◇30.手を握り合って交わす約束
笑い合う
――殺してやるっ!
「うわ!」
「まじか……」
身体を起こし上げてから、ここが自分の家の自分の部屋であると認識するまでに数十秒はかかった。AC《エーシー》の時計針が示しているのは六時半。いやでもその針の上に刻まれている表記に目がいく。“
それにしても
「……あ」
しかし再度起き上がる。棚の引き出しを開け小振りな手鏡を取り出すと自身の顔を映した。ブラックホールに飲まれる直前から染まり続けていた左目の赤みは引いている。それだけではなく
「……あとで誠也に連絡しよ」
愁眉を開き、優は今度こそ二度寝をしようと横になった。
「おにーちゃんっ! おはよー!
そこに飛び込んできたのは幼き弟。ベッドにぴょんっと飛び乗ると、優の上に跨り小さな体躯を引っつけてきた。
「おおっ、びびった~。って、僕時計って何だよ、笑うわ」
にんまりとほっぺたを垂らすして笑んだ顔がこの上なく愛らしい。優は偶発的ににまついた。
「おはよう。
優に名を呼ばれたその弟・歩は、小さな足をパタパタとさせる。
「ほんとーっ?」
「うん、ほんと」
「へへっ」
すりすりとほっぺたを擦りつけて甘える歩に胸の奥がじわりと痛む。優は歩を抱き締めた。
「おにーちゃん?」
「歩、嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、何だっていい。話したいことがある時は、兄ちゃんがどんなに疲れてても、遠慮しないで何でも言ってな」
「うんっ! 言ってるよ! おにーちゃんにいっぱいお話したいから」
「……そっか。なら、いいんだけどよ」
二度寝はもうよくなった。優は歩を抱っこしたまま部屋を出ると、階段をのろのろと下り始めた。
「お、もう飯作り始めてんのか」
「今日はね、
「まじ? あいつが朝から? 雷雨でもくんじゃねーのか」
「卵焼き焼いてくれてるのっ」
「何でよりによって不得意なやつを敢えて作るんだよ。毎回こげがすげぇんだよあいつの」
最後の一段を下り、足を床へつけてやるとタタタタッ、と歩はキッチンへ駆け込んでいった。
「おっ」
優もそれに続いて
「もしもし」
「(もしもし、
「ああ平気。おっす」
「(……お、おっす)」
相手は
「(今日って休み?)」
「いや、仕事。遅番」
「(そう。えっと、話したいこともあるし、いってもいいかしら?)」
「構わねぇんだけど休憩中でもいいか? 十七時くらいにきてもらえると助かる」
「(大丈夫よ。あとで
「ああ、まじか。俺も連絡しようと思ってたんだ。それなら任せてもいいか?」
「(もちろんよ)」
「よろしくな」
仁子が切るのを待ってから優も通信を切った。
「……夢じゃ、ねぇな」
自分にしか聞こえぬほど小さな声で呟くと、優は長めの細い溜息をついた。
◇◇◇
トン、トン。
ぼやける視界と、何かの音。
トントントン。
じわじわと、意識の焦点が重なり合っていく。懐かしく、見覚えのあるベッドに真也は仰向けになっていた。首元まできっちり被せられているかけ布団。音を立てないように静かに首だけを回すと、開いている扉の先にあるキッチンで作業をしている兄の姿が覗いた。じわりと浮かんできた涙を真也はかけ布団でごしごしと強く擦る。
「起きた?」
しまった、と思った時にはもう気がつかれていた。作業を止め、パタパタとスリッパの音を鳴らしながら誠也はこちらにやってきた。
「おはよう。気分、悪くない?」
「……うん。大丈夫」
「よかった」
誠也はベッドの縁に手をかけながら、床に腰を下ろした。
「……あの、えっと、ユウくん……は」
「さっき
「おり、かさ、さん……?」
「ああ、分からないよね。またあとで話すね」
「……
取り乱すわけでもなく、怒鳴り散らすわけでもなく、誠也はごく自然に振る舞う。真也の手は伸び、そのの頬に触れた。
「うん。そうだよ」
誠也はその真也の手を優しく取ると、そっと両手で握った。もう堪えられない。真也の両目からぶわっと溢れ始めた涙は留まることなく頬を伝っていく。
「……誠っ……ごめっ……ごめんなさい……」
「……謝らないで。
赤くなった両目を、誠也はぐっと抑え込むように服の袖で拭った。
「真、あのね、お父さんとお母さんにも、真が戻ってきたって、伝えた」
真也の身体はびくんっ、と反射的に拒絶を示す。誠也が真也の手を握る力は少し強まった。
「ごめん、勝手なことして。でも、やっぱり家族だから、報告はしないといけないと思ったんだ。そのまま、聞いてほしい……」
“家族”――真也は深く頷く。
「二人とも、信じられないみたいだった。警察にも、もう恐らく死んでいるだろうって言われていた上に、丸六年も経過してるからね」
真也は涙を流しながらも静かに呼吸を繰り返す。その続きを聞くのが怖くて心は硬くなる。
「無理して、お父さんにもお母さんにも、会わなくていいから」
「……え」
思っていたのとは違った誠也の言葉に、真也は濡れている瞳を大きくした。
「真が失踪して、やっとお父さん目が覚めたみたいだった。僕、お父さんにずっと自分が思ってたこと、冷静に全部伝えたんだよね。本当はお父さんも僕達と同じようにずっと悩んでいたんだって。真に優しくしたいのに、どうしても上手くいかなかったみたい。そうしているうちに真との関係が険悪になって、取り返しかたが全く見えなくなったって、泣いてたんだお父さん……もちろん、お母さんもね」
呼吸が荒くなる。真也のすすり泣く声は、部屋中に響く。
「だからと言って、あの時出来た溝はそう簡単に埋まるものではないから、真がちゃんと歩み寄りたいって気持ちになった時は教えて。一緒に実家にいくから。それまでは、狭いけど、真が嫌でなければここにいなよ」
「……嫌じゃない……ここに……いたい。ここに、いさせてほしい……」
「……うん」
誠也の気遣いに、真也の口からは素直な気持ちが滑り出した。
「真……ありがとう。戻って来てくれて、本当に、ありがとう」
真也はもぞもぞと動き、上半身を起こした。伝えたい、この言葉を。
「違うよ……」
「何が?」
「……連れ戻してくれたんだよ、誠が」
にこっと笑んだ真也を見て、誠也は糸が切れてしまった。真也の手を握りしめたまま、涙を流す。
「も~、折角俺、止まりそうだったのにぃ」
双子はシンクロする。止まりかけていた真也の涙も再び流れ始めてしまった。
「これからは、ちゃんと……思ってることを伝え合っていきたい。そうしないとダメなんだ」
「うんっ。俺も、もう勝手にいじけたりしないね、約束」
「うん。約束だねっ……」
誠也は握っていた真也の手を離す。互いに小指だけを残して他の指を折り込むと、もう二度と離れぬようにと、固い契りを交わした。
「あっ、そういや僕、りんご買ってきて切ってる途中だったんだ」
「えっ! ほんとに!? りんご凄く食べたかったの!」
誠也がキッチンでの作業を放置していたことを思い出した。大好きなりんご、いつから口にしていないだろうか。真也は嬉しさを身体を揺らして体現した。
「誠~っ、早くっ早くっ」
「も~、やっぱ真はせっかちだな~」
立ち上がらりキッチンのほうを向いた誠也が固まった。
「はーあい♫ 出来てますわよ~、うふっ」
「うぎゃああ! 不審者あ!」
「真ちゃーん、よ~く見て~!
何故か突発的なオネエ口調、うさぎ型に切り揃えられたりんごを盛りつけた大皿を差し出している
「あ、そういや、成くんいたの忘れてた」
「えっ! 誠!? ちょっとそれやばいよ! てか、な、成くん、どこから? いや、どこに?」
「トイレ~。花子さんごっこしてた~。ほら~双子ちゃんのさ、久しぶりの奇跡の再会を邪魔しちゃ悪いと思ってね~」
さすがは賢成だ、あの頃から何も変わっちゃいない。人の想像を超えることを平然とやってのけるのだ。真也の口角は上がる。
「もー、やめてよね成くん。真、病み上がりなんだからさー、昔より成くんが最強になってたら驚くでしょ」
「病み上がりじゃないじゃない~、
「もう! 刺激すること言わないで!って、あ!」
賢成にガミガミと怒っていた誠也は真也の胸元で視線を留めると、パジャマの前ボタンに目元を寄せた。
「成くん、これ、かけ違ってない?」
賢成はひょっとこのように口を尖らせ、鼻歌を歌う。
「も~! ちゃんと着せてあげてっていったじゃん! 何してんのさ!」
誠也曰く、
「や~、ほら。直したいかと思ったんだよ~。二人の関係を修復していくかのようにさ、掛け違えをひとつずつ、ひとつずつってさ~。感動満載のシーンにしたいのかなぁと」
「そんな演出求めてませんっ!」
二人のやり取りを黙って聞いていた真也は遂に噴き出した。笑いは止められそうにない。誠也と賢成は顔を見合わせると、真也へ優しい眼差しを向けた。
「じゃぁ~、俺はいくねっ」
「ちょ、え! 本当に急だよね」
「もしかして、さすらいの、旅?」
「いえーす! 真ちゃんもよく俺と一緒にしてた大好きな旅でーす」
「真の記憶勝手に改ざんしないで」
「も~誠プリプリなんだから~。じゃねっ、真ちゃん」
しゃくしゃくと満足気にうさぎのりんごを齧りながら、真也は賢成にひらひらと手を振った。
誠也は賢成を玄関先まで見送る。
「あ、成くん、そう言えば真に噛みつかれたとこ……」
「ん~? ああ、それ含めて傷は全部、無事綺麗になくなってくれてた~」
賢成は左腕を捲る。本来であれば歯型が残ったであろう皮膚には、言っている通り傷は残っていない。
「よかったー。安心したよ。一生傷になったらどうしようかと……」
「ノープロブレムさ♪ あ~、でも、今回は傷とか痛いのとか上手いこと消えてくれてるけどさ~、どういうシステムになってるのか詳しくフォールンに聞いてみたほうがいいよね~」
「そうだった。聞かなきゃと思いつつ……次の物語も始まるだろうし、その時に聞こうかな」
「うん、そうしよう」
賢成は玄関の縁に腰を下ろし、靴に足を通し始める。
「あと、成くん、これ」
誠也が差し出したもの。それはブラックホールに飲まれる直前に賢成が手渡してきた傘。
「お〜、こんなの忘れちゃってたよ~。別にいいのに」
「成くんさー、あの日、どこからきたの?」
「ん~? どういう意味?」
「あの日、いや、昨日って言ったらいいのかな……雨、降ってなかったよね」
賢成は手の動きを一瞬止めたように見えたが、そのまま両足に靴を履くと立ち上がり、誠也のほうを振り向いた。
「それは~、企業秘密かなっ♪」
いつもの調子でにこっと笑った賢成の顔。
「じゃ、真ちゃんとごゆっくり♪ アディオ~ス!」
がちゃんと閉められた扉。問いたい言葉をそれ以上口に出来なかった誠也は、少しの間、その扉を見つめたまま立ち尽くしていた。
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