第6話

 深い瑠璃色の空に、十六夜の月が昇る。

 吸い込まれてしまいそうな夜天が、いっそ身の内に巣食う混沌とした感情を全て奪い取ってくれるのではないかと、沙耶花は眼を閉じ、瞼の内側から月を仰いだ。

 花の香が鼻先を掠める。

 春を迎えたとはいえ、夜風は沙耶花を容赦なく刺し貫いた。だが、寒さを堪えてなお、沙耶花はその場を動こうとはしない。

「――綺麗な月夜ですね」

 不意の声が、頭上から聴こえた。

 今度は、驚きはしなかった。

「桜の最後の夜としてはこれ以上はないと思いませんか? ねえ、けーじろー」

 何故か、その声が――そして応えるような黒猫の啼き声が、そこから届くような気がしていた。

 沙耶花は眼を開け、月灯りに照らし出された桜の枝へと眼を向けた。

 幾重にも折り重なった桜色の中に、ちょろりと黒い影が揺れた。

「いるんでしょう?」

「昼間はいろいろと驚かせてしまって、申し訳ありませんでした」

 今度の声は、背後から聞こえた。同時に、僅かな足音も聞こえた。

 ゆっくりと振り向くと、先程まで頭上から聞こえていた筈の声の主が、中折れ帽を押さえながら照れ臭そうに笑っていた。

 この仕草、青年の癖なのだろう。

「おいで、けーじろー」

 青年が手を差し伸べる。

 微かな音が夜風に乗り、次いで黒い毛玉が、違う事無く青年の手に落ちてきた。

 一時固まってから、黒猫が顔を出す。陽光の許でも、月光の許でも、琥珀色の円らな瞳は変わらずに青年の姿を見上げている。

 沙耶花は、口を開いた。

「ねえ、ひとつ教えて」

「はい、なんでしょう?」

「……貴方、ひょっとして、妖怪なの?」

 きょとんと瞬いた漆黒の眸が、一拍置いて合点がいったように喜色を浮かべる。

「なるほど、小生、妖怪ですか。そりゃあいい」

「喜ぶような事じゃないと思うけど」

「いえいえ。小生、ただの阿呆で根無し草ですので、そこに属せた事が嬉しいのです。でもせっかく同類にして頂いても、きっと渡し守さんは嫌がりそうですね、けーじろー」

 青年は嬉しそうに、黒猫に同意を求めている。

「……属する?」

「はい。小生、何にも属する事がないのです。だから、誰かに示してもらわなければ、何処にも属しませんし、存在もしません。存在の証は誰かの理解に寄り添うもの……だから小生嬉しいのです。桜の導きがあってのご縁です。大切に致しませんと」

 そう言って、青年は沙耶花の傍らへ歩み寄ると、突然、沙耶花の額に手を当てた。

 普段ならば迷いなく打ち払うような所業に、しかし沙耶花は動かずに、じっと青年を見上げた。ほんの少し上にある視線には、悪意も害意もない。

 昼間は薄気味悪い白さだと思ったが、今は綺麗な指先だと思った。

「何か解るの? 妖怪さん」

「……貴女に連なる史の先はもう長くはありません。ですが……とても素敵な史です」

 ふびと――史。

 聴き慣れない言葉だ。首を傾げる沙耶花の手に、何か温かい感触が触れた。

 啼き声――黒猫の円らな眸が沙耶花を見上げている。青年の手から渡ってきたのだ。

「けーじろー、この方が気に入ったのですか?」

 青年が笑う。柔らかな微笑みは、この青年に良く似合う。何故かはっきりとそれを自覚出来た事を、沙耶花は不思議に思わなかった。

「沙耶花――綺麗なお名前です。お父様が付けて下さったのですね……春と夏の境に生まれ、お二人のお兄様に護られるように育った……この史はささやかながらも幸に満ちています。ありふれた――一番美しい史です」

 史、という言葉が、過去を示しているのだと、沙耶花は唐突に理解した。この不思議な青年は、沙耶花が刻みつけてきた命の歴史を読み取っているのだ。

「快活なお人柄はお兄様の影響が強そうです。そして貴女には、ご家族の他にもう一人、大切な人がいた……いつも一緒に。ああ、手を繋いでいる姿が可愛らしいですね」

 沙耶花は、小さく息を吐いた。

「……聞いたのね。徹様から、和久様の事」

「はい……怒りますか?」

「徹様がお話になったのなら、私がどうこう言う事じゃないわ……私には、あの人を殺せなかったのだから」

 言葉と共に俯く沙耶花を優しく押し留め、青年は頷いた。

「貴女の史にいるこの方は、とても優しそうです。そして、貴女をとても愛しておられる。それだけは、間違いありません」

 桜の花欠片が一枚、二人の間を遮るように視界を横切っていく。

 沙耶花の手の中にいた黒猫がそれを追いかけて飛び上がった。軽い身体はあえなく花欠片を捕え損ね、不満そうに体勢を崩しながら青年の羽織の端に爪を引っ掛けてぶら下がった。よく見れば青年の羽織は所々解れがある。黒猫の悪戯によるところが大きいようだ。

「しかし、転機が訪れる。貴女の病――」

 ぎくりと、沙耶花の身体が強張った。しかし青年は構わず続けた。

「貴女も、ご家族も、沢山泣いて、いくつもの涙に彩られた史の中、しかし、あの方だけは泣いていません……」

「――和久様はね、私を助けてくれようとしたのよ」

 沙耶花は青年の手を取った。

 青年の手は、暁に照らされる水面と同じくらい冷涼だった。

「私は泣く事しか出来なかった。でも和久様は違った。あの人は私の為に、自分が目指していた薬師の道を放り出して、戦場へと身を投じた。戦場での治療というのは市井での診療に比べて非常に切迫しているし、より高い効果が求められる。そこに私を救う術がある筈だと、あの人は笑顔でそう告げて、旅立っていったわ」

「そして、御仁は帰られなかった」

「……ええ。彼の命は、小さな薬へと変じてしまった」

 沙耶花は袂から、手の平に収まる薬包紙を取り出した。微かに粉が零れる音がする。

「全ては、泣いているしかなかった私の弱さが招いた事。徹様を恨む道理はないわ……それでもね……徹様は、私の恨み床になって下さった。私の想いのはけ口になる事を選んで下さった」

「あの将校殿は、全ての責を受けとめて、貴女と、大切な友人に、礼を尽くしているのですね……小生には出来ません。あのような高潔な振る舞いは」

「妖怪にも、高潔や卑劣があるの?」

「おや、妖怪は全て卑劣だとお思いですか? これは困りましたね、けーじろー」

 黒猫が青年の肩に駆け登り、一声啼いて頬を摺り寄せた。

「それ、その猫の名前?」

「ええ、そうです。可愛い名でしょう」

「貴方の名前は教えて貰えないの?」

「ああ……残念ですが、小生、名はありません。名は、属を持つ者の特権です」

 沙耶花から手を離し、青年は黒猫へと手を伸ばして、柔らかな毛並みを堪能するように手を滑らせた。愛おしくて仕方がない、そんな仕草だ。

「なら、妖怪さんでいいかしら?」

「ええ。小生僭越ながら、ひとつ属を頂きました。とても光栄です」

 青年は、中折れ帽に手を置いて微笑した。

 今更ながらに、沙耶花はこの青年に好感を持っている事に気が付いた。

 不思議な夜の邂逅――夜が明ければ、全てなかった事になるかもしれない、一夜の夢。

 水先案内人は、色味の薄い青年と、甘えん坊の黒猫。

「私の過去を見た感想は? 妖怪さん」

「とても平凡で、どこまでも温かく、でも少しだけ悲しい。ですが、そこに生きる貴女の輝きはまるで桜の花欠片みたいに清涼で――だから何も持っていない小生でも、美しいと思う事が出来るのでしょう」

「そう……」

 なぜか、その言葉がしっくりと胸に収まった。昼間から埋まる事の無かった思いの間隙が一つ一つ、青年の言葉によって埋まっていく。だからこそ――

 叶う筈がない願いが、言葉になって零れ落ちた。

「でもね、私はこう思うの。私の身勝手で、二人も人生を狂わせてしまった。出来ることならやり直したい。でも……一体どこからやり直せばいいのかしら」

 僅かに視線が俯き、自嘲的な笑みが浮かぶ。

 まるで青年の視線を避けるような仕草だと気付き、沙耶花は額に手を置いた。

 青年が触れていた名残がまだ残っているようで、ひんやりと冷たい感触が伝わってくる。

「もしも、もしもやり直せるとしたら……私は、思うの」

 戯言だ――今まで何度もそう思ってきた。

 それを口にしても、変わる事など何もないと知っているだけに、言い出す事もなかった想い。

 でも、これは一夜の夢。ならば多少の世迷言は構わない――沙耶花の口が開く。

「私が、和久様と出逢わなければ、全てを狂わせる事もなかった――」


「――ならばその史を、反転させうらがえしましょうか?」

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