自首を望むモノ
ひとつの案件を処理し終えて、だけれど私は、息をつくことすらできなかった。
両肩にかかる重圧はなにひとつ変わらなかったし、重荷を投げ捨て脱力するような気持にはどうしてもなれなかった。
託されたもの、みせつけられたものは、どちらも私の精神を削るには十分だった。
なにより、私のポケットを揺らすケータイの着信が、一切の逡巡を許さなかった。
スマホを取り出し、ディスプレイを覗く。
表示されているのは、見覚えのない電話番号だ。
私は躊躇わず、電話に出た。
「はい、斑目壬澄です」
『…………』
「もしもし?」
『……黄地玄男です。自首をしたいと思っております。どうか至急、永崎港の26番倉庫──赤レンガの倉庫まで、お越しください』
「自首ならば出頭してください。すでにあなたは指名手配の処遇にあります。免罪や減罪をお考えなら、それは無意味です。途中まで、迎えをやりますから──」
『どうか、くれぐれもおひとりでお越しください。きっと、お待ちしております』
暗いその声音とともに、通話は音を立てて打ち切られた。
「…………」
重ねるべき言葉の余地はなく、ゆえに一時、私は思考する。
どんな意図から来る電話であるか、そんなことは、考えるまでもなく明白で、
だから私が考えたのは、このことを誰かに伝えるかどうかということ。
彼は、私がひとりで来ることを望んでいるが……
「…………」
結局、迷うことはなかった。
同じ文面のメールを、ふたりの人物に送付する。
彼女、或いは彼なら、空気を読んで応援を寄越してくれるだろう。そんな根拠なき確信が、私にはあった。
ポケットにスマホを戻そうとすると、すぐさま着信。
『 タイトル:馬鹿な真似はよしなさい
From:西条蜜夜
To:斑目壬澄
本文:
悲しんでいるのは、あんたひとりじゃない。少しは頭を冷やしなさい。 』
「……うん、ミッちゃん、ありがとう」
でも、私は──許せないから。
友人の正論に心から感謝しつつ、私は一歩を踏み出す。
踏み出したつま先を、なにかが打った。
大粒の雨が、降りだしはじめていた。
◎◎
降りしきる雨に打たれ、濡れ鼠なりながら、私は目的の場所に辿り着いた。
傘は持っていなかった。
理由はないが、そんな気分だったからだ。
下着まで沁みこんだ雨の冷たさに眉根を寄せながら、私は倉庫の扉に手をかける。
はっきりいって、この場所を特定するのは骨が折れる作業だった。
赤レンガの倉庫など、永崎の港には山ほどある。
そのうちからひとつに絞れというのは、無理難題もいいところだ。
それでも、私はいま、ここにいる。
蜜夜のあと、あのメールのあとに連絡をくれた人物のおかげで、この場所を突き止めることができた。
彼には率直なお礼をあとで述べるべきだろうが、同時に少し、お灸をすえてやろうとも思う。
事件がこれほどまで厄介なことになったのは、彼が意図的に嘘を吐いたからに他ならないのだから。
だから、もし無事に戻れたのなら、怒ってやろうと、私は、そう思ったのだった。
そんなどこかぬるい心持を、一呼吸の間に張り詰めたものに切り替える。
私は、一息に扉を押し開けた。
ギィィっと、軋みながら開く扉。内部からは、嗅ぎ慣れた吐き気を催す臭気が漏れ出してくる。
眉間にしわを作りながら、私はゆっくりと倉庫のなかへと踏み入っていった。
屋内はひたすらに暗い。
照明が落とされていて、そもそも電源から切り離されているようで、スイッチを操作してもうんともすんとも言わない。
時折、空をはしる稲光。
それだけが光源だった。
視線を油断なくめぐらせる。
倉庫の内部は、非常に雑多な物で溢れていた。
倉庫なのだからといわれれば、反論の余地などないが、あまりに整理というものがなっていない。それこそ私がいえた義理ではないけれど、しかし、これではまるで、なにかを隠していると、物陰を作っていると言わんばかりだ。
実際、乱雑に積み上げられた木箱やごみの山のせいで、視界は最悪だった。
倉庫の中ほどまで進んだ私は立ち止まり、声を張り上げる。
「黄地玄男! 私は、斑目壬澄は、あなたの言葉の通りひとりでここまで来ましたよ。自首をするのでしょう? 罪を償うつもりなら、姿を見せてください!」
吐き出した陳腐な説得の言葉。
ありふれた
それに対する返答は。
ほとんど間を置かずに、返ってきた。
「──倉科昂樹……でしたか? あの刑事さんを
陰々滅々とした声音。
取り調べの日に聞いた、営業マン特有の張りがある声ではない。
活力などどこにもない、汚濁に塗れ、血潮に塗れ、どこまでも沈んで落ちる、そんな声だ。
そんな声が、どこからともなく、響く。
「柳忠利。有田清。扶桑小太郎。徳井泰治。野杖満智。花木辰巳。そして、中華の女。やつらの……あのおぞましいバケモノどもの、ひとならざる獣どもの、その手を、足を、指を、腕を、脚を、命を千切り獲ったのはわたくしです。この、わたしくなのです」
「千切り獲った……?」
私は僅かに首を傾げる。
「切除した……の間違いでは? どう考えても、あちらの方に重きを置いた遺体ばかりでしたが?」
「ク──クッググ」
響いたのは、くぐもった笑声だった。
陰惨で、狂喜的な、聴いただけで正気の有無が理解できてしまう笑い声が、私の問いかけを遮ったのだ。
諦観。
彼が、的外れの返答をする。
「へへ、ひっ……わたくしは、九か月前、はじめてひとを殺したのでございます」
それは唐突な殺人告白だった。
彼は、柳忠利を殺したのだと言った。
同時に、その動機をも暴露する。
「殺してやりたいと、常々思っていました。絶対に許してはいけない、なにがあろうとも殺さなくてはならない、そう思っていたのです。しかし、わたくしに、すべてを失ったわたくしには、なんの力もなかった、無力でございました……ですが、そんなみじめなわたくしに、光が、黒い光が差し込んだのです」
だから殺したのだと、彼は言った。
だからだと。
「殺す力を手に入れたのです。ならば、わたくしは、殺さなければならなかった。だから殺した、全員殺した、立ちはだかるものも殺した、必要ならば無関係でも殺した。それは、それは──」
「ご家族の復讐のために──ですね」
「────」
私の言葉に、彼の長広舌が凍りつくように止まった。
私は。
午前中に処理したひとつの案件を、思い出していた。
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