エピローグ ~非日常から日常へ~

 そうしてわたしの非日常は終焉を迎えました。

 終わってみれば、二十四時間足らずのことです。何とも慌ただしい限りでありました。

 あれから二週間ほどが経過して、ようやく非日常の残滓も払拭できたようです。


 竹本先生は、白昼の失踪という扱いになりました。

 その竹本先生に連れられて学校を出たわたしは、理由もわからぬまま途中で車を降ろされて、とぼとぼと歩いている間に貧血で倒れて自分を見失った、という設定です。


 何とも無理のあるお話でありましたが、そんなに官憲の追及が厳しくなかったのは、ドルヒさんのお仲間が何らかの手を打ってくれたためなのでしょうか。事件の勃発した日の夜に尋問された後は、とりたてて呼びつけられることもありませんでした。


 まあ、たとえ呼びつけられたとしても、それに応じることはできなかったと思います。

 翌日から、わたしは発熱して寝込むことになってしまったのでした。


 次から次へと襲いかかってくる非日常的な騒動に、わたしの脆弱な神経や肉体が耐えられなかったのでしょう。ピーク時には四十一度もの数字を叩き出し、三日間は病院で過ごすことになりました。


 ともあれ、わたしの非日常は終わってしまったのです。

 わたしのもとに残ったのは、ドルヒさんに返しそびれた六芒星のペンダントのみでありました。


 ドルヒさんは、もういないのです。

 わたしの監視と護衛は後続部隊に引き継ぎ、すぐにでもこの町を出る予定だと仰っていました。この国には、まだまだ邪神教団の関係者があちこちに巣食っているのだそうです。


 発熱してしまったためにきちんと別れの挨拶を交わせなかったのがとても心残りでありましたが、こればっかりはどうしようもありません。邪神教団をこの世から根絶せしめるまで、ドルヒさんには一時の安息も許されないのです。


 終わってみれば、白日夢のごとき一日でありました。

 手もとにペンダントが残っていなかったら、それこそ現実であったかも信ずることはできなかったかもしれません。三日間ほど前後不覚になっていたのが、余計に記憶をおぼろげにしてしまったのでしょう。


 だけどあれは、まぎれもなく現実でありました。

 それが証拠に、わたしの胸にはぽっかりと穴が空いてしまっています。

 表面上はこれまで通りに過ごしながら、わたしは心の一部分を消失してしまっていたのです。


 それは、ドルヒさんから与えられた消失感でした。

 勝手にぐいぐいと心の中に入ってきて、たった一日で姿を消してしまうなんて、本当にひどい話です。これは墓まで持っていく生涯の秘密となりますが、熱の下がり始めた三日目の夜には一人でずっと枕を濡らすことになってしまいました。


 だけど泣いたってどうにかなる話ではありません。

 ドルヒさんは遊びでわたしの前に現れたわけではないのです。次はまた、わたしと同じ境遇にあるどこかの誰かを救いに行っているのでしょう。

 そんな風に考えるとまた泣けてきてしまうのですが、とにかくわたしは一週間ほどの休養期間で自分を立て直し、翌週からまた学校に通うようになっていました。


「あ、さっちー! 一緒に帰ろうよ!」


 そんなわけで、事件から二週間が過ぎた日の放課後。

 わたしが教室を出ようとしたところで、水嶋さんが追いかけてきました。


「別にいいけど、他のみんなは大丈夫なの?」


「んー? 今日はさっちーと喋り足りないからさ! こんな状態で家に帰ったらモンモンとしちゃうよー」


 相変わらず、リアクションの難しい発言の多い水嶋さんです。

 しかしどうした運命の悪戯か、わたしはこの水嶋さんと友達づきあいをするようになってしまっておりました。


 わたしが学校を休んでいた一週間、水嶋さんは欠かさずお見舞いに来てくれていたのです。

 リアルタイムではそっとしておいてくれとしか思えなかったわたしでありますが、その後の学校でまでこのようにかまいつけられると、その、情にほだされるというか何というか、これまでみたいに素っ気なくあしらう気持ちにはなれなくなってしまったのです。


 邪神教団でも何でもなかった水嶋さんは、外見通りの無邪気で善良な娘さんでありました。こちらさえ劣等感を抑制することができれば、こんなに魅力的な友人はいなかったと思います。考えなしの発言が多いのも、好意的にとらえるならば裏表がないという美点です。


「……水嶋さんって、何が楽しくてわたしなんかと一緒にいるの?」


 昇降口で外履きに履きかえながらわたしが問うと、水嶋さんはまた「んー?」と可愛らしく小首を傾げました。


「そんなのいちいち頭で考えないなあ。あえて言うなら、小動物を愛でるような感覚に近いかも」


「ふうん。人間扱いしてくれてないってことか」


「あはは。そうやってすぐすねるところもポイント高いんだよねー」


 そりゃあ、すねます。わたしの器の小ささは特別あつらえなのですから。

 でも、嫌われたっていいやという気持ちで接していると、案外波風は立たないものです。波風が立ったら立ったでまた一人で生きていくだけのことですから、気楽なものでありましょう。


「でもさー、今日はさっちーを愛でるだけが目的じゃないんだよね。実はちょっと気になることがあってさ」


「気になること?」


「うん。今日の体育はグラウンドで高飛びだったじゃん? さっちーは見学だったから気づかなかったかもしれないけど、うちはそのとき、不審者を発見しちゃったんだよねー」


 不審者。

 その一言で、わたしの心は過敏にざわついてしまいました。


「それで思い出したんだけど、ほら、竹本っちが失踪した日に、不審者がどうのこうのって話が出てたじゃん? あれってひょっとして、さっちーをつけ狙うストーカーだったんじゃない?」


「……どうしてそんな風に思うの?」


「うん、実はね、今日見かけた不審者とおんなじような格好をしたやつを、さっちーの家の近所でも見かけてるんだよ。黒いパーカーでフードをかぶってて、そんで髪なんかはじーさんみたいに真っ白なの。あやしげでしょー?」


 わたしの心臓が、どくんどくんと胸郭を叩いています。

 校門を抜けて、並木道を歩きながら、わたしはなるべく平静をよそおった声で尋ねました。


「その不審者を、わたしの家の近所でも見かけたの? いつ?」


「そりゃあアレだよ、さっちーをお見舞いした日のどれか。あの時期ぐらいしか、うちはさっちーの家に行ってないっしょ?」


「……その不審者を、今日も見かけたって言うの?」


「うん」


 わたしの忍耐は、そこまでが限界でありました。

 わたしは足を止め、水嶋さんに向きなおります。


「ごめん、すごく大事な用事を思い出しちゃった。先に帰ってもいい?」


「え? そりゃあ別にかまわないけど……さっちー、大丈夫?」


「うん、ごめんね。また明日!」


 わたしは精一杯の気持ちを込めて頭を下げ、下校中の生徒であふれかえる並木道を走り出しました。


 そんなことが、ありうるものでしょうか?

 百歩譲って、わたしが学校を休んでいる間ぐらいは旅立ち前の準備期間であったとも考えられます。だけど、二週間が経過してなお、ドルヒさんがこの地に留まっているなんて───そんな馬鹿げた話が成立するのでしょうか。


 数分ばかりも通学路を駆けて、それからわたしは裏通りに飛び込みました。

 あの日以来、決して立ち寄ることのなかった、廃工場の前を目指します。

 その日もその通りには人影がありませんでした。


 わたしはブロックの塀に手をついて、呼吸を整えながら、制服の胸もとに手を差し入れました。

 チェーンを補修した六芒星のペンダントを引っ張り出して、それをぎゅっと握りしめます。


 あの日以来、わたしはこのペンダントに呼びかけていません。

 どうせ返事など返ってこない。半径五キロ以内にドルヒさんが留まっている道理がない。呼びかけたって、ドルヒさんはもうどこにもいないのだという現実を思い知らされるだけだ───そのように思って、わたしは自分を律していたのです。

 わたしはその自制を、二週間ぶりに破りました。


「ドルヒさん、聞こえますか?」


 雑木林では、ひぐらしが鳴いています。

 その声がやんで、通りに静寂が満ちたとき───奇跡のように、その声が響きました。


『どうしたんだ? いきなり走りだすな』


 わたしはその場にくずおれてしまいそうになりました。

 が、必死に自分を立て直し、ペンダントに語りかけます。


「ドルヒさん! どうしてドルヒさんがまだこの町に居残ってるんですか!?」


『何を言っているんだ。また熱でも出したのか?』


「だって! ドルヒさんは他の町に移動するって言ってたじゃないですか!」


『……本当にお前は何を言っているんだ?』


 ドルヒさんの念話の声が、いぶかしげな響きを帯びます。


『後続部隊が到着したが、オオサカにはそいつらが派遣されることになった。それで俺はこの町に居残ることになったのだと説明しただろう』


「聞いてません! 聞いてませんよ、そんなこと! だいたい、この町に居残って何をするっていうんですか? 竹本先生の他に教団の関係者はいないんでしょう!?」


『大きな声で教団の名を口にするな。……確かにハトコ・ミズシマもシオミ・ヨシワラも教団の信徒ではないようだった。この町に巣食っていたのは、ギイチ・タケモトだけだったんだろう』


 腹が立つぐらい冷静な声で、ドルヒさんはそのように言葉を重ねます。


『だけどお前は今のところこの国で唯一確認された、巫女の資格を持つ人間だ。優先されるべきはお前の身柄であると本部の連中は判断し、俺に身辺を警護するよう命じてきたんだよ』


「でも───!」


『確かに他の区域の信徒どもなど、放っておいてもお前のそばに集まってくる可能性が高い。それに向けて、《N・O・D》も手空きの人員を全員この国に集結させることになる。お前が囮役としての使命を果たすのは、これからが本番なんだ』


 しばし絶句してから、わたしは言いたてました。


「わかりました。でも絶対、わたしはそんな話を聞いていないですよ! ドルヒさんがこの町に居残るなんて、そんな話は───」


『確かに話した。ギイチ・タケモトを始末した翌々日、お前が入院していた病院でのことだ』


 わたしはついに力尽き、地面にへたり込むことになりました。


「あの……わたしはその日、四十一度の熱を出していて、いっさい記憶が残っていないのですが……」


『馬鹿を言うな。きちんと俺の言葉に返事をしていたじゃないか』


「そうだとしても、記憶にないんです。気づいたら日付が変わっていたんですから」


 わたしは塀にもたれかかり、純銀のペンダントを一心に見つめました。


「それじゃあドルヒさんはこの二週間、ずっとわたしのそばにいてくれたんですね……それなのに、どうして一度も呼びかけてくれなかったんですか?」


『別に、用事もなかったからな』


 そのように言い捨ててから、ドルヒさんの念話が解読不能なゆらぎを帯びました。


『それに……お前だって、俺のような化け物とはなるべく関わりたくないだろう』


 何を言っているのでしょう、この人は。

 ドルヒさんも、わたしに劣らず人の気持ちがわからない人間であるようです。


「会いたいです。この二週間、ずっとそんな風に思っていました。念話じゃなく肉声で御礼の言葉を言わせてください」


「お前に礼を言われる筋合いなどない」


 その声は、はっきりと鼓膜に響きました。

 振り返ると、木漏れ日の差し込む道の真ん中に、黒いフードをかぶった不審者が立っています。

 わたしは立ち上がり、わからず屋のドルヒさんにわたしの気持ちを叩きつけるために、頭から突進することにしました。


 こうしてわたしの平穏な日常は二週間で終わりを遂げ、また非日常的な日々を歩んでいくことになったのです。

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殲血のドルヒ EDA @eda

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