怪談の終わる七月
殻半ひよこ
第一節:阿呆偏屈怪談男
結局のところ、まずは何を置いても運が第一であると。
雰囲気を助長させる入念な下準備。
土壇場でトチらない強固な心構え。
なるほど。
そういうものも確かに重要ではあろう。必須条件には違いなかろう。
だが、しかし。
ああ、されど。
彼が、ここ三ヶ月の実体験で培った、経験則が叫ぶのだ。
懐中電灯の光を避けつつ駆け込んだ女子トイレ個室のすえたアンモニア臭が。
「出てこい」と「ぶっ殺す」と「コラ」がローテーションする怒声に追われ飛び込んだびっしりと藻が浮く溜池の水の冷たさが。
笑いながらフルオート式エアガンを掃射されほふく前進で安全地帯を目指した際の夕立に湿ったミミズのたくる土の味が。
初期に繰り返した苦々しい失敗の数々が、総立ちでシュプレヒコールをかます。
ひとつ。
明らかに“それ”が目的な好奇心丸だしの奴は断じて相手にしてはならない。
ふたつ。
多くとも四人以上のグループには決して手を出すべからず。
みっつ。
人間相手の細工が通じないペットを連れている時も、絶対に無視を決め込め。
『正体を暴いてやる』などと息巻いている手合いは端から論外、真夜中にも関わらず声のボリュームもヤンチャの度合いも落とさない不良集団などもってのほか、嗅覚の鋭い犬なんかを散歩させているならばどんな飼い主でも速やかにお帰りいただけるよう切に祈る。
だから、運というのはそういう意味だ。
待って待って待った挙げ句に、結果今夜の機会はゼロでしたなどということはザラにある。
しかし、そこで痺れを切らしてはいけない。
教訓を忘れて無闇に動けば、あのアンモニア臭が、水の冷たさが、土の味が、終わった記憶の中から現在にまで飛び出してくることになる。
だから待て。
とにかく待て。
十分でも一時間でも構わず、ただひたすらに、運を信じて雌伏せよ。
虚仮の一念岩をも通し。
天が応えるその時まで。
果たして。
神は、阿呆の愚かを祝福した。
今宵の被害者は男一名、女一名。つまりはカップル。
木野は一度、何とも暗い喜びに充ち満ちた形容し難い表情を浮かべた後、満面に世の無情を心から憂い憎み嫌悪する色を上塗りし、カップルが座ったベンチの後ろ約二十メートル地点の草むらの中、のっそりと身を起こした。
小道具、装備。
メイク、万端。
心構え、完了。
彼は立ち上がり、重々しい足取りで歩き出した。
まずは第一段階。袖に忍ばせた装置のスイッチを押す。
途端、ベンチの隣に備え付けられた外灯の挙動が怪しくなり、不自然な明滅を繰り返す。
砂糖を蜂蜜に浸したような睦み言を続けていたカップルがにわかに慌てふためき始める。
あらかじめ定めておいた目印の位置に到達したら第二段階。
それまでは抑えるように気を使っていた歩き方を乱暴に崩し、わざと大きな草音を立てる。
思惑通り耳に届き、びくりと身体を振るわせた後、ネジの切れかけたブリキの玩具めいた動きで、最初に男が、その様子に気付いた女が次いで、確かに無人であったはずの、誰かがそこにいることなどあってはならない、背後の暗がりへと振り返る。
目があった。
ここで駄目押しの第三段階。
彼は、これまで幾度も練習した、決め台詞を口にした。
「〔すまないが、きみ――――」
それはそれは、よく通る声だった。
誂え向きの七月の夜に、それはそれはよく通る、闇を切り裂く絶叫が上がった。
■■■■■
カップルが遭遇したその出来事の、奇々怪々たる詳細が生々しく世間へと浸透していくのは明朝六時。アパートの部屋に尾を引くような悲鳴をあげながら逃げ帰った二人が頭から毛布を被り過ごす一夜の終わりを待たねばならない。
の、だが。
後にケレン味たっぷりで語られる、その場所――小高い山の中腹を切り開くような形で作られた
中心には『あぶない つり きんし』の看板が立つ楕円形の池を望み、周囲を深い樹林に囲まれる、一周約一キロの散歩道の中途に誂えられた休憩用木製ベンチ。
カップルが逃げ出した直後、現在のそこには、ある男が立っている。
身長は中々に高く、シルエットだけを見ればややもすると威圧間を放つほどに特徴的。
しかし近づいてよくよく見れば、そういうものとは実に縁遠い、面白みのないツラをしていると一目でわかる。
しかし、だ。
ある意味では残念ながら、彼は木像めいた男ではあっても、木像ではない。素朴にして木訥なのは、持って産まれた風貌だけ。
このあたりで断言してしまうと。
彼――木野良孝の内面は、木像どころかそれはもう実に鬱屈していて偏屈屋であって負けず嫌いで皮肉屋でひねくれていて意地っ張り――惨めなくせに何の臆面もなく前向きに開き直り、世の中を斜に見ることに関しては右に出る者のいない、要するに阿呆の中の阿呆である。
……もっとも。そのようなことは今更殊更解説せずとも、その外見だけで容易に把握できる。
だからこそ、このようなことをやっている。
このようなことになっている。
羽織るは着流し、朝顔紋入り。
右手に分厚い本を抱えたその姿は、さながら書生を連想させる。
そこまではいい。
問題は、その先だ。
右目は幾重にも血の滲む包帯で覆われ、左腕は肩から先が存在せず元来通り抜けるべきものが不在である袖は所在なさげに風に揺れ、とどめとばかりにこの男、心臓に深々と大振りな刃物が刺さっている。
そんな、シュール極まりないなにかがそこにいた。
似非書生が物憂げな仕草でベンチへと腰掛けた、
その時である。
「しょっ、書生っ、さんっ」
話しかける、声。
やってくる、足音があった。
そちらに顔を向ける。
髪。
――黒髪おばけが、薄闇を泳ぐように駆けてくる。
そのサイズは実にちまい。
白いワンピースに身を包んだ、どう贔屓目に見ても130センチに届いているかいないか程度の身体は縦に低く横も小さい。
しかしその前は両目を覆い後ろは膝にまで届く黒々とした髪の毛だけが文字通り少女そのものである彼女の体躯には不釣り合いなまでに大量で、走れば風に膨らんでのたくる様は黒い大蛇が子供に食らいついているかのように異様であり、おまけにその両腕で後生大事そうに一体の人形を抱えている。
とくれば、さて。
有り体に言って。こんなもの、暗がりで目撃してしまったら大の大人でもまずビビる。
彼女は、ベンチに腰掛けてようやく同じぐらいになった位置にある、彼の眼と自分の眼を合わせて、見あたらない言葉を探すように口を閉じて開いてをもどかしそうに繰り返す。
「その、……えと、う、うまく言えないですけど。気を落とさないで、くださいね……」
ようやく掘り当てたその一言。それを受けて、書生が動く。
唯一の腕に持っている本を置き、人形を抱える少女の頭に手を添え、それをそのまま、ぐいりぐいり、と動かす。不器用に、撫でるようにする。
「お優しいな、
「え、」
「彼らはやはり、小生の見立て通り、本来ならば人目に映らぬこの姿、そのに捉える素質があったようだが――口惜しくも、これまでの者たちと同じく、怯え去ってしまわれた。だがな、小生は平気だ。心配せずとも、ちいとも気に病んでなどおらぬよ」
「しょ、書生さん……」
「不遇は友だ。ままならぬことには慣れている。そうとも、生前からそうであったのだ。どんな苦難に阻まれようと――半世紀を経た没後に無念を晴らす機会を頂けた、この大いなる幸運ひとつあるだけで、挑み続ける気概は尽きぬさ」
「そ、そうですよね、がんばれますよね。すごいです、書生さんっ。とってもつよいですっ」
不安げな雰囲気から一転、見え辛い表情をそれでもわかりやすく輝かせる、人形子と呼ばれた少女。
そんな彼女を見て、書生と呼ばれた男は――彼女とは対照的に、わずか、ほんのわずかだけ、口元を笑みのような形に変える。
そのようにして。
O県A市南条弧7-1-22在住、血液型AB今年で18歳現在高校3年生。
木野良孝は、微笑んだ。
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