第8話

 盛りを過ぎた桜は既に花欠片を散り終え、青々とした新芽を陽光の下に輝かせている。

 絶え間ない喧騒の片隅に取り残された緑溢れる庭園に、二つの人影が散策していた。

「この緑も見納めだろうか」

「何を弱気な事を言っている、徹。指揮を執る貴様がそれでは、付き従う者達が不安になるだけだろう?」

「……ああ、全くその通りだ。私がしっかりしなくてはな」

「立派に務めを果たしてこい。そして、無事戻ってきたら、また二人で桜を見ながら、酒でも呑もうじゃないか」

「そうだな、和久。貴様こそ、折角退役を機に、留学の栄誉を頂いたのだ。精進しろよ」

「解っているとも。居場所は違えども、我等はこの国の為に尽力出来る。在り難き事だ」

 二人はやがて庭園を抜ける道を行く。遠い騒ぎが耳に届いた。街では大きな祭事が催されていた。

 いつにも増して活気ある人々の声が、いつもは静かなこの庭園にも届いて来る。

 ふと、一人が足を止めた。

「どうした?」

「……ここに来ると、何故かいつも、誰かに出逢わなくてはいけないような気になるんだ」

「なんだ、和久。狐にでも憑かれているのか?」

「心外だな。この科学文化著しい世に、狐憑きなどあるものか」

「確かにな。さあ、もう行こうじゃないか」

「ああ」

 やがて、二人は、また歩き出す。


 河川敷の、若芽を存分に広げた桜の樹の下で、一人の青年が眼を開けた。

 夜闇を閉じ込めた漆黒の眸で木漏れ陽を見上げ、ついで、啼き声に誘われて視線を降ろした。影に埋もれた黒い毛玉の中から、二つの三角耳がぴんと立っていた。

「あの方の想いは遂げられたのですよ、けーじろー。こういう逢別もまた、史のひとつに過ぎません。小生にとっては、良くあることです」

 黒猫が啼く――でも、あの人だけ、寂しいままじゃないの?

「あのお嬢さんの史は綺麗なまま、彼の世へとしっかり旅立っていきました。きっと向こうで、渡し守さんが丁重に彼岸へお送りしている筈ですよ」

 青年の胸元で、二連の紅瑪瑙が、黒猫の首に揺れる紅瑪瑙と鳴り合う。

「死する命運は覆らなかったとしても、あのお嬢さんに心残りはなかった……それならばそれでもいいのかもしれません。誰にとっても、史は唯一つなのですから、思いのままに在るべきです……けーじろーは、そうは思いませんか?」

 か細い啼き声をあげ、黒猫は青年に身体を押し付けた――ボク……寂しいよ。だって、あの人を見ている時、寂しそうにしてたでしょ。

 青年の手が、優しく黒猫の身体を撫でる。

「小生を心配してくれたのですか? ありがとうございます。けーじろーは優しい仔ですね。小生にはそれだけで充分です」

 青年はもう一度木漏れ陽を見上げ、尻を叩いて立ち上がった。

 春は名残を洗い流して、初夏の風が、色の薄い青年の髪と、洒落た中折れ帽をはためかせた。黒猫を頭上に乗せる。

「さて、けーじろー、次はどこに行きましょうか?」

 中折れ帽の縁に白足袋の足を掛けて、黒猫は小さく啼いた――おなかすいちゃった。

「そうですね。ではお団子でも食べに行きましょう」

 黒猫を乗せた中折れ帽を少し持ち上げ、春の柔らかな陽光に面を曝した青年は、陽だまりで眠る猫のような表情に微笑を浮かべた。

「次は、どんな史に出逢えるでしょうね」

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そして、史は反転する 矢上悠惟 @freeweek

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