マフィアと外科医と職人と

 の名前が、黄地玄男から聴取で出てきたことは、はっきりいって不意打ちだった。

 まさか──劉小虎から聞き及んでいた名前が出るなど、いったい誰が予想しえたというのか。

 黄地さんの事情聴取が行われるまえ、私は当然の義務として劉さんから、李美鈴の事情を聴いていた。

 電話を介した、非公式なそれであったけれど、珍しく出し惜しみすることなく、彼は私に情報を提供してくれたのだ。


美鈴メイリンは、に向かっていたのですよ。ええ、明確にあこぎな商売ということは理解しています。しかしこれが生業です。彼女──そう彼女ですが、我々の管轄にですね、ずっと居座って商売をしている女性がいるのですよ。もとは英国人がはじめた店でしたが、いつからか彼女が治めるようになりましてね。再三立ち退きを求めたのですが、これがうんと言わない。武陣海は面子で食ってる組織ですから、なめられっぱなしではいられない、上がそれを許しません。いろいろと立場のしがらみが多い紅山楼は、自然動かざるを得なくなった。もちろん勧告は何度もしました。そのうえで、彼女は従わなかった。ゆえに、実働部隊として美鈴が──そして本部から寄越された素性の知れない手勢が、脅迫するためにあの夜、彼女の店へと向かったのです」


 その、彼らが立ち退きを求めていた店の名前が〝ジャックの義肢工房Jack of the prosthesis workshop〟。

 ひとりでそこを切り盛りする、現女主人の名前を、黒詩──黒詩嗣躯ツグミと、いった。


『不慮の事故とでもいいますか、それこそ通り魔的な犯行なのではないですか、今回のそれは? 美鈴は浮かばれませんが、この街でなら充分そんなこともある。まあ、ミスミンにはなんとか解決してほしいと思いますがね、ほら、ケジメは付けなくっちゃ。あなたが犯人を確保できないなら、我々が動くだけ、ということです』


 あの貼り付けたような笑みが見えるような底意地の悪い口調で、劉さんはそんなことを言って、そうして電話は切られたのだった。

 黒詩嗣躯。

 ここにきて、やにわに浮上してきた名前を看過するということは、私たち警察には難しかった。

 立ち上げられた捜査本部は、取り調べによって得た情報から黄地玄男の周囲を徹底的に洗い始めた。

 その同時刻、私は、永崎大学付属病院を訪ねていた。

 理由はひとつ、あるものを確認するためである。

 根岸和郎医師。

 緑の診察着に、白衣。

 首からは聴診器を下げ、目には老眼鏡。

 顔つきは、引き攣ったように神経質で、かつ胡乱気うろんげ

 その壮年を過ぎ、老境に差し掛かろうかという医師は、しかし、目の奥にひどくぎらつくものを潜ませながら、私の面会申請を受諾してみせた。

 不自然に黒い髪──染髪され、整えられたそれを撫でつけながら、彼は技術屋特有の、嫌味たらしい口調で、私へと問いを投げる。


「ふん。警察も暇なものだな。患者とおしゃべりを楽しむ暇があれば、我が大学病院に損失を与えた犯罪者をさっさと検挙したらどうだ。えぇ? どうなんだ、その辺りは? ジャック・ザ・リッパーなどと、珍妙な名で呼ばれているそうだが?」


 彼が私を見る目付きは、王様が人以下の下僕を見るそれと大差なかった。

 傲慢といえば、傲慢の方が不平を言うだろうとすら思える、自分自身に対して絶対的な自信を持つ者だけが有する眼光。

 そんな彼に、私はいつも通りの声と表情で応じる。


「事件の進展につきましては、守秘義務がありまして」

「こちらは被害者だぞ、横柄だろう」

「……そうお怒りにならないでください。そうですね、今日は、患者さんとの面会に、特別な許可を頂けたことですし、少しだけなら都合します」

「ふん、そう、特別。特別だ。患者は常に安静な環境にあり、医師が感知できる場にあらなければならん。そこに、貴様のような異物を入れることがどれほどの損益を産むか……考えたことはあるのか、女刑事?」

「壬澄と呼びすててください。いえ、浅学非才な私には、とても思い至りませんでした。申し訳なく思います」

「ふん……おれのメンツにかかわる話だ、真剣にやってもらおうか」

「はい。お怒りはごもっとも、ご懸念もごもっともです」


 だから、すこしだけ話をしよう。


「現行、6番目の被害者と目されている人物──つまり、この病院の外科医である花木辰巳さんは」

「優秀な外科医だ、二度と間違えるな。彼は、おれと並び立つほどの腕を持った医者だ。

「……はい。優秀な外科医である花木さんは、どうやらほかの6人──正確には李美鈴を覗く5人ですが──とは殺人状況に差異があるのではないかと思っています」

「ほう?」


 聞かせてみろ。

 その老人は、鷹揚に頷くと、私に話を促してきた。

 私も頷きを返し、ひとつの仮説を口にする。


「あくまでこの病院で行われた司法解剖に基づく解釈なのですが、睡眠薬の種類が、異なっているという結果が出ています」

「なに?」


 訝しげに眉根を寄せる根岸医師。

 私も首を傾げつつ、それに答える。


「いえ、おおよそ同じものなのですが、

「それが、どうした。麻酔ならば、認可されている限りいくらでも手に入れようがあるだろう」

「ええ、そうなんですが……」

「なんだ、はっきり言え」


 怒気すらのぞかせる老医師に、私は困惑を隠せないまま、その事実を告げた。


「ほかの殺人で使われた睡眠薬は、すべて強力な、国内未認可の代物です。ですが、花木さんの遺体から検出されたものだけは、一般的に処方される睡眠導入剤だったんです」

「……なんだと?」

「そんな怖い顔をしないでください、私たちもこれには疑念をもっているんです。どちらの薬剤も、意識を奪うには十分な代物です。前者──国内未認可の薬物であれば、恐らく致命傷を負ったところで目を覚ますことはないでしょう。しかし後者の睡眠導入剤であれば」

「場合によっては目を覚ますと、そう言いたいのか、きさまは」


 はいと、私は頷いて見せた。


「そこに、なにか意図的なものがあるのではないかと、私は睨んでいます。この事件だけ、犯人が違うとか……もっと言えば、そもそもなんのために、犯人は睡眠薬を投薬しているのか──とか。わざわざ延命処置をするなんて、

「……きさまだけか」

「はい?」

「そのことを訝しむような優秀な刑事は、きさまだけかと訊いているのだ、女刑事」


 鷹のような眼光とでも言えばいいのか。

 異様に鋭い目つきで彼は私を睨み、そう問うてきた。

 私は逡巡するように目を瞬かせ、さらに頬を掻いてから、随分と間を取って、答えた。


「……ええ、いまのところは。他の捜査員たちは、としか思っていませんよ。連続事件なのですから、少しは違いが出るだろうと。だから、私だけですね。ここまでひねくれているのは」


 あはは、と。

 私は気の抜けた笑い声をあげて見せた。

 だが、根岸医師はニコリともしてくれない。

 むしろ、考え込むように沈黙してしまう。

 ざっと経歴を洗ったところ、この老人は場数を踏んでいる。

 その見た目に違わないほどに、ひとの死について、かなりの場数を踏んでいる。

 おそらくその直観かなにかが、いまの会話に違和感を覚えているのだろう。

 彼は、そのあとも沈黙を続けた。

 私が患者と面会する段になっても、根岸老人は黙考したままだった。


「失礼。私は、永崎署刑事課の斑目壬澄です。本日は、あなたのその義肢について、お話を伺わせていただきたく参りました。少々お時間を宜しいでしょうか?」


 病室で暇そうに雑誌を読んでいた彼──小長おなが吉希よしきは、私が面会の理由を告げると、快く(ただし一度、黙ったままの根岸医師の様子をうかがってから)その手足を見せてくれた。

 左足と、左手。

 その両方が、カラスの濡れ羽のように黒い、義肢であった。


「えっと、すごいんすよ、これ。前の──もとの足とか手と変わらないように動いて、違和感もないのに、力強くって──あ、見てみますか?」

「ええ、是非」

「えっと……こんな具合です!」


 よほど暇だったのか、嬉々として彼は私に、義肢の性能を示してくれる。

 パフォーマンスとして握り潰された赤色の果実は、透明な果汁をぼとぼとと床へとこぼす。根岸医師が何か言うかと思ったが、彼はいまだ黙考したままであり、それは杞憂だった。

 そのあとも、小長さんは義肢の性能をいろいろと見せてくれた。

 他の患者さん──この病院には、黄地玄男が義肢を販売した患者が複数いた──からも事情を聴き、それらをしっかりと脳裏に刻んだうえで、私は丁重にその場を辞した。

 根岸医師にも挨拶はしたのだが、彼はぞんざいに「ああ」とか「ふん」とか鼻を鳴らすだけだった。

 その眉間には、深い苦悩のしわが刻まれているのが見て取れた。

 病院を出た私は、その足でもうひとつの目的地へと向かう。

 本来の予定──アポイントメント通りの人物と会うためだった。

 新場中華街から西へ2駅ほど、南北方向へのびる瞑華ベイカ通りのいきつく先、行き止まりに、そのは存在した。

 古びたつくりの看板がひっそりと掲げられている以外、それはほとんど、まったくといっていいほど人目にはつかない。

 倉庫か廃屋だと言われれば、納得してしまいそうになるほど、うらぶれている建造物だった。

 辛うじて、洋風のドアノブに引っかかる〝OPEN〟の文字が、その工房──ジャックの義肢工房が営業中であることを示していた。

 そっと、ドアノブをひねり、扉を開ける。

 チリン、チリンと鈴が鳴り、やがて、その音に負けないほど美しい声音こわねが、店の奥から響いた。


「はーい! いま出ますから、少しだけ待ってくださいねー」


 澄みきった声。

 鳥の歌声のような、心地よい声音。

 心に染み入るようなその音を、何度か頭の中で反芻していると、声の主は、それほど時間をかけずに姿をあわらした。

 オーバーオールに軍手、髪を赤いバンダナで括った、小柄な女性。

 くりくりとした眼が愛らしい彼女に、私は尋ねた。


「あなたが──この工房のオーナーですか?」


 彼女は答えた。

 はつらつとした、やはり歌うような声で。


「はい、わたしがオーナーの──黒詩嗣躯ですっ。ようこそお越しくださいました、刑事さん!」


 微笑み、祈るように胸の前で合わせて見せた彼女の両手は──



 夜の色よりもなお深い、漆黒の義手だった。

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