第七節:開演前の舞台設営



 七月二十五日。

 その日も、宮田鶴美みやたつるみはいつものように、清々しく目を覚ました。


 寝巻きを着替え、身だしなみを整え、朝食を作る。

 本当ならばこのあたりでやってきてくれると丁度いいのだが、昔の自分みたいに低血圧の気があるらしく、決まって朝に弱い。

 

 それも、欠点というよりは愛おしさだ。

 宮田鶴美は、その手がかかることまで含め、全部全部愛している。

 娘たちを、愛している。


「おはよう。ごはん、出来たわよ。一緒に食べましょう、佳乃、鈴音」


 仲のいい姉妹。

 折角二枚の布団を用意しているのに、いつもいつも一緒に寝ている双子を見て、母は本当に幸せな心地で微笑んだ。

 


                 ■■■■■


 

「いってらっしゃい。車に気をつけるのよ、二人とも」


 娘たちが仲良く学校へ投降していく様を見送り、ざっと一通りの家事を始める。

 掃除に洗濯、晩御飯の献立についてを考えた後、仕事の為に家を出る。

 玄関に鍵を掛け。

 それから一応、確認しておく。

 もしもの為の約束ごと。

 裏口にある鉢植えの下、二重底の箱の中に隠した合鍵。


 鈴音はお姉ちゃんだけど、そそっかしいところがある。

 鍵をどこかに忘れたり失くしたりしてしまった時の為に備えをしておきたいと言い始めたのは佳乃だった。


 よく気の回る子だと、鶴美は素直に感心した。

 先日、財布を落としたところを届けて頂いたばかりということもあり、保険として鍵を隠しておくことを、姉にはナイショでこっそりと了承したのだった。

 おねえちゃんは、ヤキモチやきだから。

 自分が信用されていないと感じたら、きっと、怒ってヘソを曲げる。

 

 ――――そういうのも、それはそれでかわいいのだけれど。


 ナイショの合鍵の存在を確認し、鶴美は職場へと向かった。

 彼女が勤めるのは、電車で一時間、徒歩で十分、市街にあるデザイン事務所だ。

 従業員は全部で七名ほどの小さな会社だが、仕事は確かで、尚且つ早いと評判がある。

 

 今日最初の予定は、ある大学生の演劇サークルとの打ち合わせだ。

 先方が名指しで鶴美に仕事を頼みたいとの問い合わせたのだと社長から聞いた時には、驚きと喜びを一緒に覚えた。何でも、鶴美が手がけた市内美術館の広告を見て、この人しかいないと思ったのだとか。


 真面目に、実直に、相手と目を合わせて仕事をしていれば、こういう嬉しい不意打ちが時に舞い込む。

 更に言うなら、演劇は娘の、佳乃が大好きな娯楽だ。

 仕事をしながら娘への孝行も出来る。こんなにも意欲が湧くことはない。


 とはいえ、私情と仕事を一緒くたにしすぎるのもまたよろしくない。

 鶴美は気持ちを引き締めながら、ホワイトボードに【宮田鶴美 打ち合わせ→条弧大学 AM11:00~PM00:00(予定)】と記して事務所から出発した。


                 ■■■■■



 クライアントについて彼女はざっと事前に資料を渡されている。

 条狐大学演劇サークル、その名称を【化狐バケギツネ】。

 特筆すべき事項はその割合で、所属している役者はほんの一握り。

 それよりも。

 その舞台を支える側の人間が、圧倒的に多い。


 音響、照明、大道具班小道具班。

 資材調達担当部、雑用係、脚本家、総合演出、経理、演技指導、映像制作、諸問題外交解決団。

 その他、何をやっているのか一見ではよくわからない名前の班もちらほらと。


 ――――自分の依頼者に抱く印象ではないが。

 どうにもこうにも、捉えどころがないというか異色というか、率直に言って胡散臭い。

 

 一つの作品が華やかな舞台で脚光を浴びる時、それには日の当たらない縁の下で力を尽くした人員がその何十倍もいる。

 デザイン業界で働く鶴美にとっては当たり前の事実だが、少なくともこの演劇サークルはそこらの劇団よりも大所帯で、【土台】の部分が過剰なまでに頑強だった。


 つまり、興味が湧かないわけがなかった。

 訪れた条弧大学、現在進行形の歴史が堆く積もり存在感を主張するサークル棟の一室で、宮田鶴美は根掘り葉掘り様々な事を質問する。


 人と関わる仕事をする以上、相手が何を望んでいるのか、どういう人間なのかを知ることを省いて、歯車が噛み合うことは無い。

 彼女が仕事を行う上での哲学である。


「ははは。いえ、不思議に思っていただいたんなら嬉しいです。ウチの演劇サークルのテーマは代々続いてまさにそれ、【騙して化かして煙に巻く】ことなので」


 鶴美の応対に当たった、【部長】の名札を提げた男性は嬉しそうに笑う。


「こう書くといかにも大仰に見えるじゃないですか。でもね、これ、人数だけしか書いてないでしょ? っくふふ、つまり、殆ど兼任だったりするんです。肩書きはついてるけど、腕前を確かめたわけでもない。名乗るだけなら誰にだって出来ますし、実際にはそんなことが出来なくたって構わない。“かたちのないもの”なんて、いくらでも誤魔化せるんですよ、宮田さん」


 手品の種を明かされたような気分だった。

 聞けば、実際の部員は十五人程度らしい。

 先程まで確かに脳内にあった、【社会人の劇団を遥かに越える規模のサークル】というイメージが、キレイさっぱり雲散霧消し、その感覚に舌を巻く。


「つまりはこれが、僕たち【化狐】のやり口です。偏屈者やお調子者、食わせ者に数寄者に――そして何より大馬鹿者が、ヨソで出したら閉口必死の傍迷惑な情熱を、出来るだけ怒られないカタチで発散・解消する為の寄り合い所帯というわけで。そういう奴らと悪巧みをするということだけ、今日は了解して帰ってくださいね、宮田さん」


 それこそ、狐の笑みだ。

 このような難物が要求するのが並大抵であるわけもなく、打ち合わせは予定より必然めいて長引いた。


 無茶苦茶を言っているようで、そのくせ筋が通っている。

 出鱈目を振りかざしているふうに聞こえて、よくよく考えてみれば矛盾が無い。

 スケッチブックに描いたラフに『素晴らしい』の一言が貰えるまでに、これほどまで消耗したのは初めてだった。


「これですよ、これ。こういうものが欲しかった。こいつが市内の各地に張られた日を考えれば、愉快で愉快で夜も寝ていられません」 

 

 秋に迫る、条弧市名物の演劇祭。

 そこで使う為のポスターの案に、どうにか最初のOKは貰えた。

 注文に答え、話が弾み、予定よりも大幅に時間が掛かってしまったが、デザイナーとしての確かな満足感を鶴美は覚え、安心の笑みが零れる。

 本日はありがとうございました、と礼をする。

 そこに、


「おや。そろそろお客人はお帰りかい」


 何だろう。

 小さな子供が、入ってきた。


「ええ。秋の演劇祭に向けて、打ち合わせがたった今一段落したところですよ」

「そうかそうか。そいつぁどうも御苦労様」

「なんの。面白いことにならいつだって付き合いますからね、


 え、

 と。

 思わず、声が出た。


「言われた通りに話は進めておきましたので、報告書はまた僕のほうから」

「こき使ってすまないね。今年は勉強も忙しかろうに」

「いい気分転換になりましたよ。来年は、意地でもここに入りたいと思えましたからね」

「受験合格、祈ってるぜ」

「化かされた、なんてドッキリだけはやめてくださいよ」


 言って。

 狐目の青年は、【部長】の名札を子供に渡し、ロッカーから近所の高校の制服を取り出して着替えた。


「では、そういうことで。化かされた、とわかってからが化かされ始めですよ、宮田さん」


 言葉も無い。

 唖然とした顔の鶴美の対面に、子供が座る。

 少女が座る。


「どうも、私が【化狐】の、本当の部長です。――って言ったら、信じてくれます?」 

 花咲くように。

 裏表の無さそうな純真な顔で、楽しそうに笑った。

 さて。

 それには本当に、裏がないものなのだろうか。



                 ■■■■■



 どうにもくらくらする感覚を覚えながら、鶴美は仕事を陽の高いうちに切り上げた。

 事務所にも了承は貰ってある。

 今日は、週に二度ある通院日だ。

 医師との問診を行い、それから薬を貰って帰る。

 あたりまえの習慣。

 あたりまえの、確認。


「宮田さん。今日、お子さんは?」

「はい。二人とも、仲良く登校していきました」


 よく、わからない。

 何故そんなことを聞くのだろう。聞くまでもないことを尋ねるのだろう。

 そんな言い方、

 まるで、



 泣き声。

 空虚。

 足りない場所。

 残骸。

 損壊。

 もう元には戻らないもの。

 決して直しようのないもの。

 誰だろう。

 誰だろう。

 誰だろう。

 あれは、

 あぁ、

 そうだ。

 泣いているのは、

 壊れているのは、


 わたしだ。



「宮田さん。大丈夫ですか」


 わからない。

 そんな顔をされる理由が見えない。

 だって、大丈夫じゃないことなんてない。


 昔。

 夫を、亡くした日。

 宮田鶴美は誓ったのだから。

 何があっても。

 何をしてでも。

 自分は、

 彼が愛した、

 彼と愛した、

 二人の娘を、

 しあわせにするのだと。


 ぜったいに。

 ふたりとも。

 


「今日は、このあたりにしておきましょうか」


 よくわからないけれど、そうすることにした。

 病院を出て、電車に乗って、家から最寄の駅を目指す。

 何故だか知らないけど、バスには乗れなくなった。乗ろうとすると、吐いてしまう。寒気がする。叫びだしたくて堪らなくなる。発進するのを止めたくて、いてもたってもいられなくなる。

 ごめんなさいと、言ってしまう。

 ほんとうに。

 なぜだかはよく、しらないのだけれど。



                 ■■■■■



 曇り空の町を、歩いて帰る。

 帰りにスーパーで、晩御飯の買い物をする。

 遠巻きに自分の名が聞こえた気がしたのでそちらを向くと、近所の奥さんたちがいた。

 屋根、がどうとか。

 予定なんてあったかしら、とか。

 あそこの人は何を考えているのかよくわからないから、とか。

 ともあれ笑っているふうだったのでこちらも同じく笑い返すと、そそくさとどこかへ行ってしまった。


 反省する。

 確かに最近は、あまり、近所付き合いがきちんと出来ていない。


 ビニール袋をぶら下げて家につく。

 宮田家の前には電柱が立っているのだが、何やらそこで電力会社の人が作業をしている。


 何かあったのですかと尋ねたら、近所でケーブルテレビの回線の工事依頼があり、その途中なのだとか。

 そうですか、御苦労様です、と穏やかに挨拶をして、鶴美は家に入った。


 既に、娘たちが帰っているのはわかっていた。

 二階の部屋。

 いつものように本を読んでいる姿が、道路からでも見えていて。


「ただいま、佳乃」


 呼びかけに振り返る姿。

「おかえりなさい、おかあさん」の返事。

 そんなあたりまえが、こんなにも嬉しい。


 涙が出そうな、あたたかさ。

 それを胸に抱いたまま、

 彼女は言葉を続けた。


「鈴音もいっしょだったのね。本当に仲がいいんだから、あなたたち」


 一拍の、間。


「はいはい。もう、これじゃどっちがおねえちゃんだか、わからないわね」


 その無音の中に。

 何かの返事があったように、宮田鶴美は相槌を打った。



 彼女だけが。

 自分のことに、気付いていない。



                 ■■■■■



 そう、

 気付いていない。

 その変化に。

 その準備に。


 今日、この日、この昼。

 昼間は人通りが無くなる住宅街。

 周りから不信に思われない立地。

 一体、自分の家が、どのような状況に変わったのかを。どんな仕掛けを、施されたのかを。


 二重底の隠し合鍵。

 元通り戻されたそれには、ほんのかすかに、使われた形跡が残っている。


 気付かないまま。

 いつも通りの団欒。

 いつも通りの就寝。

 おやすみと挨拶を交わし、また明日を疑う事無く、母と娘は、別々の部屋に別れて眠る。



                 ■■■■■



          ――――そして、怪談の夜が来る。



                 ■■■■■

  

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