第3話
「いやはや、なんとも元気なお嬢さんですね。けーじろー」
のんびりした呟きへの答えは、ちょろちょろと動き回る影の挙動だった。
黒猫が再び青年の頭に居場所を陣取って、中折れ帽の縁から顔を覗かせる。一対の琥珀色の眸が、青年と、折れてしまった若枝を行き来していた。
黒猫の眼があからさまに落ち込む――ごめんなさい、ボクのせいだ。
「仕方がありませんよ。あの方が持っていた光が気になったのでしょう?」
青年が手を伸ばすと、黒猫は腕に寄り添うようにして、素直に手の中へと収まった。
「なんだったのでしょうねえ、あの光は……」
黒猫が首を傾げる――さあ、なんだったんだろう?
胸元に抱き寄せた黒猫の下で、何かが、微かに鳴った。
よく見れば、黒猫の首には小さな紅瑪瑙が揺れていた。鴉羽色の純毛に埋まるように、青年の中折れ帽と同じ瑠璃色の紐に通された石が、耳鳴りにも似た高い音色を奏でる。
鳴り合ったのは黒猫の紅瑪瑙と、沙耶花を走らせた光を生んだ原因――青年の胸元に提げられた、二連の紅瑪瑙だ。
縞模様が良く似ている。元は三連だっただろう紅瑪瑙は、互いに身を当てる度澄んだ音を奏でた。誰かがその音を聴いたならば、とても硬い石がぶつかり合う音だとは思わなかっただろうが、青年も黒猫も、それに気を止める様子は無い。
「ともかく、この枝に罪はありませんから、
青年が、折れた枝の切り口に触れる。
と、黒猫の首と青年の胸元が――ぼんやりと燈った。
三つの紅瑪瑙が不思議な蛍火を燈す。
昼日中にあっては、誰も気に留めない光。
月影に埋もれる小さな屑星の如きそれを見詰めているのは、円らな黒猫の眸のみ。
「刻満ち、契結ぶ。彼の史を反転す」
青年が、詠んだ。
次の瞬間――ほんの瞬きの間、蛍火が漆黒に染まった。
あらゆる色彩を呑み込む闇は、忽然と周囲に空白を創み――瞬きを負えた時には、青年の手にあった枝が、姿を消した。
青年が顔を上げる。腕に抱えた黒猫にも見えるように体勢を変えて。
遠い蒼穹へと手を伸ばす桜の枝葉に眼を凝らせば――そこには、少しだけ節くれだった若い枝があった。まるでそこだけ樹皮を剥いでわざと節立たせたような枝は、当たり前のように陽光へと手を伸ばしていた。
小さな蕾が二つ、三つ見える。周りから幾許か遅れてはいるが、この枝にとっては恐らく初めて綻ばせる蕾だろう。
「ああ……やっぱり、桜は大きな樹で見上げるのが一番ですねえ」
青年が微笑む。
黒猫も同意の声を上げる――キレイだねえ。
ふわりと散った花欠片が青年の目の前へと舞い落ちて、飛び跳ねる髪の一房へと止まった――先程まで他と変わらずに色のなかった髪の中で、その一房だけが黒い影へと染まっていた。他の髪色とは、真逆の色。
青年はするりと花欠片ごと髪を指に絡め、その一房を器用に他の髪の中に掻き消した。何度か手櫛で整える――もう解らなくなってしまった上に、中折れ帽の縁をそっと傾けた。
「さて、これからどうしましょうか――」
腕の中の黒猫に伺いを立てようとした青年は、ふと、足許に眼をやった。
何かが下駄に触れたのだ。
「おや?」
地面には、小さな巾着が落ちていた。
拾い上げれば重さはほとんどない。青年は躊躇なく口を解いた。
中身を一瞥し、口許に微笑が刻まれる。
「これも、異なる縁なのかもしれませんね、けーじろー」
黒猫が白い前足を巾着へと伸ばすのをやんわりと制しながら、青年は、快活な少女が走り去った先へと眼をやった。
もうそこに、人影はなかった。
「いえ……桜の導き、というべきでしょうか」
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