第二節:怪談主役の怪談議
代表作【硝石】で知られるO県出身の昭和初期から中期の文豪、
その人物は蓬田が作家として成る以前よりの竹馬の友であり、身内では書痴として知られ、表すならば偏屈の一語。
彼が何かものを書いていると知るや頼まれてもいないのに奪い取るようにして原稿を読み、やれここの描写は駄目だやれこの人物はなっていない、ととにかく口を挟みに挟んで次から次に赤を入れてきたという。
そんな鬱陶しいこと極まりない相手ではあったが、しかしその眼力は確かで、手腕は的確だった。愚痴り愚痴り乱暴に指摘された箇所は、読み返してみれば成程痛い。叱られたのは原稿に浮かんだ心の甘えそのもので、直せば直すだけ引き締まった。
作家、蓬田蓮治郎の家に書生として滞在しつつ、彼の隆盛を支えたその友人は――しかし唯一、蓬田が三十二歳の若さで肺結核によってこの世を去る前に書き上げた遺作、【菜の花】に於いてはまったく関わっていないことが、後書にて語られている。
飢えた浮浪者の、金銭目当ての強盗事件、だったという。
右目を斬られ、胸を刺され、身ぐるみをはがされた。
先の戦争から生還したものの片腕を失っていた友人は、成す術もなく殺された。
……後に【菜の花】という題名が付くことになる、新しく思いついた作品の概要を語りたい、と町に出た帰りの蓬田と待ち合わせていた、小高き山の中腹にあるいつもの茶屋に向かう途中の道で。
無計画で衝動的な犯行はすぐに発覚し、犯人はその日の内に捕まり。
現場となった場所には、慰霊の為の地蔵が置かれ。
蓬田はひとりで【菜の花】を書き上げ、出版された本の冒頭には『この作品を我が親愛なる書痴へ捧げる』の一文が添えられた。
初版から、数十年の歳月が流れる。
時代は移り、事件は廃れ、忘れ去られ過去に変わって、かつて眼と胸から溢れた血が赤黒く土を濡らしたその場所に、規則正しくタイルが敷かれて公園が作られた。
それが今から五年ほど前のことで――噂され始めたのは、つい最近の話になる。
三ヶ月前。
地方新聞の隅に、小さく記事が載った。
ちょっとした損壊事件だ。公園の端にひっそりと置かれていた、苔むした小さな地蔵が壊された。
それはただそれだけのことで、縁起が悪い、罰当たりだ、と近隣の一部住民を憤らせはするが、その生活を大幅に脅かすようなことは何もない。
かと、思われていた。
それからだ。
噂が流れ始めたのは。
【目撃談】が、出回り始めたのは。
白守自然公園、北方面、条狐池遊歩道のあたりに
――――――――――――――――出る。
古めかしい、着流し姿の男。
そいつには片腕がなく、
片目は無惨に切り裂かれている。
胸には刃物が突き立てられ、
大事に本を抱えている。
そいつはいつのまにかそこにいて、
ゆっくりと近づいてきて、
無念を百度煮詰めたような、
厳めしい表情で、
言う。
〔すまないが、きみ、この本を代わりに読んでもらえまいか。今の小生には、よく文字がわからない。あいつがどんな間違いをしているのか、調べないといけないのだ〕
夢幻に感染した者たちは、新たな語り部に変化する。
そして、人の口を渡り歩く度、そこには解釈や情報が足され、怪談は進化を繰り返す。
様々な説が入り混じる中、目下最大の勢力は、一番もっともらしい説は、これだ。
条弧池に現れる、この世ならざるものの正体は――
――あの、蓬田蓮治朗の書生である。
恐怖と好奇は裏表。
どちらも語っておもしろく、どうしようもなく人を、誰もが持ちながら切り離せない、愚かな部分を惹き付ける。
春に生まれたこの地方怪談は、ゆっくりと、しかし着実に、O県A市内部にて成長を遂げつつあった。
これを仕掛けた本人の、まさしくその思惑通りに。
■■■■■
誰の仕業か近頃とみに人が寄りつかなくなった、か細い電灯の明かりだけを常識の通用する世界の立脚点とした、真夜中の公園。
そこのベンチに、堂々と並んで座り、二人。
奇妙千万な格好をした人形女と怪談男は、恒例の会談を繰り広げていた。
「良いかね、人形子殿。大切なのは、相手を見て、状況を選ぶこと。要するに場の雰囲気だ」
「ば。バノフインキ、ですか」
「雰囲気。存知の通り、我らには如何ともし難い制限がある。常軌に倣う人の身ならぬ、闇夜に籍置く幽鬼の理。さて、それは何であったかな」
「え、えっと……うぅんと……み、見てくれないひとと、見てくれるひとがいる、ですよね」
「然り。我らは一種の化生であり、常に確固として世に立つ実体を持たず、観測者によって不確かに揺らぐその存在の信憑性は、まさしく
人形子はふんふんと頷き、興味深そうに前髪の下から書生に向けて視線を送る。
「――それは、信じているか、いないかだ。『今』『其処に』『おかしなものが』『いるかもしれない』。我ら幽鬼は、人が闇を覗く際の一抹の不安を光とし、枯尾花の姿を模してその心に浮かび上がる影絵である」
書生の言葉を噛みしめるように目を瞑り、
「つまり……ここにはおばけがいそうだなー、って思ったひとだけが、私たちを見る……?」
「巧い表現だ。正鵠を射ている。まったく、きみのその才の欠片でもあの阿呆にあれば、もう少しは小生の添削の手間も減っただろうに。
「……え、え。え、その、わ、わたしなんか、……あの、…………えへへ、恐縮です……」
湯気にとろけた豆腐のような締まりの無い笑いをする人形子だったが、
「怪しくも儚し我ら幽鬼は、我らの存在を心のどこかで否定しきれず、どうか虚ろな与太であれ出てくれるなと恐れる者の
「だから書生さんはいつも、元気の良さそうな人は無視するんですよね」
「然り。そして人形子殿、きみの幽鬼としての存在理由は、『ここにいるぞと主張して人を恐れおののかせること』であったな」
「お、覚えていてくれたんですか」
「覚えまいでか。呆れてな」
「え、」
「外見やら享年はともあれ、幽鬼としての年季は小生より遙かに上のきみが、『いかにも出そうな場所を根城とし』『怯えている相手を選ぶこと』程度の、幽鬼となればすぐに察する常識に疎いのは、正直、どうか」
たっぷりの躊躇の後に選ばれた、はい、とうん、の中間ぐらいの返事は、ぅぇい、と何とも頼りない発音で、ちらりと前髪の隙間から覗いた表情は軽く涙目だった。
「……そ、そうなれればなぁって思ってます、はい。いつか、ちゃんと、きっと」
「そうか。それはいいな。その意思はいい。逆風に膝を折らず、忠言に耳を貸し、謙虚な姿勢と殊勝な思考を持ち合わせ、添削と改稿を重ねるように拙い己を磨くなら――きみの紡ぐ物語は名作になる。否、そうなって貰わねば、この会合の意味がない」
え、と人形子は口を開ける。書生は口端を歪めて片眉を下げる。
「ままならぬことにも、口出しにも慣れている。こればかりは性質以前に宿命だな、どうやら死んでも縁切り出来ぬ。故に、きみの目指す千里への道、小生は可能な限り手を貸そう。こちらの目的も、容易には達せぬようであるしな。……はは、考えてみれば実に逆しまだ。我らの目的がもしも逆であったなら、随分と話は早かったであろうになあ」
彼女は胸の中の人形を一際強く抱きしめ、口を結ぶ。
「……じゃ、じゃあわたしにもっ。お手伝いをさせていただけませんでしょうかっ」
珍しい。常日頃大人しく気の小さい彼女が、猛然とした勢いで書生にずいと身を寄せた。
「もっ……もしも私なんかでもよろしければっ、その――書生さんのそのお友達の本、私に読ませてもらえませんでしょうかっ」
書生は、その言葉に対して、返答に詰まった。
「…………書生、さん?」
人形子におずおずとそう尋ねさせてしまうぐらいには、間が空いた。
「あ、ああっ、あの、ご、っ、ごめんなさ――すいません、私、私なんかが、その、は、はしゃいじゃって、出すぎたことを、身の程知らずに、」
「自分に自信を持たぬのは。君が、最初に修正せねばならぬ悪癖だ、人形子殿」
こん、と。そこそこに力を込め、軽い悲鳴を上げる強さで、人形子の頭に拳が落とされた。
「我が事ながら情けない話で、これまで打ち明けていなかったのだが……この本はな、我らには開くことが出来んのだ」
「えっ……?」
「重ね重ねままならぬよ。どうした因果か、何の未練が捻れた故か――小生の幽鬼としての目的は、この時代を生きる人間に、奴の遺作を読み聞かせてもらうこと、らしくてな。幾度も試してみたのだが、いやはや、どんなに開こうとしても、表紙と頁が離れない」
落胆する人形子。その頭を、叩いた手を開く形で、書生はわしわしと撫でる行動に移る。
「……不安にさせて、すまなかったな。その……少々、面食らった。あんなふうに、誰かが助けになってくれることを、小生、今まで想定出来ていなかった」
低い位置から、見上げられる。前髪の奥に隠れた瞳から、まっすぐな視線が届く。
「きみの気持ち、その心――小生、確かに受け取った。ああ、それだけで十分だ。胸を張ってくれ。直接の手助けにはなれずとも、意味も、価値も、確かにあった。これだけで小生は、あと百年でも挑んでいける」
一拍。
眼の泳ぐ、躊躇。
「……いや。そうだな、こんな時ぐらいは、率直に言わせて貰おう。ありがとう、人形子殿。きみの優しさが、きみの言葉が、本当に、とても嬉しい」
今夜の話は、ここでお開きにならざるを得なかった。
何しろそれからの人形子といえば何を言っても曖昧で、心ここにあらずの生返事。流石に心配になった書生がどうしたものかと考えあぐねていると、突如「今夜はそろそろ帰ります!」と、針金のように人形子は立ち上がった。
「書生さん! これからもがんばりましょうね、私たち!」
彼女は互いを鼓舞するように、らしからぬ力強い口調で言ってのけた後、すぐさま駆けていってしまった。別れの挨拶を投げる暇もなかった。
小さな背中は立ちどころに闇の中に溶け、呆気にとられ固まったままの書生がひとり、ベンチの上に残された。
夜の公園に静寂が帰ってくる。ベンチには片腕片目包丁付きの着流し男が座っている。
不意打ちでなく、光の下で。
こうして、冷静にその姿を観察したならば、どうやっても、滑稽という言葉以外、出てこない。
彼はそのうち我を取り戻し、背凭れに体重を預けて、しばし首を反らして目を閉じた後、傍らに置いてある本を手に取り、膝の上に置き。
実に何気なく、呆気なく。
その表紙を開き、ぱらぱらとページをめくった。
「……あっぶねえ…………」
本の一番後ろ。ハードカバー裏表紙をめくったそこには、子供の落書きと思しき下手くそな絵と、「きの よしたか」という名前が書かれている。
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