第八節:そして怪談が現れる



                 ■■■■■



 温く湿った、空気の淀んだ、風の吹かない夏の夜。

 日付の変わり、七月二十六日、深夜。

 眠りについていた宮田鶴美は、揺り動かされる刺激で眼を覚ました。


「…………佳乃?」


 それは、隣室で寝ているはずの娘だった。

 枕元の時計が目に入り、長針と短針は綺麗にL字を形作っているのを確認する。


「どうしたの、こんな時間に」

「お、おかっ、おかあさ、へ、へや、わたし、わたし、の、へや、に」


 ……夏場だし。何か、虫でも出たのかしら。

 突然に起こされたせいか、普段と違い頭がはっきりとしない状態の鶴美は、娘の狼狽にその程度の理由を想像しながら布団を抜け出す。


 寝室を出て、廊下を歩き、隣にある佳乃の部屋に。

 襖の開いた部屋の中に目を向け、


 呼吸が止まった。


 宮田鶴美は、自分は片足どころではなく両足、いや全身をどっぷりと、今、夢の中に浸していることを確信した。


 だってそうだろう。

 そうでなければおかしい。


 それ以外のどんな理由で――二階の部屋、窓の向こうの空中に、今、母の服の裾を震えながら掴んでいる娘と、瓜二つの少女が浮かんでいることを説明出来るというのか。


 咄嗟に電灯のスイッチを入れる。

 点かない。

 何度入れ直しても、就寝前には確かに点いていたはずの電灯は一切反応しなかった。


【『おかあさん』】


 それは、頭に、部屋の中に、反響するような、不思議な声だった。


【『ひさしぶり、だね。おかあさん』】

「あ…………あなた、」

「…………佳、乃……?」


 その呟き――姉の呟きに、中空の少女は頷いて返した。前髪は目元を多い、表情ははっきりと見えなかったが、それでも、その口元だけで、彼女が微笑んでいるのは十分にわかった。


 そんな、まさか。

 なんだ、これは。

 思考は混乱でかき乱されて、

 唐突に。


 今日という日の意味が、頭の中に閃いた。


「やめて!!!!」


 眩暈。

 眩暈。

 眩暈。

 眩暈。

 熱気が、寒気に裏返った。

 汗の意味が変わる。外の温度が、内側の冷気で凍る。 


「やめてやめてやめてやめて、嘘、嘘よ、なによこれッ!!!! なんでこんなことが起きてるの、これじゃあまるで、まるで、ああ、あなたが佳乃みたいじゃないのおかしいでしょおかしいわよだめよこんなの絶対に、だって佳乃は、佳乃は、佳乃は、佳乃はもうここにいるんだからッ!!!!」

【『うん。わたしは、ここに、いるよ』】

「っ、!」

【『今。こっちにいるのがわたしなんだよ、おかあさん』】


 相反する、二つ。

 それが、宮田鶴美の中で、激突する。

 名付けるならば、正気と、狂気。常識と、不条理。理解と、誤魔化し。義務と、責任――

 ――勇気と、臆病。


「ないッ!!!! あるわけないあるわけないそんなこと絶対にあるわけない、そ、んな、そんなそんなそんなそんな――――そんなッ、」


 踏み出す力になったのは、論理。

 彼女の、至って常識的な部分。

 自分の世界を守ろうとしてきた力の、その、基盤となっていた場所――正常を保っていた認識が、

 

「幽霊なんて、いるわけないッッッッ!」


 宮田鶴美を。

 その王手へと、追い込んだ。


【『そうだよ』】

「――え、」

【『佳乃が、おかあさんに、また会いたいと思ったら。幽霊になるしか、無かったんだ』】

「――――――――ッッッッ!!!!」


 瓦解する。

 それまで宮田鶴美が、現実から逃避する為に、自身の中に創り上げてきた盾が、壁が、大嘘が――――認識が。

 事、此処に至り。

 理路整然とした、追求の果てに。

 彼女は。

 目の前の非現実によって。

 自分の内にある現実と、向き合わざるを得なくなる。


【『わたしは。それを、教えたかった』】


 認識と。

 認識が。

 決して重なっては存在出来ない二つの論理が、激突を起こした。


【『ずっとずっと、おかあさんを――――いなくなったわたしのことでまちがわないで、って。そう、つたえたかったの』】


 その果てにあるもの。

 鶴美の、それまで胡乱だった目の光の中に。

 それ以外が、浮かんでくる。


 二人の娘と、“人形一つ”。


 ここにあるものを、今、宮田鶴美は、確かに認識した。

 まるで。

 ずっと頭の中に漂っていた霧が、晴れるような感覚だった。


【『ねえ、おかあさん。わたし、あの事故にあってから、ずっとね、そのお人形さんの中にいたんだよ。もうちょっとだけ、おかあさんとおねえちゃんの、そばにいたくて』】


 母は、ああ、と表情を歪め、娘は片手で抱えた胸の人形に視線を落とす。


【『わたし。全部、見てたよ。おかあさんと、おねえちゃんのこと。……大切に思われてることは、嬉しかった。けど、やっぱり、それよりずっと、悲しかった。わたしのせいで――わたしが大好きだったふたりを苦しめて、つらかった』】


「違うわ! 違うの、佳乃!」


 母は部屋の中に踏み込もうとする。しかし、服の裾を強く掴んだまま、廊下に根を下ろしたように呆然と立ちすくむ娘に、かろうじて一歩、部屋の中に片足が入る程度で留まる。


「悪くない! あなたは何も悪くない! 佳乃はいつもとてもいい子で、おかあさんは昔も今も佳乃のことが凄く大事で、困らされたことなんて一度もなくて――だから、だから……っ」


 いけないのは、おかあさんなの。

 力が抜けて。膝が崩れて。母はその場にくず折れて、両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。


「私は、私は、ああ、なんてことをしてしまっていたのかしら。娘は二人一緒じゃないとならないなんてこだわって、佳乃がいなくなってしまったことを認められないで…………最初は、そうでないと一人残されたあの子が寂しがってしまうって、そう思っていたはずなのに」

「…………おかあ、さん……」

「なんて醜いのかしら。そんなものはごまかしだわ。あの子の為だなんて、嘘。私はただ自分が寂しかっただけ。そうでなければ、あんなことはしないもの。佳乃の真似をさせられていることがつらいって、泣きながら言われたあの日に、それを受け入れなかったりしない……!」


 娘は、自らもそこにぺたりと座る。掴んでいた服の裾を離す。

 そして。

 小さな手を伸ばして、母の頭を、やさしく撫でた。


「――ごめんなさい、おかあさん。私、自分のこと、ばっかりで。おかあさんだって、佳乃がいなくなって、すごくつらいんだって。わかってあげられなかった」


 母は顔を上げ、声にならない言葉を、喉の奥からかすれさせながら発する。


【『ねえ、おかあさん。わたし、しあわせだったよ』】


 静かに。けれど、万感の思いの籠もった、それは、確かな質量のある言葉。


【『やさしくて、あったかいおかあさん。たのもしくて、げんきなおねえちゃん。ふたりのおかげで、わたし、ずっとずっと、しあわせだったよ』】


 宙に浮かぶ少女が語る。

 それは、三人の思い出話。

 宮田家の、母一人と娘二人が共有してきた、世界で彼女たちだけの記憶。


 春。公園で花見をしたこと。

 夏。海に出掛けて泳いだこと。

 秋。演劇を見に行ったこと。

 冬。雪だるまを作った自分たちを、温かい料理で迎えてくれたこと。


 どれも。

 どれも。

 家族で過ごした、時間のすべて。

 ほんとうに、たのしかったこと。


「…………佳、乃」

【『おかあさんは、しあわせだった?』】

「…………うん、うん、うん…………!」

【『どうして?』】

「…………あなたたちが、いてくれたから……!」

【『だったら、めっ、だよ』】


 口元をぷくと膨らませて、少女は言う。


【『しあわせにしてくれるひとを、かなしませたりしたら、だめなんだよ』】

「よし、の…………」

【『……だから、ね。もう、これ以上、わたしのことで、かなしまないで。おかあさんが、わたしのことから立ち直れないと……わたしもかなしくて、安心して向こうにいけないよ』】

「……うん……っ。がんばる、おかあさん、がんばる……からね……っ!」

【『――ありがとう。だいすきだよ、おかあさん』】


 母の方に向いていた、中空の少女が、ここではじめて――その隣の、娘を見た。


【『――おねえちゃん』】

「…………」

【『おねえちゃんは……わたしのこと、』】

「すき」


 言葉を、遮って。

 少女は、強い声で、断言した。


「わたし、私、佳乃のこと、好き。私が知らないことを一杯知ってるのが好き。妹のくせに私だったらすぐに投げちゃうような本を読める生意気なとこが好き。私にないものをたくさん持ってるのが好き。私じゃあ似合わないようなかわいい髪型や服が似合うのがずるくて好き。趣味だって好きなものだって正反対なのに、私と一緒に笑ってくれるのが好き。気の合うところが好き。気の合わないところが好き。私、私、わたし、わたし――佳乃のこと、全部全部、今でも好き! これからも、ずっとずっと、大好き――――!」


 張り上げた、意思。

 泣き声混じりの、叫び声。

 混じりけのない、本心。

 母はそれを、潤んだ瞳で見届けた。

 中空の少女はそれを、満面の笑みで受け止めた。


【『ありがとう、おねえちゃん。私も、おねえちゃんのこと、大好き』】

「…………うん。知ってた。……信じてた」

【『先にいなくなっちゃって、ごめんね』】

「…………本当だよ、このばか」

【『えへへ』】

「…………もう」

【『おねえちゃん』】

「なに、佳乃?」

【『わたしのぶんまで、おかあさんのこと、よろしくね』】

「――うん。安心してまかせなさい。私は、佳乃のおねえちゃんだもんね」


 それが、最後の会話だった。

 部屋の電灯が、突然に点いた。

 急な光に、闇に目が慣れていた二人は思わず目を閉じる。


 そして、再び目を開けた時、もう、窓の向こうには誰もいなかった。

 ただ、月の無い夏の夜の茫洋とした暗闇が、どこまでも広がっているだけだった。


 母は、自分がつい今まで体験していたことを理解しようとする。

 どこまでも合理性に欠け、現実味が無く不可思議な、僅か数分ばかりの、あり得ない再会。

 誰かに話したところで、確実に一笑に付されるであろう出来事。


 それでもいい、と彼女は思った。

 たとえ誰が笑うとしても、自分はこれを、笑わない。

 しかし、微笑んで話せる相手ならば、隣にいる。

 …………微笑んで話せるいつかの為に、言わなければならない言葉がある。

 母は静かに向き直ると、傍らに座る娘をそっと引き寄せ、静かに、優しく、抱き締めた。


「……ごめんなさい。今まで、ずっと、二年間も――悪いおかあさんでごめんなさい、鈴音」


 娘は、彼女もまた――これまで抱え続けていた人形を手放し、その両手を母の背中に回して、その思いと、その温もりに応えるように、母のことを、抱き締めた。


「私。おかあさんのことも、大好きだよ」


 

                 ■■■■■



 この夜。ひとつの怪談が現れて、ひとつの怪談が終わった。

 東条狐の怪談――【窓辺の人形子】は、夏休みを境に絶え、もう二度と、人々の噂に囁かれることはなくなったという。



                 ■■■■■


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