そして事件が……
◎◎
この屋敷――総部屋数65部屋とかいう訳の解らない広さのお屋敷だ――を、美鳥嬢は〝
本来はそんな名前ではなかったそうだが、彼女が幽閉されるようになってから、そういう風に呼称されるようになったらしい。
東大寺並みの大きさに、
ひとりは、主たる紅奈岐美鳥。
その執事である壮年の男性、
メイドの、
庭師の
そして――超常犯罪者、形川リナ。
この五人だ。
美鳥嬢は、私が形川リナに会うことを、今日一日は禁止した。
「わたくしはまがりなりにも紅奈岐の人間。客人をやすやすと権力に売り払ったとなれば
などと素知らぬ顔で言われてしまえば、反論の余地はない。
警察権力を振りかざし横車を押すことも出来なくはないが、美鳥嬢が紅奈岐財団に所属しているというのが大きすぎるネックだった。
財政界に顔が利き、一時は首相の進退にまで影響を与えたと噂される一大財団だ。おいそれと手を出して、今後協力を拒まれるのは警察としても辛い。
拒まれるだけならともかく、圧力をかけられてしまえばそれでお仕舞だ。
警察機構には、その程度の権力しかない。
美鳥嬢は、絶対に件の女優を部屋から出さないと約束して見せた。
明日になれば身柄を明け渡すことも、そして紅奈岐に属するすべてのものが形川リナに一切の協力をしないことも確約して見せた。
だとすれば、下手に手を出さないのが上策ではないかと、持参した衛星通信機で上司と連絡を取り合った結果、そんな結論に落ち着いたのだ。
つまりは明日の夜明けを待つということになったのである。
理由は、三つある。
一つ目は、先に述べたとおり紅奈岐財団を敵に回したくないから。
二つ目は、この真子島から本土へ戻るための方法が、紅奈岐財団の有する――つまり私の乗ってきたクルーザー以外に存在しないこと。移動手段は他になく、形川リナに美鳥嬢は絶対にそれを提供しないと明言した。つまり奴は籠の鳥なのだ。
そして三つ目。
どうやら形川リナが、現在その超常犯罪を可能とする状況下に無いということ。
これは既に警察でも把握済みだったが、どうやら状況証拠から判明した仮説によれば、彼女の犯罪はある特定の条件がそろわないと再現できないらしい。
……ああ、そうだ。
理由は三つといったけれど例外的にもう一つ。
そして、現状それこそが最たるものなのだが――
「……すごい、天気ですね」
私はあてがわれた自室の窓から外を眺め、曇った表情でそう口にした。
私の表情以上に、外は荒天だった。
ばかみたいに暴風が吹き荒れている。
まるで台風のようで、海は逆巻き、黒雲渦巻く空にはイカヅチが走り……正直どうしようもない天候になっていた。
「こうなってしまえば、いかに紅奈岐財団の最新鋭クルーザーと言えども、出航することは適いません。港を出た瞬間に転覆してしまいます」
そんなバリトンのボイスを背後から投げ掛けられて、私は「ですよねー」と応じつつ振り返った。
立っていたのは柔和な笑みをたたえた壮年の紳士だった。
ロマンスグレーの髪に、漫画のような見事なカイゼル髭。執事服を纏った彼は、この島唯一の執事、鳥羽瀬愁さんだ。
「この度はお嬢様の招待に応じて頂き、恐悦至極でございます。しもべの眼から見ましても、なかなかムチャな要望で御座いましたでしょうに」
そういって、彼はお手本にしたくなるようなきれいな角度で頭を下げてみせる。
物語に出て来そうな執事さんだなと率直な感想が脳裏をよぎり、次いで私は苦笑する。
物語的といえば、私こそ物語的。
私の追う不可能犯罪者たちが架空の存在のように
どこまでもダメダメで、状況に容易く流される。
美鳥嬢のお願いを聞いてしまった時点で、それは驚くほど明らかだった。
だから、思ったまま苦笑の意味を告げると、「だからでございます」と彼は
「この国の、どこを探しましょうとも、ここまでの無理難題を二つ返事で聞き届けて下さる刑事様など、貴女様以外にはおられないでしょう」
「んー……それ、褒めてます?」
「もちろんでございます。貴女様の柔軟な対応に、この通り頭が下がる次第でございますので」
言って、ロマンスグレーの頭が、また教科書的な角度で下がる。
私は頬を掻いてみせることしかできなかった。
「天気予報って」
話題の転換を図ろうと、また窓の方を向く。
暴風雨が叩き付けるように窓を揺らしていた。
「天気予報って、こうでしたっけ」
「はい、今日このような天候になると、おおよそ七日前から予報が出ておりました」
……改めて自分の無能っぷりに直面する。
直属の上司である
私は、こういうことがあり得ると承知で一秒でも早く形川リナの身柄を押さえるためにこの島へと飛んできたというのに――まったく、馬鹿としか言いようがない。
いや、必死にもなるさ。盲目にもなるさ。
だってその女優は。
あの忌まわしき事件の――
「それでは、御予定の通りこの館の使用人たちを紹介してまいりたく存じます。と言いましても、みな職務の途中で御座いますから、斑目様にそれぞれの持ち場まで御足労を願うことになってしまうのですが」
「……ああ、鳥羽瀬さん、私のことは壬澄でいいですよ」
斑目と言う姓は、正直嫌いだから。
斑目と、それだけ呼ばれることは、大嫌いだから。
そんな私の内心を読み取ってくれたのか、鳥羽瀬さんは一瞬だけその瞳を
「では壬澄様」
と、そう呼んでくれた。
私はこくりと頷き、こたえる。
「ええ、案内してください。ついでに歩きながら、鳥羽瀬さんの役割なんかも教えてもらえるとありがたいです」
堂に入った仕草で畏まりましたと頭を下げて、彼は恭しく出入り口のドアを開け、そのまま控えてみせる。
どう考えても私のような下々に対する対応ではないのだけれど、案外わるくない気分だったので、鼻歌のひとつでも歌いながら私は部屋を出た。
「こちらへ」
渋い声に促され、完璧なエスコートで私たちは目的地に向かう。
いいなぁ、私も執事欲しいなぁという阿呆のようなことを道々考えていると、鳥羽瀬さんはしっかりと私の要望に応え自分の職務について語ってくれた。
……なんだ、私と彼の、この、雲泥の差は。
さて、彼の主な仕事は、美鳥嬢の執務の補助だった。
美鳥嬢は紅奈岐家から半ば絶縁状態にあるが、だからと言ってその関係性がすべて絶たれている訳ではない。あくまで半ば。彼女が担い、彼女にしかできない案件も存在する。
「大きな声では言えませんが、例えば本日のようなことがそれに該当します。紅奈岐家が必要とするとき、紅奈岐家がいつでも切り離すことができるお嬢様のもとへなんらかの問題がある要人を隔離――いえ、保護するという名目で御座います」
紅奈岐ほど巨大な財団ならば、それも必要なことなのだろうとは、私のような人間にも簡単に想像ができた。
私は警察組織の人間だが、だからこそ権力や財力というものがいかに社会に対し影響力を持つかを知っている。罪を犯せば人は罰せられるが、その罰の執行を引き延ばし、逃れる方法も存在するということだ。
「世の中って、世知辛いですね」
「たしかに、一概に美しいとは言えませんな」
そういった美しくない仕事の処理を、彼は担当していることになる。
もちろんそれだけではなく、館の掃除だの備品のチェックだの一般的な執事の業務は何でもござれらしいが、それにしたってもっと有能なメイドがいるということで、そのかた任せになっているらしい。
「それが彼女――三田恵理子で御座います」
紹介された女性は、
髪を左右に三つ編み、丸い眼鏡をかけて給仕服。表情は冷たいが真剣。三十代と思しき三田さんは、恭しくスカートを持ち上げると私に向かって挨拶をしてくれた。
「三田で御座います。食事、掃除、身の回りの御支度、ご入り用でしたらなくなんなんりとお申し付けください」
「あ、それは――どうも。ちなみに、夕食はなんですか?」
「メインは近海で取れました真鯛のポワレとなっております。失礼ですが、鶏卵にアレルギーなどはございますか?」
そんなものは無い。
というか、庶民の私が卵にアレルギーがあるとか辛すぎる。
そう答えると、彼女は真剣な表情で頷き「では、ウフ・フリットもご用意いたします」と言った。
…………。
なんだ、ウフ・フリットって?
卵料理なんだろうけど、私、日本語以外は英語とドイツ語ぐらいしか解らないぞ? そのどれでもない言語の料理は、私にとって完全に未知だった。
フリット?
揚げ物?
私の頭に浮かんだクエスチョンマークは、次の人物と会うまで……いや、会っても消えちゃくれなかった。
「自分は、楽田英輔と言います!」
それまでの二人とは打って変わって元気よく声を上げたのは、オーバーオール姿の短髪の青年だった。
楽田英輔。
確か庭師だった……はずである。
「そうっす。自分はお嬢様のもとで庭師をやらせていただいてるッす。あ、でも、庭園の世話だけでなくって、裏の畑や家畜の世話もやっているっす!」
「畑? 家畜? そんなものまでこの島にはあるんですか!?」
彼はうっす! と胸を張って答えた。
それ以上、なにも言ってくれなかった。
困惑し隣を見遣ると、鳥羽瀬さんがコホンと咳払いし、補足してくれる。
「真子島は遠洋に近い位置にあります。なにかの事情によって本土と連絡が取れなくなった場合を想定し、最低限の自給自足が出来るようになっております。勿論、あまりお嬢様に負担をかけますような動植物は育てられませんので、家畜と言いましても十数羽の鶏ぐらいでございますが」
いるのか、鶏。
いや、鶏いたら朝とか騒がしいんじゃないのかな?
美鳥嬢、案外苦労しているのだろうか?
そんな私の心配などどこ吹く風、終始楽田さんは胸を張り言葉の足りない説明を繰り返し、鳥羽瀬さんはそれを補い続けてくれた。
……さて、美鳥嬢の使用人すべてと顔を合わせた私は、一応、形川リナとの面会を頼み込んではみた。
が、答えは言うまでもなくNG。
妥協案として、彼女が隔離されているという部屋の前までは近づくことを許されたが、その部屋の扉は固く閉ざされ、いささかたりとも内部の様子を伺うことはできなかった。
剃刀の刃一枚、髪の毛一本の隙間さえないその扉は、あまりに重々しく。
表面に浮いた鉄錆も相まって、まるで。
まるで――〝独房〟のようにすら、私の目には映った。
◎◎
思い返せば慌ただしい一日だったが、よく考えれば普段の職務と大差がない。私は、だいたいこういう役回りなのだ。
今日の朝早くには不可能犯罪者形川リナの所在が割れ、その一時間後には紅奈岐の関係者に会い、更にその一時間後には船上の人だった。
昼過ぎ、この島へ辿り着き、美鳥嬢と対談し、その後、天候が一気に崩れ夜にかけて館の構造と使用人たちの役目を聞きだす。
件の女優にはまだ会えていないが、なに、それもあと数時間の辛抱だ。
日を跨げば――0時を過ぎれば、私は彼女と顔を合わせることができる。あの事件、マーダ―サーカス事件の――私と同じ生き残りに会える。
とうとう、会える。
強い強い私の思い。
執念にも似たその思いを胸に、私はベッドに横になった。
スーツのまま、少しだけ休むつもりで、横になって。
本当にそのつもりだったのに――
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!!?」
深夜の巣籠館に響き渡ったのは、品性などと言うものが欠如した恐怖の絶叫だった。
悲鳴。
いつの間にか眠っていた私は、
これまでの経験則に、私の職業に突き動かされ、ロクに考えもしないまま走る。
走る。
走る。
毛足の長い絨毯を切り刻むように踏みつけ、意匠の凝らされて大層な階段を蹴破る勢いで駆け上がり――走る。
呼気が荒いのは、寝起きだからでも全力疾走しているからでもなかった。
それは嗅ぎつけたからだ。
私がよく知るその臭い。
――どうしようもない、いまの世界に満ちるその臭気を。
辿り着いたのは、他の部屋よりもいっそう豪奢な扉の部屋。
開け放たれた扉の前で腰を抜かしているのは、肩までの髪の、化粧の厚い女――その背格好には見覚えがあった。事件の調書で見ている。
「形川リナ!」
彼女は肩を跳ねあがらせ、びくついた様子でこちらを向いた。
つくりものめいた色合いの黒い瞳が怯えを孕んで私を見る。
彼女の手が上がり、震えながら室内を指差す。
「っ!」
私は、室内へと飛び込んだ。
「――――」
――気品に満ちた部屋を染め上げる、黒ずんだ赤の飛沫、模様、異様。
――流血の海。
――散乱するのは、あまりに鮮烈な茜色の髪の毛。
――そして。
――そして。
百を超える――それは卵。
無数の、異常な数の、狂気じみた、卵の群れ。
鶏卵。
足元で、そのひとつが割れている。
中から零れ落ちているのは、ぐちゃぐちゃの、まるで血抜きをしなかった家畜の屍肉のような色合いの――
這い上がる怖気を
「――――」
手の中に落ちてきた〝それ〟と――目が合った。
「――嗚呼」
赤みのかかった瞳孔。
色褪せた紅。
その眼球に、私は確かな見覚えがあった。
――紅奈岐美鳥と思われる、判別しようのない無数の肉片が、その卵の中すべてに詰まっているのだと、私は直感した。
◎◎
これが、のちにハンプティ・ダンプティ事件と呼ばれる惨劇の、その始まりだった。
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