第4話

 街は近年、爆発的な発展を遂げた。

 それは先の戦で戦勝国となった煽りでもあり、また今まで虐げられていた人々が声をあげた事で、団結し活気付く事を覚えた時代の余波でもあるのだろう。

 時代はつかの間の異様な高揚に浸っていた。

 聳え立つ高層建築、優雅な異国の様相を湛える街並み、整備された道路には人と荷物を満載した路面電車が往来し、そこかしこから怒声や陽気な歌声が聞こえる。

 道行く者の服装もまた、多く和装から洋装へと変貌し、景観の華やかさに一役買っている。むっつりと表情を顰め、山高帽を押さえながら足早に行く紳士の傍で、若い娘達が髪に結った愛らしいリボンを褒め合っている。巨大な百貨店に出入りする老若男女を問わない人影が途切れる事はない。

 ほんの少し前――沙耶花の父母や祖父母の時代にはこんな光景は無かったというが、沙耶花にとってはこれが生まれてこの方、馴染みのある光景だ。

 喧騒を抜けると、ふわりと一筋流れた風が背中の髪を揺らした。

 春らしい甘い匂いをいっぱいに詰め込んだ風に導かれて、沙耶花の足は人込みから離れていく。発展著しい街に取り残された緑の一角。沙耶花の知らない街の盛衰を見守ってきた木々が作る下闇に目的の人物を見つけ、沙耶花は一度足を止め、深く呼吸した。

 河川敷で余計な時間を取られてしまったせいでここまで駆けて来る羽目になった事など、表に出してはならない。はしたないからだ。

 そうだとも――突然妙な青年と黒猫が桜の上から落ちてきた、など笑い話にもならない。

 すっと息を吸い込み、表情を引き締める。

 雑念を振り払い、沙耶花は人影に向かって、努めて明るく声を掛けた。

「――徹様」

 視線の先で、将校姿の男が振り返り、制帽を少し持ち上げた。制服を隙なく着こなし、気負い無く細身の刀剣を腰に下げている。

 市中での帯剣を赦された軍人の周囲に、人影はない。

「お逢い出来て光栄です、沙耶花さん」

 将校は陽に焼けた精悍な顔に、意外にも人好きする笑みを浮かべて沙耶花を出迎えた。長身で肩幅が広く、いかにも軍人然とした体躯だが、眼は小さく仔犬のようで、柔らかい笑みが良く似合う。

「お待たせして、申し訳ありません」

「とんでもありません。急にお呼び立てしたのはこちらなのですから」

 揺れる木漏れ陽の許に駆け寄ってきた沙耶花に、将校は咽喉を鳴らす。

「ですから、それほど急がなくとも大丈夫ですよ」

 息を整えてきたが、将校には露見しているらしい。

 わざとらしくもう一度深呼吸をして、心を落ち着かせる。

「いえ、徹様の貴重なお時間を頂いているのですから……」

「堅苦しい事は無しにしましょう。少し休みますか?」

 そう言った将校の手に、軍人には到底似合わないものを見つけて、沙耶花は眼を細めて微笑んだ。強張っていない事を願いながら。

「構いません。折角お花をご用意頂いたのですから。参りましょう」

 言葉通り、将校の手にはささやかながらも春らしい花を集めた花束が握られていた。明るい色彩は押さえ、落ち着いた佇まいの花につられて、沙耶花の呼気も整っていく。

 頷き返し、将校はゆっくりと歩を進め始めた。その半歩後ろに沙耶花が続く。歩幅の違いを悟らせない一歩の距離感は、将校の無言の心遣いだ。

「良い日和です。お陰で、桜を愛で終えてから発つ事が出来そうです」

 将校は煌きが零れる梢を見上げて呟いた。影のせいだろうか、見上げた横顔が少し寂しそうに思えて、沙耶花も僅かに表情を曇らせる。

「……出発は、いつになるのですか?」

「明後日です。暫くは向こうに駐留する事になります。次の桜は、一緒に眺める事が出来るかどうか……ですが、最後に貴女に逢えて良かった」

「最後、ですか……」

「ええ、恐らくは……」

 二人は、木漏れ陽が落ちる道を進んだ。

 喧騒から隔離された庭園は春の陽気に包まれ、他にも散歩を楽しむ人影がいくつかあったが、言葉少ないままの二人は、殊更緩やかに歩を進める。まるで一歩を惜しむように。

 やがてその足が下闇を抜け、古い寺社の境内へと入っていく。

 周囲には静寂が隙無く敷き詰められ、住職の姿も今は無い。

 砂利を踏む二つ分の足音だけが存在感を主張する。そして二人は境内を通り抜け、更に人気の無い一角へと足を向けた。

 丁寧に掃除がされた、幾つかの墓石があった。

 小さいながらも檀家の情を受けた墓地が陽光に照らされている。冬が空け、そこで眠る者達にも暖かな日々が訪れていることだろう。

「……次にあいつに逢うのは、きっとここではない場所なのでしょうね」

 ふと、将校が呟いた。

「次に戦があれば、きっと私は生きては帰れないでしょう……これでようやく、あいつに顔向けが出来そうです」

 沙耶花の歩幅が、徐々に狭くなっていく。

 将校との差が一歩毎に開いていくが、将校は先に立って進んでいく。沙耶花の視界には将校の肩が、そして背中が見え始めた。

「あいつは……きっとこの春を、貴方と過ごしたかったでしょうね。あいつは、事のほか桜が好きだった」

 もうはっきりと背筋の伸びた大きな背中が見えていた。

 沙耶花は口唇の端を噛み締め、零れそうな声を堪えた。

 手を懐へと滑らせ、強く握り締める。

 将校の影が、沙耶花の視界で大きくなる。

 鼓動が、早まった。

 指先に触れる感触に、苦い唾が口腔内へ溢れ出す。

 背中を向ける将校は、沙耶花が今どんな表情をしているかなど知らないだろう。この庭園を歩く間に沙耶花が口を閉ざした事にも、気が付いていないだろう。

 やがて、将校はひとつの墓の前で、足を止めた。

 墓石に刻まれた文字の中に、新しいものがあった。

 いつ手向けられたものなのか、供えられた花は既に枯れていた。将校は大きな背中を丸めて膝を折ると、携えてきた花と交換し、懐から菓子を取り出し、半紙を折って墓前に供えた。手際よく蝋燭に火を点し、線香を燻らせる。

「甘いものくらいは好きに食わせてやりたいが……出来る事なら、これを持っていってやりたいものだ」

 将校の表情は、沙耶花には見えない。

 屈んだ背中は大きく、そのせいで呟く声の寂しさが却って強調される。

 こんなに大きな背中の大人が語る言葉にしては、あまりにも頼りない。

 沙耶花は音を立てないように幾度か胸を上下させ、胸中に溜まった呼気の全てと共に、ようやく声を吐き出した。

「徹様……旅立たれる前に、どうしてもひとつ、お訊きしたい事があります。本日はその為にお逢いしとうございました」

 心地良い筈の薫風が、やけに咽喉に絡みつく。躊躇う言葉を吐き出させまいとしているように。しかし沙耶花は、将校の背中に向けて、言った。

「……後悔して、おいでですか? あの人を……和久様を、討った事を」

 将校は、応えない。

 ただ静かに制帽を取って両手を合わせ、瞼を伏せた。

 一度押し出された声は止まらず、沙耶花はなおも言葉を連ねた。握り締めた手を、更にしっかりと固めながら。

「だからあの方の許へ行く為に……戦場に行くのですか?」

「――そうかもしれません。ですが」

 将校は答え、そして膝を付いたまま顔をあげた。しかし沙耶花には視線を向けず、墓石に刻まれた名を読み上げるように淡々と、告げた。

「今この場で貴女に討たれたとしても、私は、悔いはありません」

 沙耶花は、はっきりと身体を震わせた。

 懐中から覗いた華奢な手の中で、何かがきらりと輝く――短刀だった。

 咄嗟に隠そうとして、将校から見える筈がない事を理解する。

 それでも、気付かれた。

 小娘の思惑など、隠し通せるわけがないと断じられた。

「これでも軍人の端くれですから……」

 無情な想像を肯定し、将校が振り返った。

 沙耶花が震える。誰かを傷付けるには些か小さい凶器を手に、無意識に一歩後退る。

「貴女が、和久の事を忘れる筈はない。そして私が彼にした事も、忘れられる筈が――」

「忘れる筈がありません! 貴方が、貴方が和久様を!」

 怒声が空を割った。

 静閑の墓地に響いた声は、咽喉から吐き出したそのままに掠れて、沙耶花の感情を更に逆撫でする。勢いよく懐中から手を抜き放つ。もはや隠す必要もない短刀を突きつけ、沙耶花は躊躇いを振り払うように声を張り上げた。

「どうして殺したのですか! 軍規違反は、それほど重罪なのですか!」

「――そうです、沙耶花さん」

 将校は無表情に答え、沙耶花との間を一歩詰める。

「理由はどうあれ、和久は罪を犯したのです。そして私にはそれを罰する義務があった。だから彼の命を奪った。貴女の大切な、恋人を殺した――」

「そうよ、貴方は、貴方達はただの人殺しなのよ! 戦があれば、誰でも殺す! 例えそれが親友だとしても!」

 言い放った一言に、将校は少しだけ驚いたような表情をした。

 制御し難い衝動に駆られ、沙耶花は短刀を握り締めながら、大きく歩を踏み出した。

 髪に結わえられたリボンが揺れ、愛らしい流れを風に乗せる。

 将校は動かなかった。

 ただ静虚の眼差しで、激情に染まった沙耶花の顔を見詰めていた。

 短刀が、将校の腹に届く――

「――お嬢さん。それはお止めになった方がいいと、小生、思うのですが……」

 ――それはいかにも軟で、頼りない声だった。

 余りにも唐突に滑り込んできた第三者の声に、沙耶花は思わず腕を引こうとして、何かに手首を掴まれたまま、全く動かせない事に気が付いた。

 突き出した手を諌めるように、白い手が沙耶花を押し留めている。

 それほど力を込めているようには見えないのに、微動だにしない。

 ――小さな啼き声が、氷結した場に響いた。

「っ!」

 声に釣られて足許を見た沙耶花は、刹那、ふわりと何かが足首に擦り寄ったのを感じ、身体を強張らせた。

 ――円らな琥珀色の眸を瞬かせ、鴉羽色の純毛を纏った仔猫が沙耶花を見上げている。

「けーじろー、こっちにいらっしゃい」

 別の声が言う。沙耶花の腕を掴んでいる主だ。

 眼を見張るほど白い腕の先には、見覚えのある容貌があった。

 漆黒の眸が、苦笑の形に細められる。

「また逢いましたね、お嬢さん」

 小首を傾げ、声の主はようやく沙耶花の手を離した。

 数歩、沙耶花と将校の距離が開いてしまう。

「あなた……」

 先程、河川敷で出逢った青年だ。

「すみません、場所が解らなくて、約束を破ってしまいました。でも……小生、なにやら微妙な機でお邪魔してしまったようです」

 青年は洒落た中折れ帽に手を掛けると、照れ隠しのように少し目許に陰を作った。

「……何者か、貴方は」

 誰何を問うたのは将校だった。

 突然の闖入者に狼狽する沙耶花よりも、将校の方が多少冷静だった。無自覚の動作なのだろうが、腰に佩いた剣の柄頭に手が掛かっている。

 それを見た瞬間、沙耶花は急に恐ろしくなって、短刀を手放した。

 砂利の上で跳ねた金属音が、やけに耳に障る。

 まるで沙耶花を断罪するような音が、激昂していた感情に冷水を浴びせかける。

「小生、通りすがりの風来坊です。こちらのお嬢さんとは、先程別所にてすれ違いまして」

 すれ違った? いや、違う。この青年は沙耶花の目の前に落ちてきたのだ――

「その時にこの方が落とされたものがありましたので。お渡しせねばと捜していたのですが……いやはや、小生、生来間が悪い性質でして……」

 沙耶花の足許から抜け出した黒猫が器用に青年の腕を駆け上っていく。と思えば、突然青年の羽織の内に首を突っ込んで、するりと何かを銜えて引っ張り出した。

 小さな、巾着だ。

 それを見た瞬間、沙耶花と将校は同時に表情を強張らせた。

 だが青年は構う事無く黒猫を手に乗せると、紐の端を銜えたまま行儀よく座った黒猫を沙耶花に差し出した。

「けーじろーがお返ししたいそうです。貴女のもので、間違いありませんか?」

 青年の言葉に応じて、黒猫が首を傾げる。

 穢れのない琥珀色の双眸に射抜かれ、沙耶花は反射的に巾着を奪い取ると、踵を返して駆け出した。鼓動が容赦なく身の内から溢れ出し、沙耶花を追い立てる。

 自分がしようとしていた事の大きさを、ようやく思い知らされた――それを意味する早鐘が、駆け出す毎に大きくなっていく。

「沙耶花さん!」

 背中に将校の声が聴こえてきた。しかし、沙耶花は足を止める事など出来なかった。

 混沌とした感情を抱き、全てを飲み込む無情な喧騒を求めて、ひたすらに走った。

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