5.屋上

 授業終了のチャイムが鳴った。放課後になると、ケンジは必ずその場所に足を運ぶ。そういう約束だ。

 生徒たちで賑わう廊下を進んで、その奥。曲がり角の先にある扉。ほとんど誰も来ない静かな場所だ。鍵のかかっていない扉を開くと、まぶしい外の光が射し込んできた。


 扉の向こうには、コンクリートの非常階段が上下に伸びている。この仮想世界で、こんな設備にどんな意味があるのかはさっぱり判らない。モデルになった学校を忠実に再現した、というだけのことなのだろう。

 ケンジは階段を昇った。ほどなく屋上に到着する。校舎内の階段では、屋上に出る扉に鍵がかかっている。この非常階段のルートを発見したのは、恐らくケンジが初めてだ。


 屋上には先客がいた。フェンスに手をかけて、はるか遠くを眺めている女子生徒が一人。亜麻色のふわふわの髪が、短く切り揃えられている。風に揺れていると、まるでタンポポの綿毛のようだ。ケンジに気が付くと、女子生徒はにっこりと微笑んだ。


「ケンジ先輩」

「フェイ」


 フェイはケンジの一年後輩。この屋上に来る道を知っている、ただ一人の仲間だ。


「今日は早かったんだね」

「はい。昨日の作戦で戦死者が多くて、授業にならなくて」


 そうか、と言ってケンジは黙り込んだ。戦闘の結果によっては、クラスの人数が半減することもある。その場合、翌日にはクラスは解体され、別なクラスに統合されることになる。主を失った無人の机の群れは、想像以上に残された者の心をむしばむ。そのつらさは、ケンジも良く知っていた。


「フェイ、僕は死なないよ。必ず帰ってくる」


 ケンジはフェイに近付くと、そのてのひらをそっと握った。柔らかくて温かい。しかし、これはまがい物だ。ケンジが今触れているのは、仮想世界の中に作られたフェイの姿をしたもの。触れていると思っていること自体が偽りだ。


 そんなことは判っている。


「こうやって、フェイに会いに来る」

「ケンジ先輩」


 フェイがケンジの掌を握り返した。こんなにはっきりと感じるのに、本当のフェイはここにはいない。ケンジもフェイも、培養液で満たされたタンクの中に横になっている。適度な電気刺激で筋肉を刺激され、病原体を取り除かれ、栄養素を流し込まれながら、眠りについている。


 それでも、フェイはここにいる。学校に。この、屋上に。




 ケンジがフェイと初めて出会ったのは、屋上で昼寝をしているときだった。


 毎日が戦闘で、ケンジはすっかり疲れ切っていた。そもそもケンジの能力は直接戦闘向きではないし、ケンジ自身も戦うということにあまり積極的になれないでいた。

 幸いにもケンジの能力は、生き延びるというその一点においては非常に優れていた。大気の衣ガーブオブエアで虚像を映し出せば、エネミーに発見されることはほとんどない。

 奇襲作戦時に仲間と共に隠れることはあっても、ケンジ自身は戦闘行為には直接参加せず、エネミーに近付こうともしなかった。とにかく生きること。死なないことが重要だ。


 クラスメイトたちと親しくなる必要も無い。作戦会議も意味が無い。ケンジはただ一人、戦場で身を隠して、嵐が過ぎ去るのを待っていれば良い。

 だから、空き時間は大体こうやって屋上で過ごしていた。非常階段以外のルートでは立ち入り出来ない屋上には、邪魔者はやって来ない。静かで落ち着ける。すっかりケンジの憩いの場所だった。

 その日も、ケンジは屋上の隅っこで横になって、何も考えずに眠りこけていた。


 そんなとき、フェイが屋上を訪れてきた。好奇心から学校の中を探検していて、非常階段を見つけたらしい。

 誰もいないと思ったのだろう。フェンスの向こうに広がる街並みを見つけて、フェイは目を輝かせて。


 歌をうたいだした。


 何処か懐かしい感じのする調べに、ケンジは目を覚ました。明るい歌声。誰かがすぐ近くでうたっている。むっくりと身体を起こすと、ふわふわとした小柄な後輩の女の子が目に入った。


 突然起き上がったケンジの姿を見て、フェイはひどく驚いたようだった。


「ご、ごめんなさい、誰かがいるとは思わなくて」


 慌てて逃げだそうとするフェイを、ケンジは呼びとめた。


「待って、ええっと、別にここは僕の場所ってわけじゃなくて」


 立ち止まって振り返ったフェイに、ケンジはどう話を続けて良いのか判らなかった。バツが悪くなって、頭を掻く。その間、フェイはケンジに、おびえきった目線を向けていた。

 とりあえず落ち着いて、改めてフェイの顔を見て。


(ああ、この子は、僕と似てるな)


 ケンジはそう感じた。おどおどして、怖がって。

 それでいて、自由が欲しいと思っている。


「その・・・また、歌を聞かせてほしいな」


 その言葉で正しかったのかどうか、ケンジには今一つ自信が無かったが。

 フェイは、はにかんで笑ってくれた。



 フェイは臆病な女の子だった。ギフト能力は「虚像投影ディスプレイサー」。限りなく実体に近い虚像を、十メートルほど先にまで作り出すことが出来る。ケンジの大気の衣ガーブオブエアに近いが、立体を作り出す、というところが微妙に異なった。


 能力の類似。それに性格が似ていることもあって、二人は屋上で良く話をするようになった。放課後になる度に顔を合わせて、お互いの存在を確認し、ほっと胸を撫で下ろした。


 ケンジとフェイが恋に落ちるまで、それほど時間はかからなかった。陽だまりのように暖かいフェイ。懐かしくて甘い歌声。ケンジにとって、フェイと一緒にいることは生きていることと同義になった。


 一度だけ、ケンジは現実世界でフェイの姿を見たことがあった。下級生のトランスポーターに乗り込む、小さなフェイの身体。フェイもまた、同じように戦いの中に身を置いているのだと思い知って、ケンジは酷くつらくなった。


 生きたい。生きていたい。フェイと共に、この戦いを生き抜きたい。

 卒業したら、現実のフェイのところに行こう。その手を握ろう。フェイの、本当のてのひらを。


 戦いから闇雲に逃げているだけだったケンジは、少しずつ変わってきた。フェイに会いたい。フェイとまた学校で会うために、生き延びたい。そう、強く願うようになった。

 戦いが怖いことに変わりはなかった。しかし、ケンジは生きるための努力をするようになった。


 同じ班のヨシキが、ケンジに手を貸してくれた。一人で隠れていても、運が悪ければそれまでだ。お互いに背中を守れば良い。戦いになったら、ミキヤの力に頼れば良い。

 ヨシキの言葉に従って、ケンジは効率よく戦場で生き残ることが出来るようになっていった。一人ぼっちで逃げ惑っていたころとは違う。アシスト報酬が出ることですらあった。

 このままうまくいけば、卒業まで生き残れるかもしれない。生きて、フェイを待つことが出来るかもしれない。ケンジの中に、そんな希望が湧いてきた。



 だが、そう思っていた矢先、ヨシキは死んでしまった。


 第十五次反攻作戦。たった一人でエネミーの大群を食い止めるために突出して。

 ヨシキは班員全員の盾となって、死んだ。



 失意のまま、ケンジは帰還した。臆病な自分を理解してくれて、生きる方法を教えてくれたヨシキ。これから先、ケンジはどうやって生き延びていけば良いのか。


 残りは高々一年。それで、ケンジは高校を卒業する。ギフト能力と共に、戦闘からは離れることが出来る。たったそれだけの期間で良い。


 ひとまず、昨日を生き延びることは出来た。今は、フェイの顔を見よう。そして、今日を生き抜くことを考えよう。ケンジは自分にそう言い聞かせた。


 朝、登校してまずは学校の掲示板を見る。モニターの中を、何人もの生徒の名前がよぎって行く。昨日の酷い作戦での死亡者だ。

 そこにヨシキの名前を見つけて、ケンジは暗い気分になった。現実は変わらない。もう、ヨシキはいない。学校に来ることもないのだ。


 掲示板の前を離れようとして。


 ケンジは、視界の隅に、あってはならないものを見つけてしまった。




 岩陰に身を隠すと、フェイはそのまま座り込んだ。息が上がっている。身体も思うように動かせない。まだまだランディングゾーンまでは距離がある。


 フェイの所属する二年一組二班は、エネミーの陣地奥深くまで入り込んでいた。エネミーの防衛拠点を切り崩し、今回の進軍の橋頭保とすること。それが、フェイたちの班に与えられていたミッションだった。


 結果は失敗だった。理由は色々とあるが、戦力の差が大きい、というところが主たるものだった。エネミーは当初の予想をはるかに上回る数を誇っていた。

 フェイの班は、無数のエネミーによってあっという間に分断されてしまった。そして、前衛を務めていた直接攻撃能力を持つ生徒たちが、次から次へと包囲、殲滅されていった。


 サポート能力者だけでは、エネミーには対抗出来ない。せいぜい攪乱かくらんして、援護をする程度だ。フェイたちの置かれた状況は、もうそんなことではどうしようもなかった。残された生徒たちは、押し寄せるエネミーの軍勢から逃げるだけで精いっぱいだった。


 インカムからは、絶望的な通信が次々と流れてくる。フェイの班だけではない。そこかしこで、人類軍の敗走が始まっている。作戦全体が失敗の様相だった。


 ケンジはどうしているだろうかと、フェイは思いをせた。こんなひどい戦況では、今までうまく逃げのびてきたケンジも、いよいよ危ないかもしれない。生きていてほしい。また、学校の屋上で会いたい。手を握って欲しい。


 いや、出来ることなら。


 激しい咆哮が聞こえた。フェイは言うことを聞かない両足に気合を入れて、無理矢理立ち上がった。ここにいてはいけない。まずは、自分自身が助かることを考えなくては。


 フェイは走り出した。後方から、巨鬼トロルが迫ってくるのが見えた。よりによって厄介な相手だ。フェイは意識を集中させた。

 巨鬼トロルの前に、突如としてもう一人のフェイが現れた。挑発するようにその前を横切って、別な方向へと走り去る。混乱した巨鬼トロルが足を止めた。


 虚像投影ディスプレイサーで作り出した虚像だ。この隙に、物陰伝いに距離を取れる。フェイは巨鬼トロルに見つからないように、慎重に移動を始めた。


「うわあぁ、畜生!」


 突然叫び声が上がって、フェイはぎょっとした。慌てて巨鬼トロルの方を確認すると、どうやらフェイが虚像を走らせた先に、別な人間が隠れていたらしい。

 見たところ、負傷している。このままではまずい。失敗した、とフェイは物陰から自ら姿をさらした。


「逃げて!」


 そう叫んで、再び虚像投影ディスプレイサーを使う。巨鬼トロルの前に虚像のフェイが現れる。負傷している生徒をかばうようにして、じりじりと巨鬼トロルの注意を引き付ける。


 巨鬼トロルはすっかり虚像に気を取られている。うまくいった。隠れていた生徒も、その場から逃げることが出来たみたいだった。

 怒り狂った声を上げて、巨鬼トロルが手にした棍棒を虚像に叩きつける。だが、そこには実際には何もない。むなしく地面がえぐられるだけだ。


 ほっと一息ついて、フェイ自身も急いで走り出そうとして。


 振り返った目の前に、もう一匹の巨鬼トロルがいるのを見て。



 絶望のあまり、フェイは体中から力が抜け落ちるのを感じた。




 屋上には、他に誰もいない。ケンジは寝っころがって、青い空を見上げていた。


 白い雲が流れていく。現実のものではない。この仮想空間の空は、せいぜい千メートル上空までしか構築されていない。あれはスクリーンに投影された画像のようなものだ。

 眩しい太陽が照らしつけてくる。これもまた、現実のものではない。光も、暖かさも。何もかもが、まやかし。偽物だ。


 掌を握る。

 ここで握った、フェイの手。

 それもまた、まやかしだ。現実のものでははい。仮想空間の中で作られた、偽りのもの。ケンジの脳を騙して知覚させた、存在しないフェイの感触。


 ケンジの頬を、涙が伝った。

 これも嘘。虚実。本物のケンジはタンクの中で横たわっている。泣いても、笑ってもいない。静かに目を閉じて、死んだように眠っている。


 本物のフェイは、どうなってしまったのだろう。

 それを考えるのが、ケンジは怖かった。

 死亡。ただそれだけを告げられて、学校に来なくなる。二度と姿を見なくなる。


 ケンジはかつて自分がいた班で、前衛を務めていた生徒が叩き潰されるさまを見ていたことがある。さっきまで生きて、歩いて、軽口を叩いていたヤツが。

 次の瞬間には、ただの肉塊になっている。何も言わない。動かない。考えることもしていない。


 一度でいい、触れてみたいと思っていたフェイの身体は。

 そのとき見た生徒と同じように、ただのぐちゃぐちゃの塊になってしまったのだろうか。


 強く拳を握る。

 生きていてほしかった。フェイが生きていてくれれば、それだけで生きたいと思えた。いつかきっと、と思うことが出来た。


 どんなに苦しくても、つらくても。転んでも、這いつくばっても。

 逃げ惑って、臆病だとののしられても良い。何もしていないとそしられたって構わない。

 ここにフェイがいてくれれば、この場所でフェイに会えるなら。それだけで。


 ケンジは、生きて帰ってこようと思うことが出来た。


 風が吹く。これも、まやかし。何もかもが現実では無い。フェイもまた、消えてしまった。ケンジにとっては全てが同じことだ。

 本物なんて、何も無い。


 もう、今日を生きて、明日を迎える意味すら判らない。



「ケンジ先輩」


 突然呼びかけられて、ケンジは慌てて起き上がった。


 フェイ?

 この場所を知っているのは、ケンジとフェイだけのはず。ここでケンジの名前を呼ぶ声があるとすれば、それはフェイだ。


 二つに縛った赤い髪が揺れている。白い制服では無く、明らかに校則違反のピンクのワンピース。いつも見慣れた顔、というよりも、聞き慣れた声。


 期待は、あっという間に裏切られた。ケンジは声だけですぐに気が付かなかった自分の愚かさを恥じた。

 そこに立っていたのは、三年一組三班専属放送委員、オペレーターのエリーだった。


「そんなあからさまにガッカリしないでくださいよ。傷付きますよ?」

「どうしてここを知ってるんだ?」


 エリーの言葉など全く耳に入ってこない。あまりにも反動の絶望が大きすぎて、ケンジは再びその場に横になった。


「判らないんですか?ウチ、二年一組なんですけど。フェイはクラスメイトだったんです」


 エリーとフェイが同じクラスだということに、ケンジは今初めて気が付いた。そして、エリーとフェイが親しかったということも、初めて知った。

 ではこの屋上での出来事も、エリーはフェイに聞いていたのだろうか。ケンジはエリーのことを、オペレーターとしてしか意識していなかった。なんだか複雑な気分だった。


「ケンジ先輩、これ、フェイから。遺言です」


 エリーが、小さな紙片を差し出した。


 生徒たちは、いつ戦死するか判らない。自分が死んだときのため、誰かに宛てた手紙、遺言を残しておくことは珍しくはなかった。

 フェイは、ケンジ宛ての遺言を残していた。


 震える手で、ケンジはフェイからの手紙を受け取った。

 小さな紙片には、やはり小さな字で、ほんの一言書きつけてあるだけだった。



『生きてください』



 ケンジの目から、涙がこぼれ落ちた。

 虚実の涙。だが、この悲しみは本物だ。ケンジの中で荒れ狂う感情の奔流は。


 生きている人間のものだ。


 ケンジの中に、改めてフェイの死がのしかかってきた。


 今までは、何処かでフェイのことを、その死を、現実とは違う何かだと疑っていた。

 この学校を、この空を、この世界を。

 偽りのものとして、自分とは繋がっていないものとして認識していた。


 だが、フェイは実際に存在した。

 ここで、この屋上で。

 ケンジと出会った。

 歌を聞かせてくれた。

 手を繋いだ。


 そして、死んだ。


「ケンジ先輩」


 泣きじゃくるケンジを見下ろして、エリーは静かに語りかけた。


「フェイのために、生きてください。ウチが、ずっと見てますから」



 生きよう。フェイのために。


 もう誰も来ることが無い屋上で、ケンジは心の中でそう誓った。

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