第3話 誘い・二
私が喜びを噛み締めていると、エレベーターの扉が開いた。正面に取り付けられた鏡に、私たちの姿が映る。
二人で奥のほうへ乗り込むと、次から次へと人が入ってくる。私たちが待っているときは、そんなに人はいなかったのに。人から距離をとろうなんてできるわけもなく、あっという間に満員になってしまった。
私が壁際へと追いやられてしまっている間に、エレベーターの扉は閉まったみたい。鋼鉄の箱はわずかな揺れを感じさせながら、静かに下降していく。
閉まったみたい、と推測になるのはとても簡単な話で、私の前に伊月先輩が立っているからだ。
それも、私と向き合うような形で。
正面――――先輩を見ているのは落ち着かず、私は顔を横に逸らした。でも私はすぐ、後悔する羽目になる。
だって、どうしようと困った表情をした平凡な女の子――私の顔が、鏡に映っているんだもの。私の身体の前にある、伊月先輩の首とか胸元とかも。他にも乗客が映っているのに、私たち二人の姿だけを強く意識してしまう。
どうしてこんなところに鏡が設置されているのだろう。こんなの、映さなくていいのに。いつも思うけど、エレベーターに鏡なんて必要ないと思う。
エレベーターが停止し、機械音声の案内と共に扉が開いた。エレベーターの中にいた人たちの何人かが出ていき、代わりにまた入ってくる。
その入れ替わりのせいかな。私と周囲の人の隙間が、さらに狭くなった。横を向いていた私の視界に、服の袖が入ってくる。――――吐息が、すぐ近くから落ちてくる。
「っご、ごめん」
「だ、大丈夫です……」
謝罪の言葉が聞こえるが、私は小さな声で応じるのがせいいっぱいだった。
だって、こ、この密着度は…………!
伊月先輩の顔を見上げることも、鏡を見ることもできない。抱きしめられているみたいに密着しているだけでも悶絶したいのに、絶対に今の私の顔、やばいことになっているのだから。冷房が効いているはずなのに、身体が熱い。
いつもはここまで混んでないのに、なんで今日に限ってこんなに混んでるのよ。神様、幸運ならもっとわかりやすいのをちょうだい。こんなの、嬉しいのかもわからないじゃない。
何かしゃべって気を紛らわせたい。でもエレベーターにいる人たちは皆無言だから、しゃべるのはなんかよくないような気がする。それに、変なことを口走ってしまいそうだし……でもこの沈黙も密着も私にはきつい。
早く、早く。そう願って俯き、長い髪で顔を隠していたのはどれくらいだったのか。やっと一階に着いて、エレベーターの扉が開いた。私にはそれが、救いの音のようにも聞こえた。
助かった……色々な意味で。
なんか、立ってるだけなのにかなり疲れた……でもまああとちょっとだし、頑張ろう。
「すごい人の入りようだったね……
「えっ?」
伊月先輩?
先輩は、私が目を丸くしているのを見ていないみたいに私の手を引いた。いやあの、ちょっと先輩? 驚く私はそう心の中で思うだけで、声に出せない。手に突然絡んだ熱のせいで、私の心臓はまた一つ跳ねる。
伊月先輩が向かったのは、エレベーターの近くに置かれたベンチの一つだ。近くに自販機があってそこで買った飲み物を飲む人たちが座っているけど、たまたま一つだけ誰も座っていない。
伊月先輩は私をベンチの端に座らせると、自分も隣に腰を下ろした。さっきと違って密着はしてない。してないけど……近い。
……神様。今日の上げ下げの激しさはなんなんですか。私、別に心臓が強いわけでもないんです。そりゃ嬉しいんですけどね。さっきも言ったけど、嬉しいんですけどね……!
私の緊張を知ってか知らずか、伊月先輩は私から取り上げた袋を揺らした。
「賀茂さん。これ、もしかして明後日のお祭りに着ていく浴衣?」
「はい。友達と一緒に買ったんです」
「そっか。……せっかく俺も誘ってくれたのに、急に断ってごめんね?」
「いえそんな、仕方ないですよ。前にいた学校の友達からの連絡で、向こうへ行かなきゃいけなくなったんでしょう?」
だから気にしないでくださいよ。私は首を振って、そう笑ってみせた。
そう、足の大怪我が治ってきた先日、私は勇気を出してバイト先で伊月先輩をお祭りに誘った。私と伊月先輩は同じところでバイトしていて、他の人に知られずに誘えるのは、ここしかないと思ったから。好きな人とお祭りに行きたいって思うのは当然でしょう? 伊月先輩は二つ返事で頷いてくれて、私はそれこそその場で踊りだしたいくらいハイテンションになったよ。うん、店長、ごめんなさい。
なのに昨夜、どうしても外せない急用ができたって電話があった。前にいた学校の友達から、連絡がきたって。もちろん駄々なんてこねたりしなかったけど……天国から地獄、はいかないまでもかなりへこんだ。それで今日、里彩や優希と合流したときも、報告して慰めてもらったんだよね。……微妙に慰めになってなかった気もするけど。
「伊月先輩こそ、あんなにお祭りを見たがってたのに、残念でしたね」
「そうなんだよね。昼間は神事や仮装の練り歩きがあって、夜には境内で芝居なんだろう? そういうの、見たことないから楽しみにしてたんだよ」
「? 前に住んでたところは、そういうのなかったんですか?」
私が目を瞬かせると、うん、と伊月先輩は肩をすくめた。
「そもそも、夏の終わりに伝統行事なんてなかったよ。地区の盆踊りが終わったら、それで終わり。花火大会は一応あったけど、テレビで報道されるような大規模なものじゃなかったし、ああいうのはあんまり行く気になれないから行かなかったんだ」
だから見たかったんだけどなあ、と伊月先輩は繰り返し嘆いた。
伊月先輩は私くらいの歳の人にしては珍しく、古いものというか、オカルトとか地域独自の文化とかがすごく好きだ。送り狼にはいいものも悪いものもいて上手く付き合えば守ってくれるとか、ヨーロッパにもクランプスというなまはげみたいなのがいるとか、封神演義で有名な那侘は仏教由来の神様なんだとか、楽しそうに教えてくれるんだよね。
その上、住んでいたところは本当に都会で、田んぼを自分の目で見るのは初めてなのだというくらい、田舎に縁がなかったのだという。先輩が田舎ならでは、地域独特のものに興味津々なのは、そういうのも関係しているみたい。
私の家は何百年も前からあの地区で農業をやってきている古い農家で、古いものならいくらでもある。大きな蔵に和綴じの本に、『
……そうだよ、伊月先輩を誘える口実なんて、他にもあるじゃん私。
「じゃあ、収穫の時期になったらまた誘っていいですか? 私の家には、収穫の時期になったらする行事があるんです」
「へえ、それは是非参加させてもらいたいな。でも、いいの? そういうのって、よそ者には見せないものじゃないの?」
「いえ、そんな大層なものじゃないですよ。山にある祠へ稲を持っていくだけですから。むしろ、若い人に興味を持ってもらえるのは嬉しいっておじいちゃんたちは喜ぶと思います」
何しろあのならわしは、うち以外じゃ何軒かの古い家しかやっていない、伝統が色濃く残る地区の中でもとりわけマイナーなならわしだ。かといって何か変わったことをするわけでもない、伝える人がいなければ絶えて忘れられてしまう、ささやかな文化の欠片。
あの地区で生まれ育って、ならわしを受け継いできたおじいちゃんとおばあちゃんはそれをとても大切にしている。地域の歴史の本に載せられるだけじゃなく、ちゃんと生きたならわしとして続いてほしいっていつも言ってる。
……私も正直面倒くさいって思うんだけど、でもなくなるのはなんとなく嫌だから。先輩が好きになってくれたら嬉しい。
「そう、じゃあ、参加させてもらおうかな。その時期になったら、また教えてよ」
「はい!」
にっこりと笑う伊月先輩に、こくこくと私は頷いた。
ああもう私、またおかしなダンスを踊れそうだ。
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