第三話 昼下がりの死闘
「それじゃあ、気をつけてね? みんなにはきちんと事情を説明しておくから」
水嶋さんと吉原先生に見送られつつ、竹本先生の運転する車が駐車場から発進されました。
ずいぶんな年代物と見受けられる銀色のワゴン車です。ジャージ姿のままその助手席に座らされたわたしは、いよいよ切羽詰った気持ちになってきてしまいました。
邪神教団の一員であらせられるかもしれないお二人と距離を取ることができたのは僥倖です。こちらの竹本先生とは図書委員会を通じて前年度からおつきあいがあったので、教団の関係者である可能性は著しく低いと思われます。
が、それならそれで、この温厚な先生をおかしな騒ぎに巻き込んでしまうのではないか、という気持ちがわきたってきてしまうではないですか。
なおかつ、ドルヒさんはこの事態を把握しているのか。把握していたとして、対応することは可能なのか。それが一番の気がかりです。
「病院までは、十分ぐらいで着くからな。それまで頑張るんだぞお?」
わたしの不安になど気づくこともなく、竹本先生はそのように仰っています。
本当に温厚で、気のいい先生なのです。ころころと丸みのある体格をされており、四十前でもうお髪のほうは心細い感じになりかけていますが、生徒に安心感を与えることのできる人格者であるとわたしなどは思っています。
ときたまこういう人に出会えるから、この世界もまんざらではないと思えてしまうのです。
そうでなかったら、わたしは今でもこの世界の破滅ばかりを願うような人間になってしまっていたことでしょう。
「持久走で転んだんだって? 田中は真面目だからなあ。体調の悪いときは、あんまり無理をするもんじゃないよ」
「はい……」
「ま、人には向き不向きがあるからな。先生もマラソンなんかは大の苦手だったし!」
竹本先生はにこにこと笑いながらハンドルを切っています。
道はそれなりに空いていたので、これなら早々に病院へと辿りつけそうです。
わたしは意を決して、その前に自分の仕事を果たしておくことにしました。
「あの、竹本先生、さっきのペンダントなのですが……」
「ああ、心配しなくても、放課後になったら返してあげるよ。最近は学年主任の先生がうるさくてなあ、こんなことでも見過ごすことができないんだ」
「でもあの、それはとても大切なものなので、ここで返していただけませんか? 家に帰るまではポケットにしまっておきますので……」
「うん? ずいぶん心配性だなあ。大丈夫だよ。預かりものをなくしたりはしないから」
わたしは呼吸を整えてから、虚言を述べることにしました。
「実はそれは、亡くなった母の形見なのです。今後は絶対に学校では身につけないと約束しますので、何とか返していただけませんか……?」
正面を向いたまま、竹本先生は慈愛に満ちみちた微笑を浮かべます。
「田中はずいぶん昔にご両親をなくされているんだってな。今年担任になるまでは知らなかったから、驚かされたよ」
「……はい」
「今は伯父さん夫婦のお世話になってるんだっけ? まだ若いのに、ずいぶん苦労してきたんだなあ」
べつだん苦労などはしていません。むしろ、わたしなどの面倒を見なくてはならなくなった伯父夫婦の苦労こそが、並大抵ではなかったでしょう。
伯父夫婦は、二人の時間を大切にするために、お子を生さなかったのだと聞き及んでいます。それなのに、わたしのように出来の悪い子供を突然あずかることになり、大幅に人生設計を狂わされてしまったのです。
伯父夫婦のそんな温情によって、わたしは路頭に迷うこともなく、温かい食事と寝床を得ることができています。これで文句などをつけたら、それこそ断罪の雷に撃たれてしまうことでしょう。
「……ふむ。ずいぶん凝った細工だな」
ふっと目を向けると、竹本先生はポケットから取り出したペンダントを顔の前にかざしていました。
車はそれなりのスピードであるというのに、ずいぶん運転が巧みのようです。
「あ、あの……」
「うん。田中がそこまで反省しているなら、先生だってむやみに校則を振りかざしたりはしないよ」
わたしは、ほっと息をつきました。
が、次の瞬間、信じ難い事態が勃発しました。
右側の窓をするすると開けた竹本先生が、ペンダントを外に放り捨ててしまったのです。
「だけどな、田中、嘘はいけないぞ?」
「な……」
「あれは、念話を伝えるための魔術道具だろう。それぐらいなら、先生だって知っているんだ」
驚愕のあまり、わたしは動くこともできなくなってしまいました。
またするすると窓を閉めながら、竹本先生はにこやかに笑っています。
「《N・O・D》の連中は追ってきているのかな。まだそれほどの人数はやってきていないだろうが、十体もの使徒をあっさり退けることのできる手練なんだから油断はできないよ」
「た、竹本先生……どうして先生が……」
「僕はね、一週間ほど前に学徒の教えを修了して、司祭の位階を賜ることになったんだよ」
はにかむように微笑みながら、竹本先生はそのように述べています。
「司祭となれば、巫女を見分けることができるようになる。まだこの国には司祭の位階に至った信徒は数えるほどしか存在しないのに、そんな僕のクラスにまさか神の憑代が存在しようとはね。これこそ****神のお導きだよ」
何か人間の咽喉では発声できないような言葉が竹本先生の口から発せられました。
わたしはガタガタと震えそうになる身体を両腕で抱きすくめます。
「わ……わたしをどうするおつもりなのですか……?」
「このまま空港にお連れする予定だよ。どうやら東京の教区はのきなみ潰されてしまったようだから、恐れ多くも僕が手ずから総主教のもとにお連れするしかないんだ」
そのようにのたまう竹本先生は、とても誇らしやかなお顔をされておりました。まさしく敬虔な信徒としか言いようのない表情です。
「君は《N・O・D》の連中から一方的な話しか聞かされていないから、我々に対して悪しきイメージしか持てないだろうけどね。我々は、間違った方向に突き進んだ世界をあるべき形に正そうと尽力しているだけなのだよ」
「…………」
「確かに今の世の秩序を重んじる者たちにとって、我々の存在は許されざるものに見えてしまうだろう。だけど、現在の秩序そのものが間違っていたら、いったん壊すしか道はないじゃないか? 流血が少ないに越したことはないが、流血を恐れて真実から目をそらすのは忌むべき怠惰であるはずだ」
「そんな難しいこと、わたしなんかにはわかりません」
心の底から錯乱し、恐怖しながら、わたしは半分以上無意識の状態でそのように語っていました。
「わたしにわかるのは、これが誘拐であり拉致であるという、ただそれだけです」
「うん、司祭になりたての僕なんかでは、まだまだ信徒を正しく導くことなんて難しいのだろうと思うよ」
竹本先生はさびしそうに笑っています。
そのとき背後から、獣のうなり声にも似た爆音が急接近してきました。
「ありゃ」と竹本先生が苦笑まじりの声をあげます。
こわばった首を動かしてサイドミラーに目を向けると、真っ黒の大きなバイクがものすごいスピードで迫ってきていました。
周囲の光景になど目をやるゆとりもなかったのですが、ここは山あいにある峠道でした。右手側は崖になっており、対向車線に車の影はありません。
「ううん、もっと賑やかな道を選ぶべきだったかなあ。こいつはまずいかもしれないぞ」
車が、ぐんと速度を増します。
それでもバイクの加速には勝てず、ものの数秒で隣に並ばれていました。
「田中、くれぐれも死なないでおくれよ?」
「はい?」
次の瞬間、ボスッという爆発音めいた音色が響きました。
どうやらバイクのライダーが、走行中の車のタイヤに短剣を振り下ろしたようです。
わたしには銀灰色のきらめきしか視認することはできませんでしたが、たぶん間違いないと思います。
結果、車はガードレールにぶち当たり、わたしはエアバッグで顔面を殴打されることになりました。
きっとわたしは数秒間、意識を失っていたのでしょう。気づくと、力ずくで助手席から引きずり下ろされていました。
「うん、生きてるな? よかったよかった。田中の身はこの一命にかけても先生が守ってやるからな」
その次に襲ってきたのは、ジェットコースターのような滑空の感覚でありました。
わたしを抱えあげた状態で、竹本先生が断崖へと身を投じたのです。
断崖の傾斜は、七十度を超えていたと思います。
まったく生きた心地がしませんでした。
永遠とも思える数秒の後、わたしたちは断崖の底に到着しました。
昼なお暗きという表現がぴったりの、鬱蒼とした雑木林です。
「よし、何とかここをくぐり抜ければ───」
ごりゅっと奇妙な音が響きます。
視線を上げると、竹本先生の顔が真後ろを向いていました。
わたしをお姫さま抱っこにした状態で、顔だけを真後ろに向けているのです。
首の皮膚に皺が寄り、ゴムのようにねじれていました。
後を追って断崖を滑落してきた人物が、竹本先生の頭部に飛び蹴りをくらわして、その首を半回転させてしまったのです。
竹本先生は腰から地面に落ち、わたしの身体は黒い人影にすくい取られました。
「怪我はないな、サチ・タナカ?」
ドルヒさんです。
フルフェイスのヘルメットをかぶっていますが、間違いはありません。スモークの貼られたシールドの向こう側に、銀灰色の瞳が燃えています。
「手荒な真似をして悪かった。足止めできるポイントがこの道しかなかったんだ」
言いながら、ドルヒさんは手近な木の根もとにわたしの身体を下ろしました。
そして、六芒星のペンダントをわたしの胸もとに放ってきます。
「それはお前に預けたものなのだから、決して手放すな」
「あ、あ、あのですね、ドルヒさん……!」
「文句なら後で聞く。今はあいつを始末するのが先だ」
ドルヒさんは、ヘルメットを足もとに放り捨てました。
銀灰色の髪が、薄闇にきらめきます。フードをかぶっていない姿は初めて目にしましたが、ドルヒさんはくせのある銀髪を肩のあたりまでのばしていました。
ドルヒさんは早々にフードを引き下ろして、その綺麗な髪をまた人目から隠してしまいます。
「あいつの始末って……し、死体をここに埋めていくんですか?」
「死んだら勝手に浄化される。あいつはもう人間じゃないんだ」
ドルヒさんは背中側のベルトに差し込んでいた短剣を抜き、その鞘をわたしの足もとに落としました。
その数メートル先では、首だけ真後ろを向いた竹本先生がさっきと同じ姿勢でへたり込んでいます。
「人間じゃないとはひどい言い草ですねえ。間違った進化を遂げたのはあなたがたのほうではないですか?」
その竹本先生が、後ろを向いたままそのように答えます。
わたしは悲鳴を噛み殺しつつ、背後の樹木にぴったりと背をつけました。
「まあ、少し前までは僕もその一員であったわけですが、今はこうしてあるべき姿を取り戻すことができました」
竹本先生は立ち上がり、両手で首の角度を正しました。
出来の悪いホラー映画のような光景です。
「あるべき姿が聞いて呆れる。貴様は人間であることを捨てた化け物だ」
「いいえ。正当なる神に仕える信徒です」
竹本先生の口が、文字通り耳まで裂けました。
目玉がぐいぐいと眼窩の外に押し出されて、まん丸の形をさらします。
そして、額の皮膚がめりめりと破れました。
そこから生えのびてきたのは、鋭い爪と水かきを持つ、半透明で四本指の腕です。
「ふん。貴様が《
「それはドイツ流の呼称ですか? 僕は****教団の司祭です」
そんな会話を繰り広げている間に、竹本先生の肉体は風船みたいに膨張し始めていました。
ジャケットやスラックスが弾け飛び、丸い胴体がさらけ出されます。
その身体はじょじょに色を失っていき、やがて深海魚のような半透明に成り果てました。
内臓や骨格が透けています。
手足の指にも爪と水かきが生えています。
顔は、ガマガエルの戯画みたいです。
生臭い異臭があたりにはたちこめました。
腹がぶくぶくと膨れていき、やがてその重さに耐えかねたように膝が曲がります。
下腹部がどすんと地面に落ち、後ろ足もカエルのような格好になりました。
あの、昨日の夕暮れ時にも見た怪物が、さらにひと回りも巨大な姿でそこに現出したのです。
異なるのは、頭に生えたのも含めて三本の腕を有していることぐらいでしょう。体高は、屈んだ状態で二メートルほどもあり、小山のごとき巨体です。
「醜いな」とドルヒさんが言い捨てます。
「使い魔どもよりも、なおおぞましい。貴様は正真正銘の化け物だ」
『ふん……正当なる神が眠っている間に地上を簒奪した猿の末裔が、ずいぶん大きな口を叩くものですね』
怪物と化して、咽喉の形状も変化したためでしょう。竹本先生の声は、地鳴りのような低音と超音波のような高音の入り混じった、ひどく聞き取りづらいものに変質していました。
それに、鼓膜を震わされるのと同時に脳内にも直接語りかけられているかのような感覚で、とても不快です。
『あなたこそ、その身には過ぎる力を得るために、ずいぶんな無理をしているのではないですか? 何やら禍々しい気配があふれかえってしまっていますよ?』
「ああ、貴様たちを殲滅するためなら、どんな犠牲だって払ってやるさ」
言いざまに、ドルヒさんは竹本先生───いや、カエルの怪物に跳びかかります。
野獣のごとき、俊敏な動きです。
しかし、怪物は同じスピードで横合いに跳びすさっていました。
『グゲゲ……大事な巫女を傷つけるわけにはいきませんからね。もう少し距離を取らせていただきます』
ドルヒさんはかまわず、銀灰色の短剣を振りかざしました。
だけどやっぱり、怪物はその巨体にそぐわぬ素早さで回避してしまいます。
さらには、三本の腕を使って反撃までしていました。
鋭い鉤爪を持つ三本の腕が、縦横無尽にドルヒさんを襲います。
最初に攻撃をヒットさせたのは、怪物のほうでした。
まともに胸もとをかきむしられたドルヒさんは、何メートルも吹っ飛ばされたあげく、岩の断崖に背中から叩きつけられてしまいました。
それでもドルヒさんは間髪を入れず体勢を立て直し、銀灰色の短剣を前方に突きつけます。
『うむう……ずいぶん頑丈な鎧を着込んでいるのですねえ』
言いざまに、怪物がびよんと跳躍しました。
地面を転がるようにしてドルヒさんは逃げ、その代わりに岩盤がマシュマロみたいにえぐられてしまいました。
『ギイッ!』と咆哮をあげ、怪物が頭の腕を振り下ろします。
それを左腕でガードして、ドルヒさんは短剣を一閃させました。
怪物の脇腹が裂け、紫がかった体液が飛び散ります。
しかし、あまりに巨体であるためか、内臓にまでは達しなかったようです。
そのとき、怪物の口から青黒い液体が噴出されました。
ねっとりとした粘液を頭からあびせかけられて、ドルヒさんが絶叫をあげます。
あのドルヒさんが、絶叫をあげているのです。
その絶叫の凄まじさだけで、わたしは意識が遠のきそうになりました。
怪物が吐き出したのは、強烈な酸か何かであったのです。
ドルヒさんの上半身は白煙に包まれて、そこから肉の焼ける嫌な臭いが漂ってきます。
ドルヒさんは両手で顔を覆っており、その指の間からだらだらと真っ赤な血がこぼれ出していました。
そこに怪物が、右腕の鉤爪を振りかざします。
横合いからまともに頭部を殴打されたドルヒさんは、また何メートルも吹っ飛ばされて、地面をごろごろと転がったのちに、すべての動きを制止させました。
怪物が巨体をたわめて、跳躍します。
そのゾウのように太い鉤爪つきの後ろ足に背中を踏み抜かれ、ドルヒさんは再び絶叫をあげました。
「くそ……!」
それでもドルヒさんは、這いつくばったまま短剣を振り上げようとします。
だけどその腕は、怪物のもう一本の後ろ足に蹴りあげられてしまいました。
銀灰色の軌跡を描きつつ、短剣は草むらの向こうに飛んでいってしまいます。
『グゲゲ……あの忌まわしい武器がなければ、僕を傷つけることもかなわないでしょう?』
不気味な笑い声をあげながら、怪物はドルヒさんの背中を踏みにじりました。
ドルヒさんは、死にかけた獣のようにうめき声をあげています。
「もうやめてください!」
同時にわたしも叫んでいました。
「あなたの目的はわたしなんでしょう!? 言うことに従いますから、ドルヒさんは解放してあげてください!」
怪物がこちらを振り返りました。
竹本先生の面影はありません。
だけどわたしには、その怪物がにこりと優しげに微笑んだように感じられました。
『神よ、呪われし魂に救済を……』
その次の瞬間、ドルヒさんの背骨がへし折られる音色が響き、防護服をつらぬかれた背中からは大量の鮮血が噴きこぼれました。
ドルヒさんはがくりと力を失って、そのまま動かなくなります。
怪物は、跳躍するのでなくひょこひょことした足取りでわたしのもとにまで近づいてきました。
『お待たせしたね。それでは空港に向かうとしよう。どこかで着るものを調達しないとなあ』
「……どうして……」
わたしは、それだけの言葉しか口にすることができませんでした。
でも、視線をドルヒさんの姿に奪われていたので、意図は伝わったと思います。
『あんな怪物を生かしておいたら、しつこく追いすがってくるかもしれないからね。ここでとどめを刺しておくしかなかったんだよ』
「……怪物は、あなたのほうじゃないですか」
『ああ、この姿のことを言っているのかい? あのねえ、田中、これこそが人間のあるべき姿なんだよ?』
怪物は、わたしを諭すように言葉を重ねます。
『太古の時代、我らの神とその眷族はこの星に君臨していた。それが忌まわしき✖✖✖✖どもとの戦いの果てに長きの眠りを強いられることになり、その隙に猿の末裔どもがこの星に満ちあふれてしまったんだ。人間は、あるべき進化をさまたげられて、今のように醜く不完全な存在になることを余儀なくされてしまったのさ』
「…………」
『しかし、****神の尊き血は、ごくわずかにだが猿どもの間に残された。僕なんて、眠れる神からひとしずくの力を授かったに過ぎないが、田中の中にはしっかり神の血が脈打っている。田中のような存在だけが、眠れる神を呼び起こすことができるんだ』
「…………」
『僕と一緒に行こう、田中。この狂った世界をあるべき姿に戻すために、同胞たちと力を合わせるんだ』
そんな言葉とともに、水かきと鉤爪の生えた手がわたしの前に差しのべられました。
昨日のドルヒさんがそうしたように、竹本先生はわたしに手を差しのべてきたのです。
そのぶよぶよとした半透明の手を見つめながら、わたしは言いました。
「……わたしはこんな世界、大嫌いでした。こんな世界は滅んでしまえばいいんだと、幼い頃にはそんなことばかり考えていたぐらいです」
『そうだろう。まともな神経を持っている人間ならば、そのように思うのが当然だ』
「だけどドルヒさんは、わたしに道を選べと言ってくれたんです」
わたしはゆっくりと、竹本先生の手から顔へと視線を移しました。
頭から腕を生やした怪物は、ちょっときょとんした目つきでわたしの姿を見下ろしています。
「教団に利用される前に死ぬか、巫女の秘密を探るための実験動物になるか、教団を滅ぼすために協力するか、好きな道を選べとわたしはドルヒさんに迫られました」
『ふん。《N・O・D》の連中が言いそうな台詞だね』
「あなたは、どんな道をわたしに提示してくれますか? 一緒についていくことを拒絶したら、わたしはこの場で殺されてしまうんですか?」
『神の血をひく巫女を害するなんて、そんなことができるわけないじゃないか』
竹本先生は、とても優しげな口調でそのように言いました。
『君は僕と一緒にみんなのもとに行き、巫女としての使命を果たすんだよ』
「つまり、わたしに選択の権利はないということですね」
わたしは六芒星のペンダントをぎゅうっと握りしめながら、言いました。
「そんな人生はクソクラエです。あなたについていくぐらいだったら、わたしは死を選びます」
『おい、田中……』
困惑したように怪物がつぶやきます。
そのとき、その声が響きわたりました。
「サチ・タナカは、今の生活を続けたいと望んだんだ。たとえこの世界を滅ぼしたいと考えても、お前たちの手なんて借りたくはないんだろうさ」
ドルヒさんです。
ドルヒさんが立ちあがっていました。
怪物は、愕然とした様子でそちらを振り返ります。
『馬鹿な……背骨をへし折られても、まだ動けるのか?』
「愚問だな。見てわかることをいちいち問うな」
荒い息を吐きながら、ドルヒさんはそのように答えました。
だけど、様子が普通ではありません。ドルヒさんは老人のように背中を曲げて、地面に両手と両足をつけていました。
めきめきと、不気味な音色が響きます。
ドルヒさんの肉体が、人間ならざる姿に変形していっているのです。
フードの陰から、奇妙なものが突き出されてきました。
銀灰色の毛皮に包まれた、獣の鼻面です。
地面についた手の先にも、同じ色の獣毛が生えています。
骨格も、いびつに歪んでいます。腕が足ぐらい長くなって、太さも増しているようです。だぶだぶであったパーカーの生地がぱんぱんに膨らんでしまっています。
人間とも獣ともつかない、それは異形の存在でありました。
でも───フードの奥にきらめく銀灰色の眼光は、わたしの知るドルヒさんのそれでした。
「貴様らみたいな化け物に対抗するなら、こっちも化け物になるしかないだろう……?」
牙の生えそろった狼のような口で、ドルヒさんは喋りづらそうにそう言いました。
怪物は『グゲゲ』と嘲笑します。
『愚かな……あなたは猿であることすら、やめてしまったのですね。本当に《N・O・D》というのはイカレた人間の集まりです。あなたこそが、真なる怪物です』
「何がどうだってかまわないさ。貴様たちをこの世から根絶できるならな」
『それで? 武器も持たぬ身でいったいどのような真似ができるというのです?』
わたしには、ドルヒさんがにやりと笑ったように見えました。
その次の瞬間、ドルヒさんの姿がその場から消え失せていました。
同時に、怪物が苦悶の絶叫をほとばしらせます。
これまで以上のスピードで跳躍したドルヒさんが、右手の先で怪物の顔面をえぐったのです。
その一撃で怪物の頭は三分の一ぐらいが吹き飛んで、目玉やら脳漿やらが地面に撒き散らされました。
怪物は、地響きをたてて後方に倒れ込みます。
『そんな馬鹿な……どうして武器も持たずに僕の肉体を……』
「俺はこの身を聖具に造り変えたんだ。俺自身が、退魔の聖具なんだよ」
地面に降り立ったドルヒさんが、こちらに首をねじ曲げて笑っています。
跳躍の勢いでフードが外れて、その人間ならざる顔がわたしたちの前にさらけ出されていました。
変身途中の狼男みたいな、とても恐ろしげな姿です。
かつての秀麗な容姿の面影など、どこにも残っていません。
だけど、爛々と輝くその銀灰色の瞳だけは、やっぱりドルヒさんのままでした。
「さあ、貴様に退魔の聖具をへし折ることができるかな? できないなら、あきらめて浄化しろ」
『許されざる異教徒め……神に仇なす怪物め!』
怪物が巨体を起こし、ドルヒさんのほうに跳躍しました。
それと同時に、ドルヒさんも跳躍しました。
数メートルもあった間合いが一瞬で消失し、おたがいの鉤爪がおたがいをえぐります。
半透明の体液と赤い鮮血が花火のように弾けました。
『グギイッ!』と怪物が三本の腕をふるいます。
それを避けようともしないまま、ドルヒさんも右腕を一閃させました。
ドルヒさんの頭と右肩と胸もとから新たな血が飛沫き、怪物の腹から臓物が飛び出します。
怪物が、再び酸を吐きました。
ドルヒさんの全身が青黒い液体にまみれ、また肉の溶ける嫌な匂いがたちこめます。
それでもドルヒさんは銀灰色の双眸を燃やしたまま、すくいあげるように両腕を振りかざしました。
五本ずつの鉤爪で引き裂かれ、怪物の両腕があっけなくケシ飛びます。
三本腕の怪物が、一本腕の怪物へと変じました。
怪物は苦悶の絶叫をあげながら、最後の腕をドルヒさんに振り下ろします。
ドルヒさんもまた野獣のごとき咆哮をあげながら、怪物の顔面めがけて飛びかかりました。
ドルヒさんの牙が、怪物の図太い咽喉にめり込みます。
そうしてドルヒさんがぎゅるんと空中で身体をねじると、怪物の生首が宙に舞いました。
紫がかった体液が噴水のようにぶちまけられ、頭部を失った怪物の巨体が地に沈みます。
『馬鹿な……こんな馬鹿な……』
地面に落ちた生首が、なおもうめきます。
それをドルヒさんが無慈悲に踏みにじると、ようやく怪物は絶命しました。
怪物の肉体がじゅうじゅうと溶解し始め、その蒸気の中でドルヒさんはがっくりと崩れ落ちました。
「ドルヒさん!」
わたしは立ち上がり、ドルヒさんのもとに駆けつけます。
左膝がずきずきと痛みましたが、そんなものにはかまっていられません。
ドルヒさんは、ぎらぎらと光る獣の目でわたしをねめつけてきました。
「大丈夫ですか? しっかりしてください!」
「……どうということはない。獣化の術を発動させれば、たいていの傷は修復することができるんだ」
そんなことを言いながら、ドルヒさんはとても苦しそうです。
声がくぐもっているのは口の形状が変わってしまったためなのかもしれませんが、その全身を包んでいた力の波動みたいなものが、すっかり消えてしまっているのです。
「お前が時間稼ぎをしてくれたおかげで、なんとか決着をつけることができた。いちおう礼は言っておく」
「礼だなんて……ドルヒさんは、わたしを助けるためにそんなひどい目にあったんじゃないですか……」
「俺はただ、自分の仕事を果たしただけだ」
ドルヒさんは素っ気無いです。
でも、ドルヒさんらしい素っ気無さなので、わたしは安堵することができました。
とたんに張り詰めていた気持ちが途切れて、その場にへなへなとへたり込んでしまいます。
「脱力している場合か。さっさと逃げるぞ」
「え? まだ誰か追ってきているのですか?」
「違う。あの音が聞こえるだろう」
耳を澄ますと、何やらサイレンの音色が近づいてきているのがわかります。
そういえば、道路にはガードレールに突っ込んだ車を放置したままなのでした。
「まだこの国では根回しが不十分だから、警察などに捕まるのはまずい。バイクは後で回収するしかないだろう」
そのように言いながら、ドルヒさんはゆらりと立ち上がります。
そして、銀灰色の獣毛に覆われた手をわたしのほうに差しのべてきました。
「さっさと立て。一刻も早くこの場から離れるんだ」
木漏れ日を反射させてきらきらと光る人獣の毛並みをしばし堪能してから、わたしは「はい」とその手を取りました。
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