第5話
「はてはて……なんとも元気なお嬢さんですねえ」
青年は呆けた口振りで呟くと、眼を見開いたまま手の中で転んでいる黒猫を胸元に引き寄せ、優しく撫で擦った。
「しかし……あの方、あれほど走ったりして大丈夫なのですか?」
問いかけは、沙耶花の背を見詰めていた将校に向けられた。
将校は訝しげに眼を眇めた。だが、青年は意に介した様子も無く、手遊びのつもりなのか、首から提げた二連の紅瑪瑙を指先で弄ぶ。黒猫の首にも同じ紅瑪瑙が揺れている。陽光が僅かに縞模様の合間で煌いた。
「……中を、見たのですか?」
「はい。拝見しない事には、どちらに持っていけば良いか、解りかねましたので……不躾であった事は謝ります」
驚きが解けたのか、青年の手の感触を気に入ったのか、黒猫が紅瑪瑙にじゃれ始める。
かちり、かちり、と三つの紅瑪瑙が鳴り合った。
「何せあの中身――世に憚る薬のようでしたので」
その言葉に、将校の目に、怒りが宿った。
「彼女を愚弄するのですか! もしや脅迫のつもりがあるのなら――」
力を失っていた指先が帯剣の柄にかかった音に、青年は慌てて手を振って、将校から数歩後退った。
「いえ、滅相もありません! 小生ただの阿呆ですから、言葉が足りないようでしたら許して下さい。ですが……あのように強い薬は、なかなか世には出回らないと聞きかじったもので……それでも使うとなれば余程の大事でしょうし、早くお届けしなくてはと思い至った次第です。決して他意はありません」
剣呑な空気を敏感に感じ取ったのか、紅瑪瑙にじゃれていた黒猫がぴんと耳を立て、狼狽する青年の手の中で将校をじっと見詰めた。
――離れた所から、若葉が風に揺れる音が聴こえた。
将校は真正面から、青年の眸を見詰めた。
漆黒の、闇を塗り固めたような双眸は、まるで作りたての硝子球のようで、沙耶花の決意を難なく看破した将校にも、何を考えているのか読ませなかった。
言葉通りか、裏があるのか――何処までも落ちていく、奈落のような瞳だった。
――しばしの後、将校は柄から手を離し、肩から力を抜いた。
「……そうですか、感謝します」
ようやく将校がそう口にすると、青年はほっと吐息を零した。
「もう大丈夫ですよ、けーじろー。小生、どうやらお咎めなしのようです」
琥珀色の瞳を見開いてまだ警戒している黒猫の頭を、青年が優しく撫でる。連れの黒猫を見詰める眼差しには、今は慈愛に満ちている。夜の闇が全てを包み、穏やかな眠りへと導くように。
「……不思議な御仁だな。どちらから来られたのですか?」
「どこ、と言われまして……ご覧の通りの根無し草です。将校殿」
ふと、将校は逡巡するような表情を見せた。
視線が、枯れた花束へ、そして燃え尽きている幾本の線香の残骸へと移る。冬の間、一人の少女の内で募り続けた後悔の、その果たせなかった無残な終焉を見せ付けているようだった。
「……少し、暇はありますか?」
「ええ。小生、暇だけは売るほど持ち合わせています。誰かに買って頂ければ幸いです」
「……ならば少し、その暇を私に買わせて下さい。これも恐らくは何かの縁でしょう。私の終の言葉を、聞いておいては貰えませんか?」
真っ直ぐに見詰めてくる将校に、青年は微笑みを浮かべて、小さく頷いた。
静閑を取り戻した墓地に響く、砂利を踏む黒猫の足音。咲き誇る花に興味があるのか、しきりに白い足を伸ばしては、葉や花弁にじゃれ付いている。
その光景は春の陽気に相応しい長閑な景色の一隅に過ぎないが、墓石を見下ろす将校にそれを感じる余裕はなかった。
「彼女――沙耶花さんは、私の親友の婚約者でした。ここに眠っているのは、私の幼馴染であり……共に戦場へと赴いた戦友です」
将校は腰に佩いた刀剣の柄に触れ、心を落ち着かせるように指を滑らせた。
「彼は――和久という男は、元々は薬師を目指していた事もあり、衛生兵として出征していました。腕は確かで、軍医殿の信頼も厚かった。私自身も何度か世話にもなりました」
話を聞く青年の足許に、黒猫が蒲公英の茎を銜えて擦り寄ってくる。
甘える黒猫を抱き上げ、青年は純毛の背中を撫で擦りながら、視線は将校から離さない。その表情に感情は希薄で、地蔵と言われても抗弁の余地はなかった。
「しかし――和久は罪を犯しました。上官である軍医殿の眼を盗み、薬を着服していた。その事が別の士官に発覚し、彼は罪を隠してもらう代わりに、してはいけない事に手を染めた……」
「というと?」
「表向きは戦意高揚の為の薬物――実際には、ただの麻薬でしかないものの精製を、強制されていました。和久には皮肉にも、その知識があった」
「結晶屋、ですか」
将校は刹那、恐ろしい形相で青年を睨み付けた。
人を射殺してしまえそうな視線に、青年は不思議そうに首を傾げた。
間違いではないだろう――青年の無言の訴えに、将校もまた冷静さを取り戻し、ばつが悪そうに視線を逸らした。この青年にとっては失言でも何でもなかった。ただ事実を言葉にしただけだ。
「……仰る通りです。和久は一部の者から結晶屋と呼ばれていました……私が、その意味に気付いていれば」
「とても高い技術をお持ちだったのですね……ご友人は」
黒猫が、銜えていた蒲公英を青年の胸元に差し込み、再び獲物を求めて地に降り立つ。白足袋の四足が微かな音を立て、二人の合間に漂う沈黙を僅かに薄めた。
「……しかし、こんな大それた事をずっと隠し通せるわけがない。結果、あいつは規律を乱し、利己的な理由で軍へ損害を与えたとして、薬物の精製を強要した士官共々、処刑されました」
「その引き金を引いたのが、貴方なのですか?」
「……そうです。あいつが薬を着服していた事実も含め、上官へ報告したのも私。奴の最後の表情に銃弾を撃ち込んだのも、私です……知識があった事を言い訳にしても、あいつはとんでもない大馬鹿者だ。軍の薬を盗めばどうなるかなど、解るだろうに……」
「それでも、そのご友人には薬が必要だった……あのお嬢さんの為、ですか?」
将校は、口唇を噤んで天を仰いだ。
頭上の蒼空を雲が流れ往く。午後の半ばに差し掛かった陽射しはまだ暫く沈む事なく、その下で生きる人々の影を大地に刻み続ける。影と見まごう黒猫は飽きもせず墓石の間を往来し、時折足を縺れさせては、ころりと転がっていた。
「奴の遺品を整理している時、私への手紙と一緒に薬が多数出てきました。これを彼女に――沙耶花さんに渡して欲しいと。そこには、彼女が治る見込みのない病に侵されている事、酷い痛みに苛まれている事、そして、その為にこの薬が必要なのだという事が書かれていました」
「なるほど……それにしては、元気なお嬢さんです」
青年は沙耶花が走り去った方角へと眼を向けた。もちろん、そこには誰の姿も無い。
こうして青年が沙耶花を見送るのは二度目である事を、将校が知る由もない。
「国内にいては、その薬を精製する事は叶わなかった。強力な鎮痛薬であり、軍でも火急の場合にのみ使用が許可されている。戦中、その効果を目の当たりにした和久は、是が非でも彼女の為にこれを持ち帰ろうとし、荷物の中へ紛れ込ませていた。私は、その薬が確かに軍規に触れると知っていたのに……棄てる事が出来なかった。あいつが、命を賭けた薬ですから」
「でしたら……あのお嬢さんが貴方を恨む理由はないのでは? 貴方は、大切な遺品を無謀と承知で届けてくれた恩人では、ないのですか?」
「……それでも、私が彼を殺した事には変わりないのです。私が彼の行いを報告しなければ、和久は死なずに済んだかもしれない。こうして彼の遺品を届ける意志があったのならば、どうして最初から見逃さなかったのかと、沙耶花さんが思っても無理の無い事です」
「そうなのですか……小生には、よく解りません。貴方も、ご友人も、誰かの為を思っていただけなのに、誰かに責められなければならないのは、何故なのでしょうか」
眼を剥いたのは将校の方だった。
咎められて当然の事に対して何の怒りもなく、別段重要な事ですらないような態度を取る青年の仕草に、将校は呆気に取られていた。
「御仁は……変わった方ですね」
「はい、よく言われます」
微笑んで、青年は手遊び代わりに、首から提げた二連の紅瑪瑙へと指を滑らせた。
「貴方は……あのお嬢さんに命を差し出す事で、罪滅ぼしをしようと……?」
「……身勝手な妄想だと、嘲笑いますか?」
「いえ。ただ、とても寂しい事だなあ、と……」
青年は僅かに眼を細め、遊びまわる黒猫へと視線を移した。
「戦場で、命を賭けてお嬢さんの命を護ろうとしたご友人の思いも。ご友人の最後の願いを聞き届け、赦されない行為を果たした貴方の思いも。親友の決意を慮ってくれた人に、抑え切れない激情を抱いてしまうあのお嬢さんの思いも……これでは何ひとつ実る事なく散っていくだけです……まるで、今を盛りとした、桜の花欠片のように」
中折れ帽を押さえ、青年も天を仰いだ。視界に今は桜の花欠片は見当たらない。悠々と往く千切れ雲を見上げている。
「小生は意気地なしですので……とてもそんな事は出来ません。でも、それはとても寂しい事だと思うのです」
「……手厳しいのですね、御仁」
「ご気分を害されたようでしたら、ご容赦下さい……でも、貴方はただ、小生に慰めて欲しいから、お話下さったのだとは思えません……だから、寂しい事だとしか、小生には言えないのです」
「いや……まったく、貴方の言う通りなのでしょうね。何の結果も実らず、ただ三人の人間が死んでいく」
「あのお嬢さんも、もう?」
「ええ……和久には悪いが、沙耶花さんの病は一度の薬では治す事は出来ない。だからこそ、思い残す事などないようにと……いや、またしても身勝手な言い分ですね」
青年は将校を見据え、指先で紅瑪瑙を弄んでいる。
「……せめて彼の世では仲直りも出来るでしょう。私は、和久が沙耶花さんと共に笑っている姿が見たい。優しい和久と、明るい沙耶花さん。今この場にいるのが私ではなく和久であったら、どれほど良かったか」
将校は制帽を被り直し、口の端を歪ませた。精悍な顔立ちの将校には、少し似合わない仕草だった。
「……もし、この歪みを正す事が出来たとしても、果たしてどこからやり直せばいいのか私には解らない。解ったところで覆す事など出来はしない。しかしそれが出来なければ、沙耶花さんは孤独のままだ。ならば歪みを正す方法はひとつしかない。和久が先にそれを選んだだけの事……私は、その後を追いかけるのみです」
「……果たして、本当に仲直り出来ますか?」
青年の許に戻ってきた黒猫が三角耳をぴんと欹て、制帽に隠れた将校の眸を見上げた。
「さて……それは解りません。なにせ、私はまだ、死んではいないので」
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