I. 眼帯

 水無瀬みなせ

 彼女はいつも自分の苗字に悩まされてきた。

 貴族階級の家柄で、それはこの地域に住む人々には周知の事実。

 人に会った時、自分の名前を言った瞬間に相手の態度が一変する時もある。

 今のうちに媚びを売っておこうと、汚い目つきで体を嘗め回すように見られる。



「なによー。そういう時はあのかっこいいお兄様が助けてくれるんでしょ? 私みたいな庶民には自慢話にしか聞こえないよ」


 黒髪でボブの髪型。きりっとした顔立ちの友人が呆れるように溜息を吐いた。

 それを目の前で見ていたのは、肩口まで黒髪を伸ばして、可愛い顔立ちをした少女。

 彼女は眉間にしわを寄せて、頬を膨らませた。

 水無瀬千鶴ちづる

 彼女は、自分の家柄にコンプレックスを抱いている普通の女子高生だった。ただし、左目にした眼帯を除けば。

 そんな彼女の友人の名は、佐藤ゆきで、彼女こそが正真正銘の普通の女子高生だった。


「自慢なんかしてない! 私が言いたいのは、生まれたこの家が嫌だってこと!」

「だからー! 私! 佐藤! 完全なるパーフェクト庶民! 千鶴ちゃんのそういう感覚わかんないって!」

「ううっ……だってぇ……今朝だって――――!」


 目の前の友人に今朝の出来事を口にしようとしたが、すぐに自制する。


「今朝がどうしたって?」

「……なんでもないもん!」

「そうやってすぐ拗ねるんだからー。まあそういうところが可愛いところなんだけどねぇこんにゃろー」


 佐藤雪に髪の毛をぐしゃぐしゃにされる水無瀬千鶴は、嫌がりながらも嬉しそうに微笑んだ。

 この関係を壊さないためにも彼女には言ってはいけない秘密がある。

 それは先ほど話してしまいそうになった今朝の出来事と深く関わっていた。



 彼女の家には決まりがある。

 それは毎朝家族そろって朝食を食べること。

 祖父、祖母、父、母、姉、兄、そして彼女。誰も欠けてはいけない。欠席は決して許されない。

 実際、彼女が生まれてから今に至るまで、朝食の時に誰一人欠けた者はいなかった。

 そして、朝食の時間に行われる家族間の会話は、普通の家庭で繰り広げられるようなものではなく異様なものだった。


 白くて長い食卓に、家族七人がそれなりの距離を空けて座っている。 

 次々と使用人が食べ物の乗った皿をテーブルの上に置いていく。

 食事だけでなく、蝋燭や花なども飾られており、まさに西洋の食卓といった雰囲気だった。

 服装も彼女と兄は学校の制服で、他の人物も正装している。

 ナイフとフォークが器に当たる高い音だけが空間に鳴り響き、誰も口を開こうとはしない。

 食事の間は誰も口を開いてはいけない。それも家の決まりだった。

 話していいのは、食事が終わって、コーヒーや紅茶などの暖かい飲み物が運ばれてきてから。それも、父親の声を聞くまでは話してはならない。

 息も詰まりそうな状況だが、それを十年以上も毎日繰り返してきた彼女はこの状況の方がむしろ良かった。父親とは話したくなかったから。


「千鶴。学校はどうだ?」


 父からの質問で一気に彼女の緊張が高まる。


「い……いつもどおりです。勉強も順調ですし、友人関係も――――」

「そんな話を聞きたいのではない」


 彼女の言葉を遮るように言い放つ。

 父親の望んでいる回答とは違うことを彼女自身も分かってはいたが、自分からは言いたくなかった。


「“悪魔”を狩ったのか。俺からお前に質問するのはそれだけだ」

「……いいえ」


 その言葉を聞くと父は大きな溜息を吐いてみせた。


「お前は何のために生きている? その眼は何の役にも立たない、ただの飾りか?」


 何も答えられず、ただ、父の顔を見ないようにするしかない。

 父はその間もずっと自分の事をじっと睨みつけていた。


「このまま黙っていれば済むと思っているのか?」

「……悪魔も……」


 声を喉から搾り出すのと同時に涙も零れ落ちそうになる。

 それを必死に我慢しながら、彼女は続ける。


「元は人間です……人間を簡単に殺す事なんてできません……」


 悪魔。それは闇に堕ちてしまった人間。それを殺す事が彼女の一族の使命。


「何を馬鹿なことを……悪魔は人間ではない。子供の頃からどれほどの悪魔を見てきた? お前は“あれ”がずっと人間に見えていたのか?」


 父の言う通り、彼女は今までに数えきれないくらいの悪魔を見てきた。それを思い出しただけでも、恐怖が頭の中を支配する。


「お前一人で、今日中に悪魔を殺せ。いいな? 一体も殺せなければ、お前はもう……」


 そこから先の言葉を言うことなく、父親は食卓を後にした。

 それを追うように母も席を外し、祖父母、姉も出て行った。

 残されたのは、同じ高校の制服を着た兄と妹だけになる。


「僕もお父様の考えはおかしいと思う。彼らは悪魔に憑りつかれてしまっているだけの人間。やっぱり、僕にも躊躇いはあるよ。だから千鶴も無理はしなくていいからね。一人でできないって思ったら、いつでも呼んで」

「ありがとう……お兄様」


 にこりと微笑んで兄も立ち上がって、去っていった。



 彼女の家系は代々、悪魔祓いエクソシストとしての使命を果たしてきた。

 最初は悪魔を祓うことが主だったが、今では悪魔を殺すことを目的としている。つまり、悪魔と化した“人間”を殺す事を。

 そこに違和感を持つようになったのも、彼女の兄が影響していた。

 彼女が悪魔祓いエクソシストであることは、一族の人間と他の悪魔祓いエクソシストの者しか知らない。

 そして、彼女の一族は悪魔祓いエクソシストの中でもトップクラスの実力を誇る名の知れたものだった。



 父親の言葉は決して冗談ではない。

 今日中に悪魔を殺さなければ、彼女は家にいられなくなるのは必至だ。

 今は昼休みなので、タイムリミットは残り約12時間。

 トイレに赴いていた彼女は鏡に映る自分の姿を見つめる。

 左目の眼帯に触れながら、彼女は今までの事を思い出す。

 悪魔は人を傷つける。その現場に彼女は何度も居合わせてきた。怪物に襲われた人々は酷い有様だった。

 大切な友人を同じような目に遭わせるわけにはいかない。


「私が……守らなきゃ……!」



 その為に彼女の左眼はある。



 誰もいないのを確認するのと同時に、彼女は手で十字を描き、眼帯を外して、その眼をカッと見開いた。



 彼女の左眼は人のものではない。黒い瞳はなく、ただ紅いだけの異様な眼。

 その眼が捉えるのは彼女の前の景色ではない。彼女を中心とした半径百メートルを一気に見渡す。

 すると、ある一人の人物に彼女は引っ掛かりを覚えた。

 それは同じ階にいる。彼女はすぐにどの教室にいるかも特定することができた。何故なら、


「同じ教室……クラスメイト!?」


 彼女の左眼が捉えたのは、あろうことか級友の姿だった。



 紅く染まった左眼が捉える者は全て悪魔。



 悪魔を見分けるのは難しい。彼女の兄や姉のように優秀な悪魔祓いエクソシストでさえ、その目で見て初めて悪魔か判断できる。

 つまり、半径百メートル以内の悪魔を見つける彼女の左眼は規格外に優れており、且つ、悪魔を殺すのに長けていた。

 彼女も生まれつきその眼を持っていた訳ではなく、最近になってその眼を手にした。

 役立たずの自分が何か役に立つには、“実験台”になるくらいしかなかった。

 しかし、未だに悪魔を殺せていない自分は、父にとっては役立たずだ。

 役立たずは家にはいらない。

 今日は何が何でも悪魔を殺さなければならない。

 そんな中、近くにいた悪魔は彼女も知っているクラスメイトだった。


「うそ……」


 眼帯でまた左眼を塞ぐ彼女だったが、既に人物の特定にまで至っていた。

 熊無くまなし煌心こうしん

 珍しい苗字だったので、記憶にあった。

 積極的に発言したりする人物ではないが、見た目は怖い雰囲気で、誰も近づかない。

 それは見た目だけでなく、先輩と喧嘩したという噂がしょちゅう流れていることも原因に挙げられる。

 こんな身近に悪魔がいたなんて思いもしなかった上に、今まで気づかなかったというのも逆に怖い。

 それだけ人間を完全に装えている悪魔なのか、最近悪魔になったばかりなのか。

 どちらにせよ、彼女の左眼がおかしくない限りは、悪魔なのは確かで、悪魔祓いエクソシストとして殺さなければならない敵だ。



「どーしたの? 千鶴ちゃん、さっきから熊無くんのことばっか見てるよー?」

「み、見てないもん……」

「熊無くんはやめといた方がいいよー。お嬢様だから、そういう人に惹かれてるかもしれないけど」


 教室に戻ってから、熊無をずっと監視していた彼女は、何か勘違いしている友人に溜息を吐いてみせる。


 全くそんな気はないし、むしろ苦手とするタイプの人間だ。

 それに同じクラスになってから彼と話した記憶もなく、自分から話しかけることなど一生ないと思っていた。だが、今回ばかりは、自分から接触しなければならない。

 なんで、県内でもトップクラスの学校に彼のような人が合格できたのか。

 推薦では無理そうなので、やはり実力でこの高校に入ったことは間違いない。


 目の前でにやけている友人の顔をこのまま見ていても誤解は解けそうになく、仕方がないので、また熊無の方を見ようとその方向に目を向ける。

 しかし、先ほどまで彼のいた席には誰も座っていなかった。

 思わず席を立ちあがって焦る千鶴だったが、焦る必要などなかった。

 彼女の左眼は捉えた悪魔を決して逃がさない。

 すぐに彼の今いる場所が眼帯の下にある眼を通して、頭の中に流れ込んでくる。

 階段を上っているようだった。同じ階にあるのに、わざわざ上の階に行くというのは考えにくい。

 ならば彼はどこへ向かっているのか。

 頭に過ぎるのは悪魔が人を襲う光景。


「ちょっと、どこ行くの!? 授業始まるよ!」


 走り出そうとする彼女の袖を掴んだ佐藤雪。

 その反射神経に感心している場合ではない。

 すぐさま、その手を振り払って教室を出ようとする。


「トイレ!」

「さっき行ってたよね?」

「女の子の日!」


 思いのほか大きな声で、教室中に鳴り響いてしまったことを彼女は後悔する事となるのだが、今は気に留めている暇などなかった。

 急いで左眼で彼の居場所を再度確認し、そこに向かう。

 階段を駆け上がって彼女がたどり着いた場所は、


「トイレ……?」


 男子トイレだった。

 ということは、彼はわざわざ上の階のトイレに行っただけなのか。それとも、中で何かしているのか。

 彼女の左眼では今、彼が何をしているのか見ることはできず、まして中に入って確認しようとは思わない。

 兄に連絡して確認してもらえばいいのだが、こんな事のために呼び出すのも失礼な気がする。

 昼休みももうすぐ終わりそうで、このまま男子トイレの前で突っ立っていれば、先生に不審がられる。

 そう思った彼女はすぐに隣の女子トイレの中に入った。

 個室に入って鍵をするが、座ることなく左眼で彼の居場所を確認する。

 すると、彼女に衝撃が走った。


「えっ……?」


 彼は既に隣の男子トイレにはいなかった。


「いつの間に……!?」


 すぐさま女子トイレを出た彼女は階段を駆け上がって、次の彼のいる場所へと向かう。

 屋上。

 どうやって一瞬のうちにそこまで行ったのかは分からないが、彼が悪魔であることを考えれば決しておかしくはなかった。

 悪魔は人間の時とは比べ物にならないほどの力を発揮する。それが人の役に立てばいいのだが、力を向けるベクトルを違えば、ただの脅威でしかない。

 悪魔になった時点で自分の力の制御などできるはずもなく、役に立つなどありえず、脅威の存在にしかなりえない。


 屋上へと辿り着いた彼女はゆっくりとその扉を開けて、足を踏み入れる。

 気づかれないようにそっと扉を閉めると、入り口の壁に移動して身を潜める。

 頭だけ出して彼の様子を覗いてみるが、何をするでもなく、ただ背中を向けて突っ立っているだけだった。


 何を考えているのか分からないが、彼女の見てきた悪魔はいつだって奇行に走ってきた。

 何もしていない今が、彼を殺す絶好の機会。

 いつだって彼女はその一歩が踏み出せない。

 恐怖が彼女を包み込んで彼女は寒気を感じる。

 今から相手にするのは人間か否か。

 そんな中途半端な気持ちで相手にできるほど、悪魔は優しくない。

 制服のポケットの中から取り出した十字架の腕飾りをじっと見つめる。

 それは父から与えられた悪魔を殺す道具。彼女の血に反応して、ただの飾りは刃に変わる代物だ。

 この十字架でクラスメイトの心臓を貫けばいい。ただそれだけ。

 目を離した一瞬の隙に屋上へと移動できるほどの身体能力。それを放っておくわけにはいかない。


 友人を守るために。


 ぎゅっと十字架を握りしめる彼女の手から血が滲むまでの間に、彼女の体は動いた。

 熊無の背中目がけて突っ込んだ彼女はその手に握った十字架の先端を背に突き刺した。


「これでおしまいです――――」


 彼女が呟くのと同時に十字架が剣に変化し、彼の体の真ん中を貫いた。


「くっ……!」


 血を吐きながら、膝から落ちるように倒れこむ男子生徒。同時に彼女の手元には血だらけの十字架の形を成した剣だけが残る。


「はぁ……はぁ……」


 短い距離だったのにもかかわらず、彼女の息は上がっている。

 人を殺した。

 一瞬、彼女の中でその言葉が浮かんだが、それはすぐに消え去った。


「狙う相手……間違えてんぞ……くそアマ……」


 人間ならば、心臓を貫かれても尚、口を開くことなどしない。それに加えて、男は起き上がろうと腕に力を入れ始める。

 その光景は悪魔であっても異常なものだった。

 悪魔だろうと人間だろうと、心臓を貫かれて生きている者など彼女は見たことがない。


「どうして……どうして、まだ生きてるの……!?」

「俺はなァ……神様から嫌われてんだよ」


 胸から大量の血を噴き出しながらも立ち上がるその存在は恐怖以外のなにものでもなく、彼女を一歩また一歩と後ろに退かせる。

 そして、足を躓かせた彼女は後ろに倒れこみ、十字架の剣も彼女の手から離れる。


「どうして……」

「どうして……? そりゃあ、お前。心臓を神様以外の奴に捧げちまったからだろうなァ?」

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