終章
柔らかい風が、アイオレスの頬を撫でていた。
新しい息吹が芽生え始めていたが、大地にはいまだ無残な傷跡が広く残っている。
時折、空へ浮上する戦艦がうららかな日差しをさえぎった。澄み渡った青空には、すでに無数のデストシア艦が帰路へと着き始めていた。
空高く浮上した戦艦が陽光を反射する。
その彼方、白く姿を見せる月と並ぶように、ルシフェンヌがたたずんでいた。
ふと、地球を離れるディアボロイドらに向けて、春風に乗せた音色が流れてきた。それはまるで、私信としてアイオレスに別れを告げているかに響く。
あれから一度も顔を合わせていないが、ピアノを奏でる姿が鮮明に浮かびあがる。紡ぎだされる音色は優しく、また母親の慈愛を含んだ悲しみが含まれていた。
「将軍」
陽のあたる大地を見下ろしていたアイオレスに、同じ音色を聞いていたオセが声をかけた。
「デストシア一の戦士が、恋わずらいですか」
昇ってゆく戦艦の陰から太陽が顔を出した。そのまぶしさにアイオレスは額に手をあてる。
「そんな幼稚なものではない」
「愛を説いた将軍が、愛を否定するのですか」
「そうではない」
ふたりが人間の姿であれば、アイオレスの眉間にしわが寄り、オセの口元には微笑が浮かぶのが見られたであろう。
「それから、その将軍と呼ぶのはやめてくれ。もうデストシア軍は存在しない。もう我々は戦う必要がないのだから」
オセは、後ろからアイオレスの視線を追って広がる大地を眺めると、吹きあがった風にマントがゆらめいた。
その腰にはサーベルが下がっていない。
「ですが、これからは我々が自然の摂理と共に生きて行かなくてはならない過酷な試練が待っています。それは戦場で剣を振るうよりずっと難しく困難です。そのためにもディアボロイドを牽引する指導者が必要なのです」
「わかっている。だが将軍と言う肩書は必要ない。欲しがるようなら、あいつにでも与えてやれ」
「さぞ、喜ぶでしょう。いえ、それでは先代が墓より目覚めるほどに怒りましょう」
「どうかな。私は将軍の仕事を託された訳ではないのだから。そもそも、いま思えば彼とて好きでやっていたのではないだろう。同族の均衡を保つための抑止力として、出来の悪い子供たちの面倒を見させられていたのだ」
「不敬罪ですよ」
ひときわ強い春風がふたりを包み込み、オセはそのまま目を閉じると流れる旋律に耳を傾けた。
「このピアノも、もう聞けなくなるのですね」
「永遠にではない。いつかディアボロイドが再び人間として生きられるようになったとき、人類は我々を受け入れてくれると、私は信じている」
「そんな未来が、本当に来るのでしょうか」
アイオレスは降ろした手を見つめ、そして顔を上げた。
「来るさ。数千年も昔に失ったものを、我々は取り戻すことが出来たのだ。これから、どのくらい時間がかかるかは分からない。だが、いつかは必ず人間に戻れる。そのためにも、我々はもっと多くの事を学ばなくてはならない」
「その時まで、貴方のそばを離れませんよ」
「お前」
絶句したアイオレスに、オセは喉を鳴らした。
「冗談です。さあ参りましょう、みなが空で待っています」
急に人間臭くなったオセに戸惑いつつも、アイオレスはラベリウスの中へと戻っていった。
そのとき風に揺れる大地を背に、アイオレスはいまだ旋律を奏でる彼女が持つ花言葉の意味は、何であったかと思い返していた。
ハルジオン・完
ハルジオン K @Mochi_Sakurai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます