第五節:黄昏前の誰そ彼要らず
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別にそういうわけじゃない。人に後ろ指を指される下心なんぞ、己に誓って抱えちゃいない。
そうだ。
誰だって、財布を落としたら、困る。
だから届けにいく。
ポストにでもこっそり入れて、それで退散。
……その際、あの人形子がどんな生活をしていて、どうして人形子なんかを名乗っているのかの原因が、もしかしたら! 偶然にもわかってしまう何かがあって、ネタばらしをできるだけソフトに行う時の参考になってしまうかもしれないけれど。
そんなものは本来の目的ではなかったし、それとこれとは別問題なので、罪悪感にはノーカウントである。
ノーカウントである。
ノーカウントである。
だろう。
だよな。
よし。
いける。
――その日の放課後、最寄りの無人駅から東条狐行きの鈍行電車に乗り、目的地に到着するまでの十七分間、木野は一切景色も見ずに膝を見ながらそんな言い訳を頭の中にエンドレスで並べ続けた。
到着のアナウンスが流れてようやく彼は我に返り、慌てて眼鏡と帽子というベタな変装をして電車を降りる。万が一にも正面衝突→正体発覚の危険は避けるべく。
変装こそチープだが、普段は片目片腕で着流しなのだ。学制服で両手が健在の今、これだけでも印象は十分違う。ぱっと見、同一人物とはわからない。
駅を出た木野は、携帯を取り出して地図を確認しながら歩き出す。
東条弧は市内でも有数の住宅街だ。
アパート、マンション、一軒家。
“余所に出かけること”を生活の基本とする社会人や学生の、帰るべき『家』がぎゅうぎゅうとひしめき合っている。
それ故に、普段見慣れない余所者はどうやっても印象的で、目立たざるを得ない。
演劇部時代にはそういうものには慣れていたが、最近はここぞという場面以外では隠密に徹しなければならない怪談をやっているせいか、多数から白日の下で晒される注目の視線というやつはどうにも居心地悪く、木野は自然と早足になる。
人の眼で出来た森を歩くうち、いつしか木野の心の余裕は消えて、とにかくもう財布をポストにでも突っ込んでさっさと帰ろう、と追いつめられたような息苦しさに襲われていた。
だから、目的地についた時は万歳をしたいほどの歓喜さえ感じたほどだ。
東条弧1-9。表札に『宮田』と記された、年季の入った一軒家。
間違いない、ここだ。
木野は心から安堵を覚え、早くこの気分から解放されたいと焦りながらポケットを探る。
それがいけなかった。
取り出そうとした財布がポケットの縁に引っかかり、小銭入れのボタンが開いた。
じゃらららららら。
玄関にばらまかれる銀色茶色。
胸の中で爆弾が爆発した。あ、と掠れた声が煙のように喉から出て、一瞬何もかも放り出してこのままここから逃げようというどんな綺麗事よりも魅力的な提案が全身にまとわりついて、けれど中途半端に残った目的意識がそれを邪魔して、結局決断とも呼べない単なる惰性で這い蹲るようにして小銭を拾う。
――――拾い終えた。一瞬だけ状況を何もかも忘れて腹の底から息を吐いて、財布を握りしめながら立ち上がり、ポストに向かって手を伸ばし、
「あの」
心の底から、驚かされた。
振り返るまでの時間は二秒。だが脳内ではその十数倍。
悪い癖が出た。懐かしき悪癖。演劇部の昔から、木野はアドリブに弱い。予定外の事態に脆い。
台本があればこなせる。方向が決まっていれば沿って歩ける。だが、こういう突然の衝撃、不意打ちだけはどうしても駄目なのだ。鋼の如き偏屈の阿呆の、これが弱点なのだった。
声をかけられて、振り返るまでですら、彼は人形に成り果てている。
ならば、振り返って“それ”を見たとき。
木野良孝は台本に逆らう力も無い人形未満の書割と化した。
「うちに何か、御用でしょうか」
母と子の親子連れ。それだけで説明を済ませられればどれだけよかったか。上品な服を着て穏やかな雰囲気を纏う、物腰柔らかな母の隣で右手を引かれているのは、
人形子だった。
それが分かった。一目で分かった。一目で分かって、それでも、だからこそ、疑った。自分の目と頭と世界の正しさを疑った。
人形子は、人形子過ぎた。
いつも。夜、あの公園で会うままの。
光の下では滑稽に映る自分とはまるで違う、光の下にこうも平然と存在することがまた別種の異様な恐怖を呼び起こす、人形抱えた黒髪おばけ、そのままだった。
舌が百度は空回ったと思う。
噛みに噛みに噛みに噛んだ。
しどろもどろになりながら、強引に、母に財布を押しつけるようにして渡した。その間、一度も少女とは目を合わせなかった。
「……あら。これ、鈴音のお財布……? まあまあ。拾ったのを、わざわざ届けにきてくださったんですか。これはこれは、すいません、どうもありがとうございます」
母は深々と、そのまま腰が折れてしまうのではないか、と不安になるぐらいに頭を下げた。
「ほぉら。駄目よ鈴音、これは大事なものなんだから、ちゃんと持ってないと」
油断していた。
こちらの素性は怪しまれず、深く追求されていない。最大の懸念だった人形子への正体発覚は回避できていると考えられ、この場はどうにか収まってくれそうだと、本来追求する筈だった不可解から目を背けながら、愚かにも自分勝手に都合良く考えていた。
それに。
唐突に。
限界が、来た。
母が。しかめっ面で小言混じりに財布を持たせようとしたのが、娘ではなくその胸に抱く人形であることを認めた瞬間、木野良孝の世界から平衡感覚が消失した。
理解が。
了解が。
読解が、出来ない。
目の前がくらくらする。よくわからない。何をやっているのだろう。人形に財布は持てない。人形は何も持てない。そんなことをしても意味がないのに。母は何度でも繰り返す。人形に何度も「ほら」何「ほら」度も何度「ほら」も何度も「ほら」財布を持たせようとする。その度に「どうしたのかしら鈴江」人形の手から財布は滑り落ちる。その度に母は拾い、「せっかく届けてくださったんだから」持たせようとする。嗚呼。嗚呼。空気が違う。雰囲気が違う。呼吸が出来ない。「また落としちゃったら申し訳ないじゃない」息が詰まる。此処は何だ。「なにしてるの」此処は何処だ。いつの間に、いつの間に、いつの間に自分は、「鈴音」常識と地続きではない怪談の中に迷い込んでしまったのか。
「おかあさん」
聞いたことのない声だった。
その音は、彼が近頃よく聞いていた少女のそれにとてもよく似ていたけれど、でも、彼女はいつも、自信が無くて頼りなくて――一度だって、こんなこわい声を出したことはない。
「おねえちゃん。おさいふ、おもくて、おとしちゃうって」
「……あ。あぁら、そう? ああ、鈴音、ごめんねえ、気がつかないおかあさんで。仕方ないわよねえ。あんなことがあったんだもの、ちょっとだけ、前と同じようにはできないところもあるわよねえ」
ころころと笑う。実に自然だ。母に演技の色はない。
この人は、全部本気でやっている。
「じゃあ
「うん。私、おねえちゃんのかわり、やる」
『すいませんそろそろ自分は失礼します』。
そう言った声が震えていなかったのは、これまでに張り慣れた虚勢の賜物だったと思う。
何かお礼を、せめてお茶の一杯でもご馳走させてほしいという母の誘いをでたらめの予定を並べて断る。冗談ではない。勘弁して欲しい。これ以上、この先に、自分には一歩たりとも踏み込めない。
そんな勇気は、持ち合わせない。
説得の言葉を半ば断ち切るように背を向ける。強硬な態度に、母はお礼を諦めて、最後、この度は本当にありがとうございましたともう一度言った。
ほんの少しの安心。解放されるという安堵。それではこれで、と一歩を踏み出す。
そこで。
聞き慣れた少女の声で、
聞き慣れない呼び方をされた。
「ありがとうございます、木野さん」
そこからの三十分を、彼は記憶していない。
電車が南条弧の無人駅に到着する直前に、ようやく自分を取り戻した。
背中に張り付く肌着の感触が気持ち悪い。ひどく汗をかいている。酸素が足りないらしく、呼吸がどうしても、荒いままで収まらない。
ふらつく足取りで電車を降りる。
空はようやく夕焼けになりはじめている。逢魔が時はここからだ。さっきまでは、確かに人の住む世界で、人のいる時間だった。
だというのに。
だというなら。
あの、ひどく現実感の薄い空間は、一体何だったのだろう。
その疑問の答えは。
胸の内から、井戸湧くように溢れ出した。
思い出したのだ。
かつて彼女に話された――【条弧池の書生】と同じように存在する、【窓辺の人形子】の、怪談の内容を。
「――――、幽霊、」
足が止まった。
そうか、という言葉と共に吐き出されたのは、きっと二酸化炭素だけではない。
木野の額に眉が寄る。呆けていた面がたちまちに引き締まった渋面になる。
この上なく不機嫌そうなその表情を、見るものが見ればわかるだろう。
これは、木野良孝という偏屈者が、不条理への怒りを糧に、最も活力を漲らせている時の顔なのだと。
夕焼けの中。
ひぐらしの声が聞こえる。
木野は幽鬼のように、怪談のように口を歪めた。
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