そして、史は反転する
矢上悠惟
第1話
「もうすぐ、終わってしまうわね」
少女――沙耶花は呟いた。
暖かな風が耳を掠め、頬に掛かる髪をふわりと遊ばせてゆく。
時は、春――終の盛り。
路傍の景色はいつも代わり映えしないようで、その実、刻々と様相を変えている。
止まる事のない季節は、長い冬からようやく解放された喜びを存分に謳歌し、あっという間に次の夏を目指して駆け出してしまっているようだ。
馴染み深い河川敷は、暖かな陽光と散り終えた桜の花欠片が、惜しげもなく敷き詰められている。つい先日、満開の桜の下で盛大に花見が催された事さえ、もう懐かしい。
甘い香に身を任せるように、沙耶花は眼を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、宵闇に燈された飾り提灯。酔った男達の陽気な声。賑やかな婦人達の笑みと、夜にはしゃぐ子供達の笑い声。
星空から訪れた風が音を立てて枝葉を揺らし、舞い上がった花欠片が川面へと降り立つ。その光景を、誰もが穏やかに見詰めている。
――静かに流れていった、いい夜だった。
瞼を押し上げた沙耶花の眼には、まだこんもりと花を咲かせる一際大きな桜の樹が映っていた。
終の花がまだ少し春風に揺れている。しかし、もう所々に小さな緑の新芽が見えた。あと数日もすれば、きっと装いは一変するだろう。
河川敷の主であるこの桜が散り終われば、季節はまたひとつ、確実に次へと巡るのだ。
「全て散る前には、貴方の許へ参りますから」
沙耶花は、僅かに表情を強張らせた。
華奢な手を握り締める。
懸命に固めた拳の中で、何かが、きらりと陽光を弾いた。
呟いた言葉がそのまま結晶となったような、凛として潔い、瞬きの煌きだった。
その時――
「――あ、駄目ですよ、けーじろー」
――空から、声が返ってきた。
ぎょっとして、沙耶花は声の主を捜す。
見上げた先にあるのは桜の花ばかり。
どこから――首を傾げた時、薄紅色の梢の間隙で、何かが、動いた。
「危ないですよ、駄目ですって、あ――」
次いで――沙耶花の前に、何かが派手な音を立てて、落ちた。
無数の花欠片と芽吹いたばかりの新芽と、細い小枝まで少々引き連れて、それははっきりと一人分の重さを伴って、地面を揺らした。
呆気に取られた沙耶花は、はしたなくもぽかんと口を開けて、落ちてきたそれを眺めるしかなかった。当然だ。思いもよらなかった。
それは確かに――一人の、青年の姿をしていたのだから。
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