第2話 誘い・一
黒地に咲き誇る赤い薔薇。猫が踊る紫地、蝶が舞う深緑。藍鼠や黄や緋色の帯。ハンガーにかけられた布は多種多様で、今どきっぽいデザインから古めかしい紋様がプリントされたものまである。
そんな布で作られた浴衣がずらりと並ぶ、隣町にある百貨店の一角。買ったばかりの品々を入れた買い物袋を持つ私に、部活でよく焼けた肌をさらした
「じゃあ
「今日は無理したんだから、明後日まで安静にしてね。今度も怪我で一緒に行けないなんて、嫌よ?」
里彩に続いてそう言うのは、長身の里彩の隣で買い物袋を抱える、小柄で可愛らしい
今日は、バイトの休みの日。ということで私は、中学のときからの友達である里彩と優希と三人で、この百貨店へ買い物に来ていた。理由はもちろんと言うべきか、売り尽くしセール中の浴衣を買うためだ。
で、無事にあの簪と合いそうな浴衣やら帯やらを買い揃え、私だけ先に帰ることになったのだけど。そしたらこれである。まったく、今日に限って二人ともお母さんみたい。私だって、自分の限界くらいはちゃんとわかっているのに。
まあ、仕方ないのかもしれないけど。私は先月、ちょっとどころではない怪我をしてしまっていたのだ。退院して半月が過ぎ、歩くことはできるけど走るのはまだ無理。こうして地区の外の百貨店へ買い物しに行くのも、渋い顔をするお母さんたちをどうにか説得してだった。
「わかってるよ。里彩、優希、じゃあね」
苦笑してそう返し、私は二人に背を向け、人ごみに紛れた。
セール期間中の百貨店は、今日も今日とて多くの人で賑わっていた。可愛い服に綺麗なアクセサリー、目を引く雑貨に不気味な置き物。人波の合間から見える商品は店ごとにまるで違っていて、次はいつ見られるかわからないというのもあって、どこを見ても飽きない。見ているだけでも充分楽しい。
自分が今どこにいるかわからなくなる人の流れの中、里彩の指示に従って歩いていた私の頭の中は、どこをどうしたのか、二人が向かった先にある喫茶店のメニューでいっぱいになっていった。足のためにも早く帰らなきゃいけないってわかっているんだけど、食欲は三大欲求の一つなのだから仕方ない。
「あー、ブラッドオレンジジュース、飲みたかったなあ……それに、ホットケーキ……」
春休み中に口にした味を思い出し、私ははあと息をついた。
だってあの喫茶店のホットケーキは、生地の中がふわふわで、蜂蜜をかけなくてもほんのり甘くて美味しいんだもの。バニラアイスを乗せてあるのも、アイスが解ける前と後で生地の味を二度楽しめるからいい。財布の中が寒いとか他に用事があるとかいった諸々の理由がなければ、私も一緒に行きたかった……。
ああやばい。思い出したらほんとに食べたくなってきた……おじいちゃんにこっそりお小遣いをおねだりしたほうがよかったかな。おばあちゃんはお金にシビアだから、お駄賃くれないし。
今度、お金が貯まったら食べに来よう。体重は…………運動すればいいもん。どうせ九月には、家の手伝いしなきゃいけないしね。バイトもあるし、ちょっと頑張れば痩せるのは簡単……のはず。
そう開き直り、私は標識が見えてきたエレベーターへ向かった。
――――のだけど。
「あれ?
「!
人ごみの中で横から声がかかり、私は思わず息を飲んだ。立ち止まって振り向き、頭に浮かんだとおりの人を見つけて心臓が高鳴る。
芸能人かモデルだと言われても納得できる、爽やかな美形だ。背が高くて、適度に肌が焼けていて、身体だって引き締まって無駄一つない。素地がいいから、シルバーリングを下げたペンダントが光る洒落た装いもよく似合う。着るものにまったく頓着しないとおばさんに嘆かれている、幼馴染みのとある男の子とは雲泥の差だ。
そんな容姿で周囲の女性客を振り向かせている一つ上の先輩、伊月
「こんなところで会うなんてびっくりだね。一人? 足は大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫ですよ。今日は友達と一緒に来てたんですけど、これから私だけ、地下へ行くところで……先輩は?」
「俺? 俺は適当にぶらついてるだけだよ。家にいてても暇だったから」
と、伊月先輩は腕に抱えるいくつかの袋を示す。その仕草もまた、さまになっている。
「賀茂さん、これから地下へ行くって言ったけど、地下って何売ってるの? やっぱり食べ物?」
「はい。名店の食べ物が中心ですよ。あと、輸入品とこの辺りの特産品も売ってます」
尋ねられるまま、私は答えた。同時に、頼まれた和菓子以外何も買わずにいられるだろうか、と心配する。
何しろあのフロアは、作りたてのいい匂いがあちこちの店から漂ってきて、今すぐここへ来いと大声で主張しているみたいなんだもの。匂いでなくても、見た目で誘ってくるし。実際美味しいことを知っているだけに、余計に駄目だ。
伊月先輩は小刻みに何度か頷くと、じゃあ、と言った。
「賀茂さん、案内してよ。俺もちょっと回りたいし」
え、あ、ちょっと伊月先輩?
荷物をごく自然な動作で取り上げられ、私は目を丸くした。そんな私をほら行こう、と伊月先輩は促して歩き出すものだから、私も歩くしかなくなってしまう。
「先輩、こっちのお店、回らないんですか?」
「もう充分に回ったよ。それに、怪我が治りたての子を放っておくのも気が引けるし。気にしないで」
にこ、と伊月先輩は微笑む。それでもう、私は何も言えなくなってしまった。
これ、絶対に学校の人たちに見られたらやばいよね……伊月先輩は学校一のイケメンってことで、女子に大人気だもの。そんな人に百貨店で荷物持ちをさせたなんて、伊月先輩に熱を上げてる女子に知られたら……! 考えるだけでも恐ろしい。いやそりゃ、伊月先輩をお祭りに誘ったりしたけどさ……。
でも、嬉しい。バイトの日まで会えないと思っていたもの。今は夏休み中だし、そうじゃなくても、学校じゃ恥ずかしくて先輩に会いに行ったりなんてできないし。こんな不意打ち、大歓迎だよ。
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