解決篇

悼むための痛み

 倉科くらしな昂樹たかきという人物について、私はあまり多くのことを知らない。

 正義感にあつく、警察向きでないほど直情的で、同じぐらい人情味に溢れた警察官。

 物怖じをせず、臆面もなく誰とでも接することができる、それでも情にほだされてしまうところがある優しい男。

 たった、その程度のことしか知らない。

 そんな彼と、以前、食事に行ったことがあった。

 ……とはいっても、高級フレンチや満漢全席というわけではないし、色気のある話でもない。

 そこらに幾つもある、牛丼屋のチェーン店に、忙しい職務の間を縫ってご飯を食べに行ったというだけの話だ。

 確か、そのときのことだったと思う。


「壬澄警部は、牛丼のたまねぎって、どう思うよ?」

「呼び捨てで結構です。それより、なんですか藪から棒に? 奢ってくれと言われても、奢りませんよ、私は」

「……俺よりあんた、べらぼうに給料もらってるだろうが。がめつい女だなぁ」


 呆れたようにヘラリと笑った彼は、同じ問いかけを口にした。


「玉ねぎですよ、この、あっても無くても同じようなやつだよ」

「あっても無くても同じなら、あっても無くても同じだと思うべきではないんですか?」

「ちょっとした遊びだろ、付き合えよ」

「……そうですね、まあ、箸休めにいいのでは? 歯触りも、しゃきっとして美味しい」

「でも、メインは肉だろ?」

「そうでね、肉です。私はこの安い肉をお腹いっぱい食べるためにこのお店に来ています」


 だから、薄給でもねーんだから焼肉屋にでも行けよ。

 そう言って、彼は苦笑する。


「俺はね、あっても無くてもいい。でも、無くちゃならないものだと思ってるんだ」

「矛盾ですね」

「矛盾はねーよ。牛丼なんざ、あんたが言うように肉が食えりゃあいい。だが、実際は玉ねぎが入ってる。なんでだ?」

「なんでですかね、教えてほしいです」


 薄切りの牛肉を一枚箸でつまみ、口腔に投げ込みながら私は尋ねる。真剣に訊いたわけではない。実際、かなり投げやりに聴こえただろう。あくまでこれは、食事中の雑談に過ぎなかったはずだからだ。

 だけれど、噛み締めた肉の味と、彼が返してきた台詞はまったく同種のものだった。

 なんというか、実に薄っぺらで、甘ったるいそれ。


「守るためだ」

「へー」

「気の抜けた応対はやめろよ、萎えるなぁ。あー、その、言い方が悪かった。玉ねぎはな、肉を柔らかくするために入ってるんだ」


 なるほど。それならば解かる。

 玉ねぎに含まれる酵素が、肉を柔らかくするとかいう、その辺のグルメっぽい話なのだろう。

 私は納得し、出汁の沁みたご飯を口へと運ぶ。


「肉ってやつは、火を通すと硬くなる。食えないもんになっちまう。だが、玉ねぎが間に入れば、多少なりとも柔らかくなる。どうしようもなくなるまえに、なんとかできるんだ」

「限度があるでしょ、玉ねぎは万能じゃないですよ」

「そりゃそうだ。限度、それは当然あるよ。でもな、それでもあるとなしじゃ大違いだ。あっても無くても同じだが、どうせならあった方がいい、そういうもんさ」


 得意げにそう言って、牛丼を食べ終えたのか御冷を口に運ぶ彼。

 私は少しだけ考えて、言った。


「なるほど、解かりました。つまり……倉科くんはそういう刑事になりたいんですね」

「ごふ」


 気管に水が入ったのか、目を白黒させてせる彼。

 私は構わずに続けた。


「人という肉は、熱狂すると思考が凝り固まり、それはいずれ、犯罪という悲劇を産む。だけれど刑事という玉ねぎが間に入れば、それを柔らかくとぎほぐすことが出来るかもしれない。であるのなら、そういった要素を持った者がいてもいい──ええ、素敵な理想じゃないですか」

「壬澄警部……台無しだ、そういうのは、わかっても言うもんじゃない」

「その呼びかたこそ台無しですよ。そうですね、いえ、確かに台無しです。お詫びにいつか、焼き肉でも奢りますよ」

「マジかよ、さすがエリート様は太っ腹だぜ。ちんちくりんのくせに」

「青臭いあなたより、いくらかましですよ」


 私と彼は苦笑をかわす。

 そう、それは青臭い理想だった。

 でも、とても……とても素敵な理想ねがいだと、そのときの私は思ったのだ。

 倉科昂樹。

 彼という男は、そんな刑事だった。

 好い男だった。


 それが──いま、目の前で死んでいた。


 彼の遺体に、切断と呼べるものは存在しなかった。

 しかし、それは無傷であったとか、楽に死ねたとか、そういった意味を一切内包してはいない。

 いったいどのようにすればそんな死にざまになるのだろうかと、私は首を傾げるしかなく、ほとんどの同僚たちは口を押え、その場で、或いは嘔吐に走った。

 永崎眼鏡橋の袂は、吐瀉物と糞尿、血と、そして死の匂いで、地獄と化していた。

 横たわる遺体。

 その腹が、裂かれている。

 正確にいえば、大砲の球でも当たったかのように、抉れて、穴が開いていた。

 肋骨の下、右のわき腹あたりが、ごっそりなくなっているのだ。

 そうして、周囲には肉片が、内臓が、臓物が、散乱している。

 この時点で、きっと彼は抵抗する力を失って。

 それでも犯人を、捕まえようとしたのだろう。

 指先から一本一本。

 爪の一枚から、骨の一つまで。

 両手足のすべてが、圧し折られていた。

 ぐしゃぐしゃに、重機で圧縮したようにグシャグシャに。

 彼の手足は、無くなってしまっていた。

 そこで諦めて、楽に死ねればよかったのだ。

 だけれど、私の知る彼ならば。

 手をなくし、脚をなくし、たとえ動けなくなったとしても、彼は止まりはしなかったのだろう。

 彼は凶行を止めようと、ただそれだけを願い、行動したのだろう。

 そうなのだろうと、わかってしまう。

 彼について、ほとんど何も知らないくせに、わかってしまう。

 彼は、好い男だったから。

 ……叫んだのだろうか、諭したのだろうか。

 そのどれか、あるいはすべてが犯人の逆鱗に触れて。

 そして頭部を割られたのだ。

 それは致命傷の一つだった。

 意識なんて失ったに違いない。

 ついで顎を引き千切られた。目玉を抉られ、耳を落とされ、鼻をがれ、頭皮をむしりとられ、そうして、喉を潰されて──それでも死ななかった。

 いや、死を許されなかったのか。

 心臓に残る、根元までめり込んだ1本の医療用メス。

 それが、最終的に彼の命を奪ったのだ。

 冷徹に、真っ直ぐに突き立つその刃が、彼を殺した。

 ……そこまで行って、彼はようやく、死ぬことができたのだ。

 倉科昂樹巡査は、かくして殉職した。

 あっても無くてもいい。だけれど、いたほうがいい存在になりたいと願った彼は、この世に居ないものにされてしまったのだ。

 ……ああ、馬鹿野郎。


「まだ、焼き肉を奢れていなかったのに」

「壬澄?」

「なんでもありません。続けてください」

「……臨場で──現場の検証でわかったことはこの程度よ。傷の順番は、正直司法解剖次第。でも、たぶん末端から。頭部の傷が最初かも知れない。凶器は不明だけど、明らかに同一犯と思われる手口で、だけれどこれまで以上に荒々しい殺害方法だと言えるわね。。監視カメラ系の映像は結局ダメだった。でも目撃証言は取れているわ。現場から逃げていく、黒い右手の人物が目撃されている。順当に考えれば、それは黄地玄男でしょうね。下足痕ゲソコンも採取できたし、令状の申請が間に合えば、家宅捜索で優位な物証を上げられるはずよ」

「そう、ですか」


 私があまりに腑抜けた表情をしているからだろうか、鑑識である西堂蜜要は、自分の領分を超えた情報まで、わざわざ拾ってきて私に聞かせてくれる。

 まったくもって有り難い話なのだが、どうしてだかお礼を言う気分にはなれなかった。

 瞑目し、佇んでいると、胸ポケットで着信音が鳴った。

 目を開く。

 私を案じるような表情の彼女に、大丈夫だと微笑みを返し、私はケータイに出た。


『──御手洗だ』

「部長……」

『さすがの壬澄くんも落ち込むか。無理もない。だが、君は刑事だ。立ち止まるな』

「……はい」

『では……良い話と悪い話がある。どちらから聞きたい?』


 その問いかけに、ほんの少しだけ私は迷い、


「でしたら、悪い話から」


 まるで物語のポンコツな刑事のように、そう言っていた。

 逃避にも近い選択に、しかし御手洗部長は変らない冷静な口調で答える。


「────」

『そして、こちらは良い話──いや、朗報と呼ぶには無理があるだろう──倉科が生前追っていた事件の真相が判明した』


 倉科くん。

 その名前に、白化していた私の意識は、現実へと舞い戻る。

 御手洗部長は、告げた。


『一年前の轢き逃げ殺人──黄地玄男が家族と、彼の右腕を失われた事件の、その真相だ』


 部長の語るひとつの事件と、倉科昂樹が追い続けた真相。

 浮き彫りになる、真犯人。

 すべてを聞き終えて。

 私は、嗚呼と呻き、天を仰いだ。

 その姿が現場になかったにもかかわらず、黄地玄男の指名手配は既に始まっている。余罪がありすぎるからだ。

 おそらく、そう時間をかけずに彼は検挙されるだろう。

 ならば、そのまえに。

 そのまえに、この案件だけは片付けておかなければならない。

 いまは亡き同僚を思いながら、私はそう誓った。

 マーダ―サーカス事件と同じだ。

 悲劇は、繰り返してはならないのだから。


 倉科くん、やっぱり、あなたは玉ねぎだったのかもしれない。

 だって、


「いまの私は、こんなにも頑なになっているのだから──」

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