第四節:着流し男と黒髪おばけ
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「――――ん。書生さんっ?」
世界が、なだれ込んできた。
夜。公園。ベンチ。隣に座る人形抱えた黒髪少女。
物思いの海に沈んでいた木野は、コンマ五秒で状況の認識と自分が被るキャラクターのロードを完了する。
「どうしたんですか、突然……。もしかして私の話、そんなにつまらなかったですか……?」
「いや。少し、昔のことを思い出していた」
今夜も、木野が――【条弧池の書生】が哀れな現代社会の被害者に恐怖という啓蒙活動を終えた後、悲鳴を上げて逃げていく三人組と入れ違いに【窓辺の人形子】が「もう一本ですよ書生さん! ドンマイです!」と現れた。
いつもより高揚していた様子の訳、さっきまで『今日は上手に人を怖がらせられたんです!』と元気よく語っていた人形子の、気勢を失った言葉を否定し、思考の中に残る雑音の残響を振り払うように頭を振る。
「昔のこと――それって、あの、よ、蓬田さんと一緒にいた、生前のころの」
「はは、違う違う。小生が思いだしていたのはな、きみのことだ。人形子殿。ほんの一月の前だというのに、やけに懐かしく思える。あの夜、いつものように若者に逃げられてしまい、失意に打ちひしがれている小生に、きみが現れ話しかけてきたときは驚いたものだ」
冗談でなく腰を抜かしかけた。
この活動の要点はハッタリという言葉に集約する。奇襲と奇態からなる初手での絶大なインパクトで冷静な判断力を剥奪し、理解できない恐怖の対象からの本能的に逃走させる。それがこちら側に許された唯一の勝ち筋であり、勝利条件なのだ。
その為の衣装。
その為の怪我メイク。
その為のキャラ作り。
その為に深夜ベンチの隣の電灯にこっそり仕込んだリモコン式オンオフスイッチ。
何もかもが、現実感を喪失させるスタートダッシュの為にある。
だから、そう。
前の客を撃退した後、【ネタを再び仕込む前→どこかに隠れ潜む前の→煌々と照る外灯の下で満足感を噛みしめている→得体の知れない怪談ではなく滑稽な人間でしかない瞬間に→相手側から話しかけられる】など、これはもう勝負が始まる前から負けている。
――だが。
驚くというのなら、むしろ、その後の支離滅裂な発言にこそ。
自分に負けず劣らずの奇態、人形を抱えた黒髪長髪の奇妙な少女の熱意に、『書生』は度肝を抜かれた。
『は、はじゅっ、はじめましてっ、条狐池の書生さんっ。わ、私、この市の東にある古いお屋敷で二年ほどおばけをやっております、”窓辺の人形子”と申しますっ。あ、あのっ、そのっ、書生さんはっ、近頃、とてもとても私みたいな怖いはなしのひとたちの間では怖くてすごいって有名でっ、それで、えっと……きゅ、急なお願いなんですけど、でも、でも、私、どうしてもどうにかしたくて、どうにかなりたくて――だから、すいません、ごめんなさい、私に、りっぱな怖いはなしになる方法を教えてくださいませんでしょうかっ!?』
「きみは。美しいな、人形子殿」
「ぅぁぇいっ!?」
「己に何が足らぬかを知り、認める。そして改善の為にたゆまず精進を積む。簡単なようでいて、これが真に難しい。さもありなん。自らの汚点と向き合うことは、文字通りに綺麗事ではない苦行だ。自分が拙く醜いのだということを肯定せねば、まず一歩目すら踏み出せない」
「…………」
「きみは己の醜さを認めた。誇ること叶わぬその身の未熟さを自覚し、ありのままに自ら語った。――なればこそ。その上でなお理想を見上げる志、尊からぬ筈がない」
書生は人形子の頭に手を乗せ、柔らかく撫でる。
何らかの取り決めも、これに関する検討が行われたわけでもないが、二人の間でこれは半ば恒例の行為になっていた。
強いて言うなら、親と子ほどに体格も雰囲気も離れた二人が並んで座ると、至極そうしやすい位置に人形子の頭が来るのが原因か。
誉めるとき励ますとき慰めるとき、書生は決まって彼女の頭を撫で、そうされた彼女は日向に転がる猫のように心地よさげに声を漏らす。
「つまらなくなどはない。君の意志が、その努力が窺える、実にいい話だった。教えられたことをただ丸飲みにするのではなく、咀嚼し、解釈し、自分なりの答えとして血肉にしている。今の君は、一月前とはとても比べものにならない。素晴らしい。教えた側として、これほどまでに鼻が高く、誇らしいことはない。はは。これだから、口出しはやめられない」
返答は、すぐには無かった。しばらくの間人形子は無言で俯いたままで、けれど自分の頭を撫でる書生の手が止まりそうになるたび、催促をするように身じろぎを繰り返した。
「……書生、さんは」
「うん?」
「書生さんは、迷惑じゃ、ありませんか」
人形子が顔を上げる。見上げ、書生を見つめる。
「私のこと。邪魔じゃあ、ありませんか」
冗談を言っているようには聞こえなかった。
――だけれど。
笑える話には違いなかったので、書生はそれに、笑って返した。
「小生は、生前から遠慮がなく、我慢がきかない人間でな。それでよく揉めごとになったものだ。おまえはもう少し処世を身につけろ――と、蓮治郎の奴にも何度言われたかわからんな」
首を傾げる黒髪おばけ、
「……まあ、つまり、な。小生、虫の好かぬ相手に腹の内を隠して口出しをしたり、あまつさえ頭を撫でたりできるような、そういう謙虚で殊勝な人間ではない。邪魔であれば邪魔であると、迷惑ならば早く
表情輝く黒髪おばけ、
「そういうことだ、人形子殿。いいかね、そういうわかりきった質問は、もうするな。時間の無駄だ」
「――――っ。…………じゃ、じゃ、じゃ、じゃあっ。もしも、もしもですね、書生さんっ。もしも――もしも」
決意を。
吐き出すような、覚悟の間。
「この先、私が、書生さんのおかげで一人前のおばけになれて、もう何も教えてもらうことがなくなっても――私、書生さんに、会いにきても、いいですか」
それまで頭を撫でていた手がぴたりと止まった。
そして、パーがグーになり、いつもよりも強めに、勢いよく、拳骨が落とされた。
「ぃぇえっ!?」
悲鳴が上がる。
人形子が涙目になる。
書生は世の中の不出来さを宇宙の終わりまで見届けたような顔で言う。
「わかりきった質問はするな。そう、今言ったばかりだろうが」
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満面の笑顔の人形子と別れた後、書生――木野は自らも自宅へと帰るべく、周囲を用心しながら仮装を解き、こっそりと物陰で身支度を整える。
「【一人前の怪談】、ねぇ……」
思い返すだに、滑稽極まりない響きだ。実に空疎で寒々しくて、微笑ましくさえもある。
――当然のように。
木野は、【窓辺の人形子】を名乗る少女の事情を、これっぽっちも信じてなどいない。
何故と理由を問われるならば、『十八歳だから』の一言で済む。
分別も、常識もある。
何を信じて何を一笑に伏すべきかの基準ぐらい、構築できていないわけがない。
もっとも、悲しいことに、小中高の悲劇のおかげでその呪縛から脱せた自分と違い、大人という唾棄すべき存在が世の中に吐き散らし続ける欺瞞のせいで、そんな簡単で当たり前の思考基盤さえ確立し損ねている手合いがあまりにも多い。
だからこそ【条弧池の書生】の啓蒙活動は毎夜のように続いている。
まったくやりがいのあることである。
このまま噂が拡大し、自らの創り出した幻影が一人でも多くの人間を迷妄の霧から解き放つ道標となり、また日々己が無責任に相手の人生を台無しにしていることにも気付かず取り繕いの虚偽を吐き散らし続ける馬鹿共に泣いて喚いて鼻水を垂らして反省させることを木野は切に願っている。
世に真実のあらんことを。
欺瞞に恐怖の鉄槌を。
木野良孝の方針は、これを始めた三ヶ月前から、全くブレずに曲がらない。
偶然から始まったことではあったが、今は自らの使命だとさえ感じている。
……顧みて。
あの少女が、何のつもりで怪談を名乗り、足しげく公園に訪れて書生に教えを乞うているか。
「――――、ふん」
そんなもの、知る由もない。
おそらくは思春期特有のアレだろう。
彼女はサンタを信じるように、きっと怪談の実在も信じている。
そういう現実離れしたモノと近づき、自分も特別な存在だと優越感を感じる為に、怪談と仲良くなる為に怪談を演じている。
ありそうな話だ。
なんとかわいそうに。
こんな勘違い、年長者として導かずにはいられない。
「ああ、約束したな。助けてやるとも、【窓辺の人形子】」
木野良孝の啓蒙に例外はない。今はこうして機を伺っているが、いずれ教えてやらねばならない。
普段とは逆の方向だ。あの空想好きな少女には、【条弧池の書生】が人間であることを明かし、現実の何たるかを知らしめる。
一時心は痛むだろう。
泣きも悲しみもするだろう。しかしそれは仕方ないのだ。それこそが成長には避けては通れない通過儀礼なのだ。
錯覚が楽しいのは、囚われて間違っている内だけ。
教訓は、痛みなしには身に付かない。
それを、木野は嫌というほど知っている。
だから、せめて。
怪談の皮を被った人間同士の交流など、どうあっても茶番でしかないけれど。
不本意にも、笑い合える関係になったあの少女には、出来るだけ。
あまり後に尾を引きずらない形で、真実を知らせられればと思う。
思って。
これはその為のことだと言い訳をしながら。
木野は、先程拾ったそれを開いた。
社会に関わらない怪談ではなく、地に足の着いた人間であることの確かな証左――人形子が去った後、彼女のポケットからこぼれ落ちてベンチの上に残されたらしい、小さな財布を。
住所は東条弧1-9。年齢は11歳。
彼女の名前は、
紛失防止らしきカードから、それらの情報が得られた。
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