる。
「よぉ、熊無」
話す気はなかったが話しかけられては無視することはできない。
「なんすか先輩」
入学早々に声をかけてきた上級生がそこにいた。
その先輩とはその日以来何もなかったのに、何故今になって、と疑問に思う。
「今日の放課後屋上来いよ。一人でな」
「怨恨っすか?」
「どうだろうなァ?」
にやりと口を歪めると、熊無を横目に廊下を歩いて行った。
何か余裕気な表情をしていたが、大体の想像はつく。
多分、放課後の屋上には先ほどの上級生とともに大勢の人々が待ち構えているのだろう。
多勢に無勢とは言うもののそれが通じるのは人間だけだ。
人間ではなくなった彼には、そのことわざは通用しない。
だが、彼は顔が厳ついだけで、臆病だった。
だから、昼休みも終わりに近づいた段階で、極度のストレスから、直前に食べた昼ご飯がそのまま出てきそうなくらいにお腹を下していた。
(腹いてぇー! これはマジでやばい奴……穴から腹にあるもん全部出てきそうなくらいやべー……)
すぐさま教室と同じ階にあるトイレの個室へと向かった彼だったが、そんな彼に悲劇が襲う。
全ての個室が赤で、空きがなかった。
凄まじい形相で個室のトイレを求めて階段を駆け上がる。
そして、一つ上の階の男子トイレに駆け込むと、ロックする部分が青色となっている天国が存在していた。
人間を超越した身体能力でトイレの個室に入って、ズボンとパンツを下げて便器に座る。
(た、助かったぁ……)
地獄が一瞬にして天国に変わる感覚を味わいながらトイレットペーパーに手を伸ばす。
何回か拭いて、流しながら立ち上がって、下げていたものを上げて、ベルトを締める。
「はぁー……すっきりしたー」
思わず声に出しながら扉を開けてトイレを出ると、思いもよらない景色に彼は動作を一時停止した。
ドアを開けて、彼は足元に転がった大きなものに目がいった。
その大きなものは人くらいの大きさで、彼の今いる高校の女子の制服を着たマネキンだと思った。
しかし、首から上が千切られたようなそれは、妙に現実味を帯びていて、千切られた首元からトイレの床に赤い液体が広がっていく。
「これ……――――人……?」
それはマネキンではなく、生身の人間。頭を引きちぎられた女子生徒の死体だった。
その事実に気が付くのと同時にトイレの窓の方から音が聞こえて、彼は反射的に窓に近づき、外を覗き込んで下から上まで隈なく見る。
人の目では見逃してしまうような屋上へと消える影も、彼の目はちゃんと捉えていた。
「屋上……」
嫌な予感が彼の頭の中で暴れまわろうとするが、今は考えている時間も惜しく、彼も屋上へと向かう。
階段では遅いと考えた彼は、既に少しひしゃげたトイレの窓の桟に足をつけると、そこから飛び降りるかのように跳躍した。
トイレの窓の桟は彼が乗った時よりもひしゃげ、コンクリートには大きな亀裂が生まれる。
飛んだ彼は自由落下することなく、フェンスを越えて屋上へと降り立った。
目の前の屋上への入り口を見て、キョロキョロしながら今度は入り口に背を向けた。
彼の捉えた屋上に向かった影は見えない。
どこかに隠れているか、もしくは彼の見間違いだったのか。
後者は多分ない。確かに逃げるように屋上に向かう影を彼は見た。
しかし、屋上に隠れられる場所など存在するのかと思っていたその時、彼は気づいた。
屋上の入り口の方へ振り返ろうとした刹那、彼の背中に殴られたような衝撃が走った。
「これでおしまいです――――」
女子の声が耳に届いた。
彼の背後にいるのは、この高校の女子生徒。だが、違う。彼が捉えた影は彼女ではない。
そして、彼は彼女の手に握られた刃によって背中から胸を貫かれた。
(こいつ……
口からは血を吐き出し、貫かれた胸からも大量の血が制服を赤く染めていく。
膝から崩れるように倒れこんだ彼は、一瞬意識が遠のきそうになったが、倒れた衝撃で目を覚ます。
「狙う相手……間違えてんぞ……くそアマ……」
腕に力を入れて起き上がる。
口から血の入り混じった唾というよりも唾の混じった血を吐き出しながら、自分を刺した人物の方に目を向ける。
左目を眼帯で覆った女子生徒は信じられないというような表情で血の付いた十字架の形をした剣を持ったまま動かない。
「どうして……どうして、まだ生きてるの……!?」
心臓を貫かれても死んでいない目の前の存在にただただ彼女は恐怖しているようだった。
いつもは人間として生活しているのに、その瞬間、自分が人間ではないことを再認識させられる。
呆れるように彼は笑みを浮かべてみせた。
「俺はなァ……神様から嫌われてんだよ」
立ち上がりながらそう呟くと、彼女はじりじりと後ろに退き始める。
そして、躓いた彼女は握っていた剣を落としながら、地面にしりもちを搗く。
女子高生を見下ろすと、そこで初めて、彼女が自分と同じクラスの女子生徒だと気づいた。
「どうして……」
自分に殺されると思っているのか彼女は怯えた声色で言った。
だが、彼は彼女を殺すつもりなど毛頭なかった。
屋上への入り口の扉が、彼の目の前で開く。
「どうして……? そりゃあ、お前。心臓を神様以外の奴に捧げちまったからだろうなァ?」
それはただの皮肉だった。意味も分からず、悪魔に心臓を取られてしまった。それだけだ。
進んで悪魔に身を売った奴ならば、すぐ傍にいる。
扉の向こうにいる存在。それが
開いたドアから出てきたそれは一瞬にして、彼の背後へと回り込み、それを目で追った彼も後ろを振り返った。
人の生首を持った人間。それは人間のように見えて人間ではない。
腕の血管は浮き出て、龍のように脈打つ。
剥き出しの牙から垂れ落ちる涎は獣のようで、瞳以外の白い部分が真っ赤に染まった眼。
手に握った生首の眼をぐりぐりと弄るそれは、熊無が今日会った人物だった。
「先輩。屋上は今日の放課後じゃあなかったっすか?」
冗談交じりの質問だが、彼の顔は笑ってなかった。いや、笑う余裕すら今はなかった。なんでこんなにも余裕がないのか、その答えは探さなくともすぐに分かった。
その獣のような人は言葉が通じないのか、質問には答えず、ただ手元の女子の顔を弄る。
返答は望めないと判断した熊無は次の行動に移ろうとするが、そこで初めて自分の体の異常に気が付く。
というより、胸を貫かれても平然と立ち上がった今までが異常だったのだ。
足が全く動かない。まるでその場に根を張ったようだった。
目の前の化け物は、こちらに関心を示していない。これ以上、女子生徒のような犠牲を増やさない為にも、叩くなら今しかない。
そう思っているのに体が動かない。
(
心の中でそうは言うものの、万全の状態でも勝てるかどうかは分からない。
完全に悪魔にその身を売った者と、ただ勝手に心臓を奪われて、悪魔に成り損なった者。
どちらが強いかと言われれば、前者な気がする。
これまで悪魔に呑まれた人間に対峙したことはあっても、会話も通じないくらい呑まれている者に出会ったのはこれが初めてだ。
その分、契約が重いのか、それとも恨みが強いのか。
恨みというのはまさしく自分に向けられたものだ。ならば襲い掛かってくるのは、自分の方か。
目の前の化け物を警戒しながら、後ろの女子高生に目を向ける。
彼女はまだ何も信じられないとばかりにただ茫然と目の前を見つめていた。
「おい。お前は後ろの出口から逃げろ」
届かないかもしれないと思いながらも告げた言葉だったが、やはり彼女には届かず、逆に反応を見せたのは怪物の方だった。
持っていた頭を手放し、血眼で彼らを睨める。
だが、怪物が本当に見ていたのは“彼ら”ではなく、二人のうちの一人だけ。
それに熊無が気が付くのと同時にあれだけ頑なに動かなかった足が動いた。
「逃げろ――――!」
彼は叫びながら、彼女の元へ近寄りながら怪物を見た。
既にそこには女子の頭だけが残されており、異形の者の姿はなかった。
狙いは自分ではなく、左眼に眼帯をしたクラスメイト。
全く動かない彼女に覆い被さるのと同時に右の横腹から背中にかけて、痛みが走った。
見なくても傷の状況が分かるくらい、地面にドロドロと垂れ落ちる血液。
もはや立つことさえもできずに前に倒れかかった彼だが、彼女はそれを避けるように後ろに下がった。
誰にも支えてもらえずに地面にうつ伏せに倒れこんだ彼は、怒りを露わにする。
「くそアマ……」
心臓もなく、人よりも傷がすぐに回復する化け物だが、それでも傷を負わされれば痛いし、血がなくなれば死ぬ。
それなのに、彼女は自分にとって不利益な事しか今のところしていない。
なんで、こんな女のために体を張ったのか。
しかし、そう思いながら睨みつける彼女の表情は先ほどとはまた違うものになっていた。
(……最初からそういう表情しとけよ)
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