第7話

 突然――刻が、凍りついた。

 沙耶花はそう思った。

 言葉で説明する事は難しく、だが厳然と今、それが自分を支配している。

 青年の一言を合図にして、命が鼓動を止め、風すらも微動だにしない、狭間の刻に放り出された己を自覚する。

 その中心にいる、漆黒の瞳に満ちる、透明な笑みを見詰めて。

「……何、言ってるの?」

「言葉の通りです」

 青年が言う。

 言葉の意味を正確に捉えるのなら、およそ此の世のものとは思えない発言を。

「なにせ、小生、妖怪さんですから」

 凍りついた刻の中、青年だけが悠然と動く。

 沙耶花の前を通り過ぎ、背後に聳える桜の樹へと、そっと手を置いた。

「この桜が、貴女の後悔と願いを小生に教えてくれました。最初はただの綺麗な史だと思っていたので、桜の世迷言と受け止めて、ただ眺めているだけで充分だったのですが……ねえ、けーじろー」

 ィン――

 何かが、黒猫の啼き声に混じって、夜に鳴った。

「ですが、貴方は今願いを口にした。もう、小生と縁を結んだのです。それは契りとなるのです。だから、貴女自身が、これまで刻み続けてきた史を犠牲にしても構わないと言うのなら――その願い、小生には容易き願いです」

「……そんな事、出来るの?」

「ええ。もしも……貴方が心の底から、それを願うのであれば。沙耶花さん」

 青年が名を呼ぶたび、沙耶花は自身の心内が曝け出されていくように感じた。

 不意に脳裏に理解が閃いた。

 名を、過去を――史を、掴まれたのだ――この、不思議な青年に。

「ただ、一度史を反転すれうらがえせば、もうここに戻ってくる事は出来ません。小生は二度と貴女に逢い見える事もないでしょうから」

 こくりと、沙耶花の咽喉が鳴った。

 終の桜を見上げ、青年の漆黒の眸が、むしろ不気味なほど静かに沙耶花を射抜いた。深遠の闇へと誘い込み、永久に閉じ込めてしまう奈落が、そこに佇んでいる。

「史はいつも一本道。命ある者は皆、等しく片道だけの渡し賃しか持ち得ないのだと渡し守さんが言っていました。だから、乗り場を変えてしまえば同じ彼岸に辿り着く事は出来ません。小生に出来るのは、貴女がこれまでに立ち寄った乗り場のひとつから反対へ向かう乗り場へとご案内するのみです。その結末がどこへ続いているのか、もはや誰にも解りません……戻れないとは、そう言う事です」

 青年は、中折れ帽の縁を持ち上げる。

 もう幾度目になるだろう――月灯りに露になる青年の顔を、沙耶花は見た。

 透明で、無機な表情――だが、何処と無く寂しげな感情を宿しているからこそ、沙耶花には青年の言葉が真実に聞こえる。青年は、沙耶花にその言葉を告げることが、心底、寂しいのだと感じるほどに。

「……本当に、和久様を、救える?」

「そうかもしれない。そうではないかもしれない。ですが史は確実に変わります。貴女は死ぬかもしれません。あの御仁に出逢わなければ貴女は酷く病に侵され、今度こそ何の救いの術もなく、命尽き果てる事になるかもしれません」

「……そう」

 沙耶花の足許に黒猫が擦り寄ってきた。

 月影ですら息を潜める呪縛から解き放たれた黒猫は、琥珀色の双眸に寂しげな感情を乗せ、一声啼いた。感情豊かな眼差しを察し、青年が微笑む。

「けーじろーが言っています。本当にいいのかと。将校殿は三人で仲直りがしたいと言っていました。貴女の願いを果たしてしまえば、例え彼の世でもそれは叶えられないでしょう。あの方の願いは遂げられない。貴女がいなくなってしまっては」

 後悔を促すように、黒猫が身体を押し付ける。

 温かな感触が心地良い。

「さて……では如何しましょうか? 沙耶花さん」

 沙耶花は、眼を伏せた。

 青年が史と言った、沙耶花を形作る全てを、長い時間を掛けて思い出す。

 家族はいつも笑っていた。そして、想い出の中にいる影も、笑っていた。楽しい事ばかりではないが、苦しい事ばかりでもなかった。それでも笑顔は絶えなかった――あの時をまでは。あの、大切な笑顔がなくなるまでは。

 桜の下で微笑んでいた――一人の少年の姿が、記憶の一番奥底に、いた。

「……和久様の、笑顔が見たいの」

 沙耶花は言った。

 膝を折り、黒猫の背を押して、青年の方へと促す。

「優しい笑顔をする人だった……子供の頃は弱虫で、よく私の兄達に苛められていたわ。それでも私が来ると微笑んで、いつも一緒にこの河原に遊びに来た――そう、この桜もずっと見上げていたわ。あの笑顔を取り戻したい――私が傍にいなくても」

 名残惜しそうに振り向きながら戻って来た黒猫を、青年の腕がそっと抱き上げる。

 啼く黒猫を撫で、青年は己の胸元に提げられた二連の紅瑪瑙へと手を伸ばした。手の内にあるそれは淡い光を放ち、地に落ちた星の欠片のように揺れている。

 蛍火のようだ――真夏の夜に宿る、儚い命の幻燈。

「では……貴女自身が、小生に命じて下さい。貴女と彼の御仁との出逢いを、別離へと反転させうらがえしましょう」

 青年は中折れ帽を手に取ると、それを胸元に抱き締めた。黒猫が隠され、二連の紅瑪瑙も、黒猫の首の紅瑪瑙も、見えなくなる。

 蛍火が、消えた。

 沙耶花は、細く息を吸い込んだ。

 冷たい筈の夜気は沙耶花の胸を灼く事もなく、離れがたい惜別の情を湧き上がらせる事もなく、冷淡で、冴え渡る月灯りの結晶を身体に満たしていく。

 彼方へと続く奈落へと、沙耶花は手を伸ばした。

「――私と、和久様の出逢いを、反転させうらがえして。妖怪さん」

 青年が、少し寂しそうに微笑って、詠んだ。

「刻満ち、契結ぶ。彼の史を反転す――さあ、ご案内します」

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