第2話
「あいたた……酷い目に遭いました……」
春の空の片隅から墜落してきた青年はぶつぶつとそう呟き、肩に付いた花欠片を軟な手付きで払い落とした。落ちた時にぶつけたのか、片手はしきりに腰の辺りを擦っている。
「けーじろー、大丈夫ですか?」
一頻り身の不幸を確かめ終え、ため息と共に青年は頭上を見上げ、言った。
春の日差しに、容貌が曝される。
この辺りではまず見ない、榛のような色の薄い髪が目に付く。瞼に掛かりそうな前髪といい、首筋が隠れそうな襟足といい、むず痒くなるような中途半端な長さである上に、毛先は四方八方へと無秩序に飛び跳ねている。
縒れたシャツに枯草色の羽織袴、蘇芳色の鼻緒の下駄履き――服装はありふれているから、余計に容貌を際立たせてしまう。肌も髪色と同じく気味が悪いくらいに色白だ。
空を見上げて眼を細める表情が、陽だまりで欠伸をする猫を思わせた。
そう――猫だ。
例えるなら、毛色の珍しい猫のような、浮世離れした風情の青年だった。
「あ、貴方……どこから……?」
眼の端に入ったのか、まだ額に付いていた花欠片を払い落とした青年は、ようやく気付いたようにぼんやりと沙耶花に見返し、小さく微笑んた。
「ああ、すみません。驚かせてしまいましたね。怪我はありませんか?」
柔和な印象を裏切らない軟弱な声を発した青年に見詰められた途端、沙耶花は息を詰めた。音にならなかった声が固まって、喉の奥にひやりとした痛みを生む。
真っ直ぐに沙耶花を捕える――漆黒と呼ぶに相応しい、闇色の眸。
色味の薄い青年の中央にあるそれは、まるでその闇を創り出す為に青年から全ての色彩を奪ったといわんばかりに黒々と輝いて、沙耶花の意識を惹きつけた。
「え、ええ……」
「それは良かったです」
青年が微笑むと、その眸は触れ難い神秘さの中に、少しだけ愛嬌を滲ませた。
と――目を逸らせずにいた沙耶花から、青年の微笑を奪うように、またも何かが落ちてきた。
頭上に真っ直ぐ落ちてきたそれに視界を覆われ、青年は短い悲鳴を上げて、またも無様にひっくり返った。
落ちてきたのは、帽子だった。
下地は象牙色、そこにひと帯、瑠璃色の染め抜きがされている、洒落た中折れ帽だ。
但し、落ちてきた中折れ帽の上には、得体の知れない黒い毛玉が乗っていた。
驚き続きで眼を瞬かせるしかない沙耶花の前で、中折れ帽の縁をひょいと持ち上げて視界と確保すると、青年は頭上に両手を翳し、毛玉をそっと抱き上げた。
「けーじろーも、怪我はありませんか?」
毛玉が、啼いた。
か細い声を合図にして、丸くなっていた毛玉が、もぞもぞと動き出す。
黒い仔猫だ。
青味のある鴉羽色の純毛の中から、小さな三角耳が二つ飛び出す。
身体や尻尾はもちろん、耳まで全てふわふわした毛に覆われ、まだあどけない顔には一人前に銀色の髭がぴんと伸びていた。
四肢の先端だけが足袋を履かせたように白い毛で覆われている。まだ生まれて間もないように見えた。
「もう危ない事はなしですよ?」
青年の手で包まれるように撫でられ、黒猫は甘えるように声を上げた。
青年は膝に手を付いて立ち上がると、もたもたと尻の辺りに付いた砂埃を払い落とした。色の薄い青年の顔が予想よりも大分下に浮かぶ。流行の長靴を履いて少し嵩上げされた沙耶花の視線よりも、ほんの少し高い程度の背丈。男にしては低い。
肩も女のように撫で下がっている。声を聴かなければ男女の別も判然としなかっただろう。ますますこの界隈では見かけない形だ。
近所の男達は皆官職とは縁のない、海や陸で力仕事に精を出す屈強な男か、過酷な訓練に励む軍人ばかりだ。
改めて沙耶花を見て、青年は照れ臭そうに中折れ帽に片手を置いて前に傾け、折角開けていた目許に、また少し陰を作った。
掌中から抜け出した黒猫が青年の肩を駆け上がり、襟足の長い髪の中へと隠れるように危なげなく背中へ回る。
突然空から降ってきたこの青年は、なんなのだろう。
昼日中にこんな所で暇を持て余しているという事は、勉学に飽いた不真面目な書生なのか。小奇麗な装いから察すればどこかの放蕩息子なのか。ただのろくでなしである可能性も高い。
驚きから脱し、正体を暴こうと怪訝そうに眼を細める沙耶花に、青年は申し訳なさそうに頬を掻いて、ゆっくりと片手を持ち上げた。何かを握っている。
「あの……小生、決して悪気はなかったのですが……やはりこれは、怒られますよね?」
言葉の真意を掴みかね、沙耶花は首を傾げた。
言われるまま青年が掲げたものへ視線を移し、今度は別の意味で口を半分開いた。
そこには、桜の若枝が握られていた。
「あ、貴方、御神木の枝を!」
「ああ、やっぱり所縁のある樹でしたか。どうりで立派だと思いました」
置き去りにされていた意識が、ようやく現実に追いついた。
風変わりな青年が齎した唐突な出来事の連続に、霧散しかけていた全ての注意が逆戻りしてきて、感情に大波を呼び起こした。
「これが街の御神木だって解ってるの? まだこんなに若い枝を折って!」
沙耶花の剣幕が尋常ではない事態を把握させたのか、青年は桜の枝と沙耶花の間で、何度も視線を行き来させる。
「す、すみません、本当に御免なさい。何分、終の花を咲かせていた桜があんまりに綺麗でしたので、つい近くで眺めたくなりまして――」
「なりまして、じゃないでしょう! 大体、桜は登るものじゃなくて眺めるものよ! 子供でも解る事でしょう!」
「申し訳ありません。この通り、小生は風来の身。学などあろう筈もなく……」
「常識で考えなさいよ! 大の大人が!」
烈火の如く怒り出した沙耶花を見ても、青年は陽だまりの猫の顔のまま、苦笑いを繰り返す。小さな黒猫の方が余程心配そうに青年の肩を行き来して、その度に影が移り変わる。
「あの……弁償、でしょうか?」
「貴方! 桜の枝を弁償出来ると思ってるの!」
「ですよねえ……」
なんとも受け答えが頼りない。
これほど洒落た風体をしていなければ、あるいは酒の匂いの一欠片でもあれば、身元不詳の浮浪者として、即座に警察に突き出しているところだ。
なおも意気込む沙耶花が、更に声を張り上げようとした時だ。
――青年の胸元で、何かがきらりと光を発した。
その煌きに、沙耶花の胸の内でどくりと鼓動が跳ねた。咄嗟に視線が硬直し、言葉が空白に置き換えられる。
思考の停止は一瞬だった。
僅かな逡巡のあと、沙耶花は強く手を握り締めると、険しい眼光で青年を見据えた。
「貴方、今すぐその枝を持って、公園の横にある派出所に行きなさい! そうしたら街の代表の所に案内してくれるから、誠心誠意謝りなさい!」
「はあ……派出所……って、なんですか?」
「警察の詰め所よ!」
この青年、一体何者なのだろうか? まるで世情に詳しくない。というより、もしかしなくてもただの阿呆なのだろうか。
しかし沙耶花には青年の行末を見届ける余裕はなかった。ぽかんとする青年と無残に折られてしまった枝を横目に、沙耶花は踵を返して走り出した。
「いい、必ず行くのよ! 解ったわね!」
「は、はい……解りました」
上品な着物を纏う時代には走るなどとんでもなかったが、今は袴のお陰で存分に走る事が出来る。巷では自転車に乗る女性も増えた。そうだ、自転車があればいいのに――詮無い考えを振り切るように、沙耶花は更に力強く長靴を蹴り出した。
桜に見惚れている場合ではなかった。ましてや、軟弱な青年の相手をしている場合でもない。人と会う約束をしていたのだ。視界の片隅で煌いた光の欠片が、ようやくそれを思い出させてくれた。
ふと、空を見上げる。
今日も青い――時代がどれだけ変わろうとも、この空だけは変わらないと、誰もが信じて疑わないのだろう。沙耶花も、その一人になりたかった。
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