※◇20.逃れられぬ苦しみ、逃れてはならない苦しみ


 都会のビルの七階。目の前に広がる輝かしい夜景。梨紗りさを連れカフェを訪れたわたるは、ペアシートのソファに腰かけた。


 梨紗は隣に座るやいなや足を組んだ。特に夜景にもお洒落な雰囲気にも深い興味はないようで、ドリンクのメニューを開いて吟味している。


「よかったぁ。ホッとしたよ」

「何にだよ」

「梨紗ちゃんこういうところ嫌がるかなって思ってたからさぁ。屋台みたいな焼鳥屋さんも一瞬考えたんだけど、話す内容的に雰囲気違うなって」

「お前あたしを何だと思ってんだよ。何遍でも言うけど女子だぞ」

「うん。でも焼鳥屋さんのほうが好きでしょぉ?」

「うん。まあ、どっちかって言ったらそうだな」

「うん。どっちかって言うより大分そっちよりでしょうね」

「うん。あ、すいませーん! ハイボール下さーい!」


 航はギョッとし、身体を丸めた。周囲のテーブルでムードに浸っていたカップル達からの冷ややかな視線が集中的に突き刺さる。店員が近寄ってくるのを静かに待ってから、梨紗とは対称的に囁くような声でホットコーヒーを注文した。


「で、何話したいんだ?」

「梨紗ちゃんさぁ、何をどこまで理解して、どこまで信じてる感じ?」

「どこまでって、航が童貞って理解して、あぁ~本当に童貞なんだってとこかな」

「いや、もう、それ、大丈夫です。てか、声、大きいです」

「あ、わりぃ。悪気はない。あ! きた!」


 店員が運んできたのは華奢なグラスに注がれたハイボール。


「ジョッキじゃねぇんだな」


 どうやらイメージしていたのと大幅にフォルムが違っていたらしい。梨紗はこういうお店に一切足を運んだことがないのだと密かに断定したところで、ちょうどよく航の注文したホットコーヒーも運ばれてきた。


「何で航、酒頼まないんだよ」

「明日バイトあるから飲みたいけど飲めなくて、俺梨紗ちゃんみたいには強くないから」

「梨紗ちゃんみたいにって、あたし航とたった今まで一回も飲んだことねぇけど」

「えーと、見た目で」

「ま、強いけどな」

「でしょうね」

「バイトって何してんの?」

「個別塾の講師」


 梨紗がグラスをテーブルに置き、手で口元を抑えた。あからさまに笑いを堪えている。


「え、そんな意外かなぁ?」

「子供になめられてそうなんだけど」

「ひどっ! そんなことないし! ちゃんと先生してますよっ」

「へぇ~、将来教師になりたいとか?」

「まあ、そうだね……って、全然これ今話したいことじゃない! 戻すっ! って早!」


 隙を見て同じものを店員にオーダーした梨紗の脅威的な飲みっぷりに、航は驚きを隠せない。梨紗は悪戯気な表情で航のホットコーヒーのカップに手を伸ばすと、口に少し流し込んだ。


「ぶっちゃけさ、何でもいーんだよ。嘘だろうが本当だろうがさ」


 ぼすんっとソファに背中を預けて梨紗は伸びをする。その横顔に航は黙って視線を送る。


「とりあえず、あの変なの倒しまくって、gameゲームクリアして、Crystalクリスタル? 集めればいいんだろ?」

「まあ大筋はそうだね。でも、よく考えて。ありえないことだよ? 今俺達に起こってるもろもろ。元は俺が騙すようなこと言って巻き込んだのが悪いんだけどさ」

「これが必要なのは航じゃねーか、ほい」


 かしこまった航に、梨紗は届けられたばかりの二杯目を差し出す。航は軽く戸惑ったがひと口だけもらうと、グラスをテーブルのコースター上へそっと置き直した。


「別に騙されたとか思ってねーよ。言ったような気ぃするけど毎日退屈してんだ。信じがたいようなスリリング、歓迎だぜ」

「どうして、退屈なの?」


 少し間が空く。梨紗は身体を前のめりにして、航が置いたばかりのグラスを手に取ると口を開いた。


「じゃあ、何で航は退屈じゃないの?」

「えっ」


 まさかの質問返しだ。航はう~ん、と声を漏らす。


「そう、言われると……何でだろう」

「ってなるだろ?」

「うん。でも、仮に俺が梨紗ちゃんの立場だったとして、毎日退屈って感じてる自覚があったとしても、こんなにすんなりとCrystalのことを受け入れられないような気がするよ」

「多分中身まであたしだったらこんな感じだと思うけどな。航、深く考える性格だろ」

「そうだね。どちらかと言えば」

「あたし、めんどくさいからあんま考えないんだよ。だからあたしの前では適当でいいよ」


 梨紗は左腕を捲り、ACAdapt Clockの存在を示してきた。


「ま、選ばれちゃったんだし、しょうがねぇよ。なっ」

「そっ、か……何か、ありがとう」


 清々しいほどあっさりとした笑顔を向けてきた梨紗に、航はぎこちないが微笑みを返した。


 ふと、航の目は梨紗の大きなトートバッグに留まった。少し開いているその中に見えるのは黄色のジャージだ。


「梨紗ちゃん、今日俺と会う前どっかいってきたの?」

「え? ああ、キックボクシングしてきた」


 あまりにもさらっとした梨紗の発言に、今度は航がコーヒーを噴き出しそうになってしまった。


「何だよ、意外?」

「い、いや、イメージにハマりすぎだよ」

「そっちかよ。たまに運動と思ってさ、週一回くらいでいってんだ」

「へぇ。趣味もあるなら充実してそうだけど。お仕事もお洒落な仕事だしさ」

「そうか? 別に、大したことねぇよ、あ」


 バイブ音が聞こえる。トートバッグからだ。梨紗はその中に手を入れ、ごそごそと漁る。


「わり、ちょっと出るな」


 スマートフォンを探し当てると、航に一言断りを入れ、梨紗は着信を取った。


「もしもーし。うん、お疲れ――うん、大丈夫。うん――」


 航と話している時とは違う梨紗のどこか気だるげでセクシーさのある喋りかた。ぷっくりとしたオレンジ色のリップから溢れ出す声に、航は胸の高鳴りを感じてしまう。


 認めたくない。こんな恥ずかしい自分をばれぬようにしたいがために航は顔を梨紗から背けたが、気になってしまう。受話部から漏れ聞こえる梨紗に言葉を投げ返している低い声が。何を話しているのかハッキリと把握出来ぬところが、航の耳をより敏感にする。


 梨紗は通話を終えると、グラスに残っているハイボールを一気に飲み干した。


「わりぃ航。いくな」

「あ、う、うん。か、彼氏?」


 トートバックを肩にかけ立ち上がった梨紗の背に、航は問うた。


「え? 彼氏じゃないけど。これからだけ」


 くるりと振り返り涼しい顔をして答えた梨紗に、航の口はポカーンと開き切った。


「じゃ、またなっ」

「ちょ、ちょっと待って!」


 立ち去ろうとした梨紗の腕を航は掴んだ。


「どうした? そんな驚いて」

「驚くわ! とんでもないことさらっと言わないでよ!」

「航、顔赤いぞ。あのひと口でまさか回った?」

「えっ、そ、そんなわけ……あ~、う~、も~! よく分かんないよ!」

「はぁ? よく分かるだろ。セックスするだけだよ!」

「え! や、え、もうどっちの分かんないか分かんなくなってきちゃった!」


「お、お客様……」


 おどおどした店員の声に、航はハッと口を噤んだ。周囲から向けられる視線の厳しさは一層上がっている。晒してしまった醜態に、航の頬はどんどん熱を帯びていく。


「あ、会計これで。お釣りいらないです。ご馳走様でした」


 そんな航を余所に、淡々と梨紗は財布から二千円を取り出し店員に手渡した。梨紗に手を引かれるままに、航は店の扉を潜っていた。


「あのっ、梨紗ちゃんお金っ」


 エレベーターに引きずり込まれながら航はポケットから財布を取り出そうとする。


「いい。大丈夫。奢る」


 一階のボタンと閉じるのボタンを順番に押しつつ梨紗は航の好意を断った。エレベーターが下がり出すと、身体はふわっと浮くような感触に包まれる。


「梨紗ちゃん、あの、さっきの冗談だよね?」

「んなわけないだろ。航どんだけ純粋に生きてきてんだよ」


 一階への到着は告げられた。エレベーターの扉が開いていく。


「言っとくけど、あたしは、正直に生きてるだけだから」

「正、直?」

「つまんない人生だから、せめて欲望にだけはしょーじきなわけよっ」

「欲望って……」

「折角選んでくれたけど、あたしにはやっぱり焼鳥屋さんかな。次はそうしよう! じゃぁ、またなっ!」

「り、梨紗ちゃん!」


 航の呼びかけも虚しく、笑いながら手を振り人ゴミの中に紛れ込んでいった梨紗の姿は、悲しいほど呆気なく溶けて消えた。


 取り残された航の心には、ちくちくと痛む切ない感情が広がっていた。




 ◇◇◇



 寂しいアスファルトの上を散り切った桜の花びらが絨毯のように彩っている。


なりくん、踏んじゃったら可哀想だよ。気をつけて歩いてね」


 その花びらを出来るだけ踏みつぶさないようピョンピョンと小さく跳ねながら歩く誠也せいやに、賢成まさなりは微笑んだ。賢成が翼と杏鈴に伝えた行き先はだったのだ。


「そう跳ねてるとせい、月からきたうさぎさんみたいだね~」

「成くんどうしたの? 急にメルヘンな発言だね」


 軽く笑い合いながら歩みを進め辿り着いたのは丘の前。この先には誠也がブックを拾ったあの公園がある。


「そういや誠、もうお腹平気なの?」

「うん。朝と比べると大分ね。Bバトルクローズに守護能力が高く備わってるお陰で治りが早いのかな」

「そっか。それはよかったよ。ちなみに今日は自分の家に帰るの~?」


 丘を登りながらすっかり暗くなった空を見上げる。満ち欠けの月は少し雲隠れしながらも淡い光を注いでくれる。


「ううん。輝紀てるき先輩のお家に暫く身を寄せさせてもらうことになった。大学にも近くて助かる。ゆうくんが心配して気を遣って、先輩に連絡してくれたみたい」

「ふ~ん、そっかぁ。嫉妬しちゃうなぁ」

「え、何それ成くん」

「誠可愛らしいからさ~。先輩に襲われないか心配になっちゃうよ~」

「いや、そんな趣味ないし。可愛くないし。何より心配するとこ間違えてるけど」

「あはは~、冗談冗談。でも、ひとりでいるより誰かと一緒にいれたほうが今は安心出来るしよかったね」

「うん。折笠おりかささんも心配して連絡くれたり……みんな優しくしてくれて、感謝しかないよ」


 頂上に着くと馴染みのブランコは二つとも空いていた。それぞれそこに腰を下ろす。


 誠也は鞄からブックを取り出し膝の上に乗せた。その悲し気な表情に、賢成も顔を渋くしてしまう。


「変に期待しちゃったけど、これ、関係ないのかもね。いや、ある意味あるか。あんな目掛けるように襲われるなんて、神様からの罰かもしれないね」

「何言ってるの。誠は何も悪いことなんてしてないでしょ」

「ううん。いくら成くんがそう言ってくれても……、僕は」

「誠、違う。もうそう言わないって約束したろ?」

「……ごめん。でもね、思ったんだよ、昨日」


 小さな拳を握った誠也の両腕は、震えを持ち始める。



「死ぬ瞬間ってああいう感じなのかなって、凄く怖かった。だからさ……って、思ったんだよ」



 賢成はスッと手を伸ばすと、誠也の小さな頭をポンポンと優しく撫でた。子供扱いしているわけではない。大切な親友として、触れずにいられなかっただけだ。


「誠を襲った昨日の敵ってさ、どんな様子だったの?」


 出来事を整理しようと賢成は問うた。誠也は昨日の情景を思い返し始めたようだ。


「フォロワーとは違う感じだった。上手く説明出来ないんだけど、強くて、フォロワーと戦った時みたいにスムーズには身体が動かせなかった。こう、力が吸い取られるような感じで……」

「でも、五十嵐いがらし優は互角に戦ってたんだよね?」

「うん。優くんがS応援要請取ってくれなかったら、本当にやばかったと思う」

「他に、何でもいいから引っかかったことはない?」


 少しばかり誠也は黙り込んだが、辿った記憶の中に重大な引っかかりを見つけたようだ。目を真ん丸にし賢成の目を捉えてきた。


「そう! ソイツ、自分のことを “さすらいの旅人”って言ってきたの! 成くんを名乗ってたんだ! もちろん成くんじゃないって分かったからね。安心してねっ」


 賢成も一瞬目を見張ったが、すぐに普段通りに目元を山型に整える。



「ふ~ん。俺の偽物ねぇ……」



 そう呟くと、浮かぶ月を仰いだ。



新堂しんどうちゃんにも指摘されたけどさ~、やっぱ俺って恨まれやすいんだな~」


 賢成の声色に意味を感じたようで、誠也は深めに首を傾げた。


「どうして? 成くんは凄く優しくて思いやりがあって素敵だよ。僕は、成くんがいてくれなかったら今頃……」


 ブックを抱きしめながら、誠也も両目に月を映す。


「ずっと、支えてもらってて、さらには助けてもらってばっかりで……ごめんね」

「誠は特別。大切な親友だから。それに、謝られるより、お礼を言われるほうが嬉しいんだけどな~」

「似てるね」

「ん~?」

「優くんも、そんな感じで言ってた」


 何気ない賢成の言葉だったが、誠也の脳内でどうしてかそれは優と強く結びついたらしい。


 賢成は誠也と視線は合わせず、その腕の中にあるブックをスルリと奪うと、パラパラとページを捲り始めた。


「え~、やだな~。熱血おバカさんと似てるとか~」

「成くん。それこそ優くんからいつか恨み買いそうだよ……」

「あ、それやばい。熱血おバカさんにも真似っこされちゃう。俺の偽物増えちゃうね~」

「真似っこ? 何かファンみたいだね」

「あれ~? ファンだったか。じゃぁ五十嵐優も、その敵も、設定的に俺のファンなのかな~」

「そう考えたらさ、成くん恨まれるどころか好かれてるよね」

「あはは~。でもそんな怖い敵に好かれてもな~」

「恨まれるよりは何倍もましだと思うけど。結局どちらにせよ困っちゃうのか」

「うん~、人気者は悩みの種が多いものだよね~」


 誠也は口を閉じると苦い笑みを浮かべた。道を逸れたこの話が激しく優をイラつかせそうな内容だなと思ったのかもしれない。


 一通り捲り終え再び表紙に戻ると、賢成はそのままもう一度表紙を開く。巻頭ページに刻まれている“Crystal クリスタルgameゲーム Deadデッド orオア Aliveアライブ”の血文字に軽く手先を触れさせた。


「フォールン、今出てきてくれたらなぁと思ったけど、ダメかぁ」

「今日何回か僕も開いてみたんだけど、出てきてくれなくて」

「俺の聞いた話に対する記憶が合ってたらなんだけどさ、誠を襲ったヤツはDark Mentersダークメンターズのリーダー格のひとりなんじゃないかと思うんだけど、どう思う?」

「あっ、確かフォールンが組織上三人いるって言ってた?」

「そうそう。俺は実際の現場を見れてないからあれだけど、話の雰囲気的にさ〜」

「でも、そうだとしたらよくあるゲームの順序に当てはめてみると、早く登場しすぎじゃない? こっちがレベル1なのに、もうボスキャラ出てきちゃったじゃんみたいなさ」


 誠也の怪訝そうな表情と言い回しにふいを突かれ、賢成は噴き出してしまった。


「確かに~。ザコキャラ飛ばしすぎだね~。せっかちさんなのかな~」

「今、話してるうちにもう一個思い出したんだけど、恨まれてるのはどう考えもやっぱり僕だよ」

「ん?」

「《せーいやくん、あーそーぼー》って言ってきたんだよね。その“あそび”が剣で斬り合う殺し合いを示唆してるなんて、相当僕をあやめたくて仕方がないんだよ。きっと」


 誠也は賢成の指が触れたままの血文字に視線を落とした。



「……生きるか死ぬか、何が起こってどうなるのか予想がつかない。“game”だけど、“ゲーム”じゃないんだよね」


 パンッとブックを閉じた賢成。表紙に描かれている不気味に伸ばされている手をじっと見つめたのち、誠也の手元にそれを帰還させた。


「別の視点から考えると、もしかしたら誠のファンでもあるのかもよ?」

「えっ?」

「殺したいくらい好き(ハァト)、みたいなさ?」

「ますます怖いよ。よくドラマとかにある、歪んだ愛情的なやつでしょう?」

「Dark Mentersは歪んだ集団で間違いはなさそうだし、ありえるかもよ~?」


 左腕の時刻を確認し、賢成はブランコから立ち上がる。両手を後ろに引き、肩甲骨を大きく動かしてぐっと伸びをした。


「ま、また襲ってきたその時は、誠を護りきるのみだ」

「成くん……」

「今までも、これからも、俺のスタンスは変わらないからね」

「本当に、ありがとう」

西条さいじょうさんの家まで送る。いこうか」


 月の光に創り出された背丈の違う二つの影法師は、ゆらゆらと丘を下り始める。


「そう言えば、優くんに改めて話ししたいって言われてるんだ」

「そうなんだね」

「優くんは敵の姿を見ているし、今日の成くんとの会話も踏まえて色々話してみるね」

「うん。それがいいね。また何か分かったら教えてね~。おおっ」


 穏やかだった空気を破るように、突風が吹き抜ける。道の上から巻き上げられた桜の花びらが、二人を包むように舞った。


「びっくりしたあ。でも、綺麗だね」


 誠也はにこっと幼い子供のように笑った。一枚の花びらが前髪の辺りにちょこんと貼りついたことに気がつかないで。


「うん……綺麗だ」


 その花びらをそっと指先で摘まんでやると、賢成も微笑んだ。

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