第一章 ガラスに映る夏祭り

第1話 ガラス細工店『夢硝子』

 誰かが私を呼んでいる。何故かそんな気がして、私はバイト帰りの道を振り返った。

 自然豊かと言えば聞こえはいい、要するに山に囲まれた田舎町の、昭和の門構えが観光の目玉となっている商店街の大通り。そこへ繋がる小路にぽつんと建つ店に、見たことのない看板がかけられていた。


「……?」


 ここ、看板なんてあったっけ。私は眉をひそめた。

 こっちはあまり歩かないからうろ覚えだけど、覚えている限り、あの店は数年前からずっと閉まっていたはずだ。私が小さい頃はおもちゃ屋さんだったけど、客はろくに来ないし後継者もいないから、店主のおじいさんが体調を崩したのを機に閉店した。看板を下ろしているところを見たから、よく覚えている。

 新しいお店が入ったのだろうか。でも大通りに空き店舗があるのに、わざわざこっちの店を買い取るなんて物好きだ。お金がなかったのかな。

 不思議に思って近づいてみるとその看板は、おばあちゃんいわく築八十年以上だという建物に相応しい、古めかしく立派なものだった。けれど字の色艶は真新しく、細く優雅な筆跡が、柔らかで優しい雰囲気を演出している。


「えーと、ゆめ硝子がらす……?」


 名前からすると、ガラス細工のお店なのかな。そう思いながら看板から店舗の窓へ視線を移した私は、息を飲んだ。

 私の視界に入ってきたのは、とぐろを巻いて空を仰ぐ、赤い龍の大きな置物だった。龍の鱗や髭、たてがみの一本一本に至るまで細工が施され、瞳は金色に仕上げられている。ポーズや凛々しい顔つきからこぼれる力強さは、まるで今にも動きだしそうなくらいだ。


「綺麗……」


 窓越しにガラス細工を見つめ、私は思わずため息を漏らした。

 言葉どおりに綺麗だと思ったからというのもあるけど、これ、とんでもない値段がするに違いないよね。いやだって、こんなに綺麗なんだもの。うちじゃ、金庫や家族全員の口座を全部ひっくり返してようやく買えるかどうかだと思う。

 けれど隣の棚を見てみれば、ビー玉を詰めたガラス瓶だの、コップだの、手のひらサイズの可愛い動物の置物だのといった、庶民、とりわけ若い女の子を誘う品々が整然と置かれている。こっちなら私のバイト代でも手が届きそうだ。種類や価格を問わず、ガラス細工ならなんでも置いている店なのかもしれない。


「……」


 取り出したケータイの画面を見てみれば、まだ夕食には早い時間が示されている。……うん、これなら少しくらい店の中を見て回っても大丈夫そうだ。足の怪我も治ってきているんだし、ぱっと見て帰ればいいよね。


 と自分に言い聞かせ、がらがらと扉を横へ滑らせて、私は見つけたばかりの店へ入ることにした。


「うわあ……!」


 店内へ足を踏み入れて、私は店の前と同じかそれ以上の声をあげてしまった。

 だって、素敵な内装だったのだ。色ガラスの窓に、土間と靴を置く石。座敷と隔てるのは、今や高値がつく分厚い擦りガラスの障子。典型的な、昔の日本のお店っぽい間取りだ。

 土間に置かれた艶のある木製の棚には、動物や人の置物、プローチや簪などのガラス細工が、所狭しと並んでいる。どれもが一点物で、同じものは一つとして置いていない。

 それに何より、座敷。ガラス障子が開け放たれた座敷には、絵皿や筆、ガラス細工が所狭しにと置かれている。ガラス細工は絵付けがされたものとされていないものがあり、この座敷が作業場であり、職人が席を外していることを窺わせた。


 あの古ぼけたおもちゃ屋さんもそれなりに味があってよかったと思うけど、これはあまりにも私の好みにストライクだった。店の内装といい商品といい、私の好みをことごとくついている。なにこれ、私のためのお店なの?

 我が家や商店街とはまた違う、古い日本の空気が、どこかあやしさを混じらせ漂っているのもいい。首を巡らせるだけで、私のテンションは勝手に上がっていく。ああもう、ほんと、ここ気に入った。通いたい。


 ……でもこれ、大丈夫なのかな。

 素敵な店を見つけた興奮が収まってきた後、私は改めて扉と座敷に目をやった。

 何しろ、私が入ってきたにも関わらず、店員さんが誰もいないし店の奥から来たりもしないもの。防犯カメラがあるようにも見えないし、これじゃ盗み放題。値札を見ないほうがいいに違いない高価な商品をいくつも並べているにしては、不用心すぎるんじゃないだろうか。

 まあそれは、商店街のほとんどの店に言えることだけどね。うちの地区、このご時世になってもまだどこか能天気なんだよねえ。おじいちゃんおばあちゃん世代だと、店や家を開けたまま近所へ用を済ませに行く人がまだいるし。おじいちゃんなんか特にそうで、お父さんとお母さんはしょっちゅうため息ついている。


 早く店員さん来ないかなあ。座敷にもう一度目をやってから、私はガラス瓶からビー玉を一つ取り出した。

 水に見立てているのだろう青のグラデーションの中に、赤と黒の金魚らしきものを内包した、可愛らしくて綺麗なデザインだ。見るからに涼しそうで、この季節によく似合う。いくつか並べて金魚鉢に入れるだけでも、いい感じの置物になりそう。

 瓶の中からさらにビー玉を出してみれば、流水や星、金魚に人影、実に様々なものを内包したものばかり。他の商品同様、一つとして同じものがない。形が少し違うとか色違いとかいうレベルじゃなく、デザインそのものが一つ一つ違うのだ。きっと手作りなのだろう。

 こんなに綺麗なガラス細工を手作業で作る職人さんはほんとにすごいよねえ、と私が感心しながらビー玉を見ていたときだった。


「――――お嬢ちゃん、それが気に入ったのかい?」

「!」


 笑み含みの、女の声。背中からかかったそれに、私は思わず背筋をびくうっとさせた。

 人がいた!?


「おや、驚かせてしまったかい。悪かったね」

「い、いえ……」


 振り返り、首を振りながら私は早鐘を打つ胸を押さえる。いつの間にか座敷に立っていた、赤い唇の端を上げる女性を見上げた。

 多分、最低でも二十代半ばはいってるんじゃないだろうか。白い肌に赤く厚みのある唇、やや吊った眦に長い睫毛。小さな顔も細い眉も、羨ましいくらい整った形をしている。女の私でもぞくっとする色気を滴らせた、迫力ある美女だ。テレビや雑誌で見たモデルや女優でさえ、この人の前ではかすんでしまう。

 流水文が描かれた浅葱色の浴衣を締める赤い帯には、ガラス細工の鬼灯が連なる簪が挟まれている。帯が締める腰の細さ、その上に乗る胸からすると、かなりスタイルが良いんじゃないだろうか。……うん、勝負にもならないね、私。平凡顔の比較するのがそもそも間違っているけど。


 この人、きっと店主さん、だよね。だってこんなに堂々とした、目立つ雰囲気と容姿の女の人がただの店員だなんてことはないでしょう。看板の字の筆跡が柔らかかったのも、女性向けの品が店頭に置かれていたのも、彼女が店主だからというなら納得できる。


「すみません、勝手に入ってしまって」

「いいよ、外が開いてたんだろ? このご時世、こんな不用心じゃ何を盗まれても文句は言えないさ」


 私が頭を小さく下げるとそう女性は肩をすくめる。そのまま青い帯の桐下駄を履いて、土間へ下りた。


「まあ、今日店を開いたばかりだからね。開けて数時間じゃ、泥棒だって無防備な店に気づきゃしないだろうさ」

「今日、オープンだったんですか?」

「ああ。何の宣伝もしてないから、知らなくて当然だね」


 と笑った店主は私のところまでやって来ると、私が持つビー玉に目をやった。


「それ、買うのかい? あんたなら、こっちの簪なんか似合いそうだけどねえ」

 女店主はそう言うと、隣の棚に置かれていたガラス容器から簪を無造作に手にとり、私に差し出した。


 うわあ……。

 これもまた、綺麗な簪だった。金の唐草文様が一部に塗られた真っ黒な棒に、青い流水と金粉か銀粉を内包した透明なトンボ玉が刺さり、桜の花びらや紅葉、橘や椿を模した小さなガラス細工が連なっている。日本の四季を連ねたような一本だ。

 女店主の許可を得て手にとりかざしてみれば、外の光を浴びて五つのガラス細工がきらきらと輝く。赤に青に桜色、白に深紅。手首に落ちる、色づいた影も綺麗だ。

 ……やばい。これもやばいくらいにツボだ。おばあちゃんが持っている赤いトンボ玉の簪も割と好きだけど、これは私の好みに合いすぎる。

 でも――――


「これ、かなり高いですよね……?」


 少々心もとない財布の中身を思い出し、私は泣く泣く現実に帰ってこざるをえなかった。

 何しろ、数日後には浴衣を一揃い買う予定があるのだ。お盆はとうに過ぎても、この地区ではまだ浴衣の出番がある。バイトで貯金はそこそこ貯まっているとはいえ、高い買い物はできない。

 けれど、女性はああ、と一つ頷いた。


「五千円、かねえ」

「えっ」


 女性が告げた値段に、私はぽかんと口を開けた。


「五千、円……?」

「ああ。持ってるかい?」


 思わず繰り返してしまうと、女性はなんでもないことのように首を傾けた。

 いやいやちょっとちょっと、これが五千円なんて、安すぎない? 去年、中学の修学旅行で京都の三寧坂にあるトンボ玉の店を覗いたけど、トンボ玉が一つ刺さった簪一本で、安くても三、四千はしていたはず。たったこれだけでこんなにするの、って驚いたからよく覚えている。普通のビー玉は、一個でも五百円しないのに。

 この簪は、一つどころか四つもガラス細工が連なっている上、塗りも施されている。安くても一万。二万だったとしても、まあ納得できなくもない。

 それが、五千。半額だ。安すぎて、冗談かと思いたくなる。


 けど、女性は冗談だとは言ってくれず、どうする? と言わんばかりに私を見下ろすばかり。むしろ、私の反応を面白がっているような、試しているようなふうでさえある。

 もしかすると、本当に五千円なのかな。それか、実はガラス細工じゃなくてアクリルか何かとか?


 ……別にそれでもいいや。こんなに綺麗なんだもの。素材なんかより、見た目がよければいいじゃん。ちょうど、浴衣に合わせる簪が欲しかったところだし。そう、浴衣には簪が必要なんだし。


「まいどあり」


 鞄の中を探る私を見て、女性はにっと笑った。

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