第六節:彼女が人間だったころ(幽霊の終わり)
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よくある交通事故でした、と少女は言った。
おとうさんは、私たちが産まれてすぐのころに亡くなったって聞いています。
うちは三人家族で、母と、私と、佳乃という双子の妹がいたんです。
私とは色々なところが反対で、たとえば私は放課後は家にいるよりも外に遊びに行くほうが楽しかったから髪はいつも短くしておくのが好きだったんですけれど、佳乃はゆっくりと図書室や部屋なんかで本を読んだりするほうが楽しいって、髪の毛もずっと長く伸ばしていました。
それが多分、おかあさんは気に入ったんだと思います。おかあさんは女の子はおしとやかなほうがいいって普段から言っていたし、佳乃の長い髪を整えてあげている時は、いつもとても楽しそうでした。
事故にあったんです。
市立病院に診察に行ったおかあさんを迎えにいく途中、私と佳乃の乗ったバスが、路地から飛び出してきた軽トラックと、衝突しちゃって。
病院で眼を覚ますことが出来たのは、私だけでした。
でも。
助かるなら、おかあさんは、私より佳乃に助かって欲しかったんだと思います。
そうでなければ、ああはなりませんよね。
そうでないなら、どうしておかあさんは私に『佳乃』をやらせはじめたんでしょうか。
私だけが目を覚ましたあの日から、私はおかあさんに『佳乃』と呼ばれています。
押入から引きずり出してきた古い人形を、私の名前で呼んでいます。
今はこうして地毛ですけれど、ここまで伸びるまではずっとかつらを被らされていました。
放課後も、休みの日も、外に遊びに出ることも許されないで、ずっとずっと、家の中で、亡くなった佳乃の部屋――二階の窓際で、本を読んでいるように言われます。
ほんとうのことをわかってもらおうとしたこともありました。
おかあさん。
私は佳乃じゃないよ。
私は鈴音だよ。
お願い。
私を、ちゃんと見て。
四六時中手放させずに持たされている自分の名前の人形を置いて、かつらを脱いで。
前から目を見て、真剣に、真剣に、説得したことがありました。
死んでしまうかと思いました。
私じゃなくて、おかあさんが、死んでしまうかと思いました。
だから、死んでしまおうと思ったんです。
あの日に死んだのは佳乃じゃなくて鈴音なんだ。私は鈴音じゃなくて佳乃なんだ。それでいいんだ。それがいいんだ。おかあさんが喜ぶなら。おかあさんが望むなら。おかあさんが私を見てくれなくても、私はそれでもおかあさんが好きだから。それが、一番、いいことなんだ。
そう決めて、
【事故で死んだはずの女の子が、生き残った姉妹を人形に代えて居場所を乗っ取って、生きていたころに使っていた窓辺の部屋で、今も本を読んでいる】。
近所のひとや、クラスの子たちが、そう言って、笑って、怖がって、私を遠巻きに見ています。
【窓辺の人形子】。
そんなふうに話されていることを、初めて私が知ったときは――おかしなことなんですけれど、ああ、こわいはなしだなあって、他人事みたいに感じました。
私、にがてなんですよね。怪談って。
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人気のない夜の公園は、電灯の下でもひどく薄暗く、気味が悪く、ひたすらに陰気だ。
だけれども。
書生――木野良孝が五日振りに再会した、人形子――宮田鈴音は、これまでで一番積極的で、快活で、饒舌だった。
いつものベンチのところにいた木野を見つけるなり、宮田は笑顔で駆けてきて、その隣に腰を下ろし、そして、語り始めたのだ。
彼は一言も挟まずそれを聞いていた。彼女は一言も求めずそれを語り終え、うぅぅぅぅん、と身体をほぐすように両手を上げて伸びをした。
「助けるつもりだったんです。最初は」
にへ、と宮田鈴音は笑った。
始めて見る、笑い方だった。
「最近、条弧市に、私と同じ怪談が産まれて、噂されている。それを知って、いてもたってもいられなくなった。最初から、本物だなんて信じてはいませんでした。本物のおばけがいるなんて、そのおばけを演じている私には、信じられなかったから。私が【条弧池の書生】さんに、怪談の形を借りているひとに会いたかったのは――こんなことをしても、つらいだけですよ、って教えてあげたかったからでした」
そこで少女は、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「――助けるつもり、だったんですけど。はい、失敗しちゃってますよね、私。でもでも、これ、私だけのせいじゃないです。あなただっていけないんですよ、木野さん」
ぷくぅ、と小さく頬を膨らませて抗議を示す。
「私、前からあなたを知っていました。一ヶ月前からじゃなくて、本当は、去年の秋から知っていました。――あの演劇祭での舞台から。私は、あなたのファンでした」
ぴくり、と僅かに木野が反応する。それに気付いてか気付かずか、宮田鈴音は話を続ける。
「佳乃が好きだったんです。演劇祭。だから、あの子が亡くなってからも。私があの子になってからも、毎年おかあさんと見に行っていて、そこで、去年。あなたのことを見たんです」
宮田鈴音は夜空を見上げる。電灯の淡く白い光で、色が混ざり滲んだ夜空を。
「……でも、うん。それがいけなかったんですね。あなたのことを知っていたから、あなたを最初に見たときに、教えてあげなくちゃって思ってたのに、木野さんの演技を近くで見たくて仕方がなくて、とっさにあんなウソまでついて――えへへ、何やってるんですかね、私」
本当に、楽しかったなあ、と彼女は呟いた。
「不思議ですよね。全然嫌じゃあ、なかったんです。何も変わらないのに。同じおばけなのに。佳乃の部屋の窓辺じゃない、この公園のベンチで振る舞う【窓辺の人形子】は、とても、とても心地よくて。ああ、つらくないな、って。おばけになってよかったなぁ、って、思うときさえあったんです。……なのに、」
一転しての、残念に沈んだ顔。
「あーあ、なんでかなあ。財布、どうして落としちゃったんだろう。おかげで全部、見られちゃって、バレちゃった。やっぱり、ひとを騙すなんていけないことだから、バチが当たっちゃったんですかね?」
勢いをつけて立ち上がる。
宮田鈴音は、いつしか俯いていた木野良孝の、正面に立つ。
「この前は、ああ言ってくれましたけれど。今ではやっぱり、事情が違いますよね。だから、すいません。……もう、元通りになんてなれない。取り返しなんてつかないんだって、そんなこと、私だってわかってます。でも、あと一度だけ、聞き直させてください」
それは確かに、恐怖だったと思う。
少女が人形を抱く腕に、ぎゅっと力が籠もったのは、恐れから来るものであったと思う。
それでも彼女は、微笑えんで言った。
「木野、良孝さん」
嘘つきな私ですけれど。
でも、やっぱり、生きているふりをしているだけのおばけみたいなものですので。
これからも、仲良くしてもらって、いいですか?
夜の公園は、再びの静寂に包まれた。話し続けていた彼女の言葉はここで止まり、十秒、二十秒、この周辺だけが世界から切り離されたような空白が場に満ちる。
少女の笑顔が曇りかける。その瞬間だった。木野が突然、俯いていた顔を上げて、
そして。
「ところで。一体君はさっきから何を言っているのかね、人形子殿」
心底理解できぬというとぼけたツラで、その阿呆は、ぬけぬけと抜かした。
十秒。
空白。
理解の時間。
「……き。木野、さん?」
「いやだから。その木野なにがしとは全体誰のことなのか。そもそも何がバレただと? ぬははは。今日の人形子殿はわけがわからんな。うむ、実に面白い」
「ふ――ふざけないでください、木野さん! 冗談はやめてください!わたし、私は真面目にっ、今日だって、どんなに悩んでここにきたと――」
「冗談ではないッ!」
静寂の公園に衝撃が走る。ダン、と石畳を砕かんばかりの勢いで踏みつけながら、男が立ち上がる。その威圧感に、思わず少女はよろめいて一歩を下がる。
「なぁんの話かわからんなぁ! ああわからんわからんわからんとも! 人形子殿よ、君が一体どこでどんな枯尾花を小生と見間違えたのかは知らんがな! ここに! この条弧池遊歩道に出没する片目片腕着流し男は、【条弧池の書生】であると相場が決まっておるのだよ!」
片腕で持った本を――あろうことか、男は高く天へと放る。
そして空いたその腕を、まっすぐに突き出し、少女の鼻先に指を突き付ける。
「その男は、その阿呆は、ああ、そうとも! おそるべき怪異怪談都市伝説、【窓辺の人形子】とこう約束を交わしている! 『君に悩みあらば相談に乗る』! 『過ちあらば口を出す』! 必ずや――『君を立派な怪談に仕立てあげてみせる』、と!」
少女はぽかんと口を開く。
状況が。
飲み込めるようで、飲み込めない。
「き、木野さ、……書生、さん?」
「おうとも」
「あなたは、何を、」
「君を助けようと言っている」
少女が、
震えた。
「ああそうだ。まさか、この場で君との変わらぬ関係を誓うだけで終わるはずがあるまい。よもや、それだけで君が本当に救われるわけはないのだからな。そうとも、救われるというのは、幸せになるということだ。君の幸せ、本当の望みの為には、小生だけでは到底足りない」
「の、ぞみ…………?」
「目にもの見せてやろうではないか。滾ってきたぞ。止まらんぞ。当世風の言葉で言うのならば、てんしょんが上がってきたわ。なあ人形子殿。小生は幾度も言ったよな。ままならぬことには慣れている、と言ったよな」
「は、はい」
「で、あるが、しかしだ。――君の身に降り懸かっているような理不尽を放置したまま許せるとはッ! これまで一度もッ! ぬかした覚えはありはせんッ!!!!」
なんだろう、と少女は思う。
何を言っているのかわからない。
何もかもが、目の前の人が、馬鹿馬鹿しくて仕方ない。
馬鹿馬鹿しくて、
だから。
「――――っ、」
自分の悩みなんか、ひどくちっぽけで。
すぐにでも、どうにでもなることのように思えてきて。
思わず、ずっと肩に張っていた力が抜けて、瞳に雫が滲んだ。
「……よしよし。つらかったね。がんばったね。もう、大丈夫だからね」
その声と手は、背後から急に来た。
不意に肩を抱かれて、少女は飛び上がりそうなほどに驚いて、後ろを振り返ろうとする。
怪談しかいないはずの、いてはいけないこの場所に、知らない、普通の女の子がいた。
「あ、あ、あ、あああぅ…………!?」
「……あー、人形子殿。大丈夫だ。驚かずともよい、と言うのは遅れたが……彼女は、小生の、その……、…………君とは別の、怪談仲間だ」
「どーもー怪談のおねえさんだよー! こわいぞー! たべちゃうぞー! うっそだよー!」
「みひゃぁあああああああぁあああ!?」
女の子は書生に窘められて大人しくなり、そしてその人が合図をすると、更にそこら中の物陰から大勢の『怪談仲間』が現れた。全員、書生が声をかけ集めたのだという。
そして全員が、今しがたの話を聞き、やり取りを見ていて。
誰もが。
これから起こることへの気力を、全身に漲らせていた。
ベンチに座らされ、未だ混乱の渦中にある人形子を囲むように立つ集団の中で、その代表として、書生が向かい合い、咳払いをひとつする。
話し出す。
「それではこれより会議を始める。目的はただひとつ。【窓辺の人形子】を、堅牢なる常識に守られた強固なる現実の壁を打ち砕く、【信じられる怪談】として鍛え上げること。その為に我ら条弧怪談組合、余力を残さぬ全力を以て君に諸手を貸し出そう。で、さし当たってだな、人形子殿。君がやらねばならぬのは――――」
書生は着流しの懐から紙束を取り出し、にやりと笑い。
「推敲と、添削と、校正だ。何分まだまだ荒削りな脚本でな、遠慮なき口出し、しかと頼む」
ぱちくりと、人形子は眼を瞬いた。
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打ち合わせは数時間にも及び、熱意と努力の甲斐あって脚本はしっかりと纏まった。
決行予定は明後日。……どうした巡り合わせだろう。
奇しくも、宮田佳乃の命日だった。
「…………佳乃」
計画を立てても、最後まで内容に一抹の迷いを覚え尻込みしていた少女に、書生は尋ねた。
「きみは。妹が、好きだったかね」
頷く。
書生は、少女の頭を撫でた。
「ならば迷うことはない。……いなくなったものが、何を考えていたか。こちらで起こっていることをどう思っているかなどは、わからない。それでも、君が妹を大切に思うのなら――宮田佳乃の跡を汚すような真似は、ここで、やめなくてはならない」
「…………書生、さん」
「その為に、一度だけ。やさしい嘘で、人を助ける勇気を持とう。あのひとにも教えてあげよう。大切なものは、大切だからこそ――きれいなままで、手を離すべきなのだと」
今夜。
多分、少女はこの世に産まれてから、一番、泣いたのだと思う。
さようなら。
さようなら、佳乃。
少女は何度もそう言った。
今夜。
その役割を演じ続け、演じているが故に心を縛られ、ちゃんと別れ切れず、悲しみ切れずにひっかかっていた――心の中の妹に、姉は、本当の別れを告げた。
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決行予定は、七月二十六日。
場所は、東条狐1-9。
その夜、怪談が現れて、怪談が終わる。
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