第4話 祭りの夜・一

 神事が厳粛な空気の中で執り行われ、仮装の練り歩きに人々が歓声をあげる昼はあっという間に過ぎ、夜になった。


「じゃあお母さん、行ってくる」

「気をつけなさい、無理しちゃ駄目よ」


 玄関で下駄を履く私に、お母さんがそんな注意をしてくる。私はそれに生返事を返して立ち上がった。だってお祭りなのだ。楽しむなら全力でなくっちゃ。

 玄関扉に私が手をかけたところで、居間の襖ががらりと開いた。中からおばあちゃんが顔を出してくる。


「祭りに行くんか?」

「うん。久しぶりに、お芝居のほうも見ようと思って」

「ほなはよ行ったれや、お前がおったら和義かずよしも張りきるわ。あたしも後で和子かずこと行くさかい。……けど、あずさ、お前、男の迎えはないんか。ほれ、病院に見舞いに来とった、先輩やいう子」


 私、というより私の背後に視線を向け、おばあちゃんは言う。お義母さん、とお母さんがたしなめてくれるけれど、我が家最強のおばあちゃんが聞くはずもない。

 やっぱり、言うと思った。私は顔をひきつらせた。


「今日は友達と行くから……」

「なんや、つまらん。お前が浴衣と化粧に気合い入れとるさかい、あの若いのが来ると思っとったのに。誘わんかったんか?」

「先輩は家の用事があるから無理だって。前にいたところにはないことばっかりだから見たかったのにって、残念がってたよ」


 と、つまらなさそうな顔をするおばあちゃんに私は説明した。

 おばあちゃんは、私の入院中に顔を合わせることになった伊月いつき先輩を気に入っている節がある。私は二人がどういうやりとりをしていたのか知らないけど、そばで見ていたというお母さんいわく、礼儀正しくて紳士的、かつ体力も腕力もありそうなところがよかったらしい。……あのーおばあちゃん、最後の二つって、どう考えても労働力扱いとしか思えないんだけど。

 人手が足りないなら、人を雇おうよ。一人娘のくせに、よそでバイトに励んでいる私が言うのもあれだけど。


「ともかく、行ってきます」


 これ以上、あれこれと言われてはたまらない。逃げるようにして、私は我が家から出た。

 電灯が灯る田んぼの間の道路を抜け、神社の参道へ近づくほどに、人の姿は膨れ上がるように増えていった。毎年のことながら、盆踊りよりもずっと多い。それもそのはずで、地区の人は大抵盆踊りよりもこっちの祭りが好きだし、役場の人たちも地区特有で夏場の観光の目玉として大々的に宣伝しているもの。最近商店街が賑やかだったのも、今夜のために観光客が来ていたことが大きい。

 人の姿が多くなるにつれ、普段の夜の参道にはないたくさんの明かりが見え、食べ物の匂いが漂ってきた。がやがやと人の賑わいが気を逸らせる。歩く足は次第に早足になる。

 待ち合わせていた里彩りさ優希ゆうきと合流すると、里彩は私の姿を見るなり、目を輝かせた。


「うわあ、すっごく似合ってるよ。ねえ里彩」

「だね。化粧もばっちりだし。特にその簪! それ、もしかして『夢硝子ゆめがらす』の?」

「うん。似合う?」


 顔をほころばせて私が問い返すと、里彩と優希は口を揃えて似合うと言ってくれる。それでますます私は嬉しくなった。

 浮草に赤と黒の金魚が泳ぐ縹色の浴衣、帯は向日葵色。『夢硝子』で買った青いトンボ玉を紺色の組紐に通して、飾りにした。巾着は裏地が赤の、桜と紅葉が散らされた紺色のもの。赤い鼻緒の黒い下駄と合わせて、中学のときに買ってもらったお気に入りだ。

 髪はお母さんに教えてもらったやり方で結って、あの簪を挿して。化粧もばっちり決めてきた。その苦労が報われた気分だ。伊月先輩に見せられないのはやっぱり残念だけど、二人に褒めてもらうのも嬉しい。


「『夢硝子』って、百貨店で二人が言ってたガラス細工屋さんだっけ? いいなあ、私も行ってみようかな」


 何度も頷き、優希は私の頭の簪から目を離さず、うっとりした顔で言う。彼女は先日の買い物の前日まで家族旅行で、町にいなかったのだ。


「行ってみなよ。すっごく綺麗なガラス細工ばっかりだから。安くて可愛いのもたくさんあるし」

「店主の女の人も、すっごい美人だしねー。これぞ大人の女! って感じで。なんていうか、眼福?」


 里彩に続いて私が言えば、何それ、と優希は笑う。いえいえ、見ればわかるから。あれは目の保養、目の幸せだよ。美人すぎて羨む気にもなれないし。


 そうしてデジカメやケータイで自分たちの写真を撮った後、他愛もないおしゃべりをしながら、私たちは参道をのんびりと歩いた。

 ポテト、たこ焼き、唐揚げ、ボールすくいに射的。ベビーカステラに砂糖菓子。参道に連なる定番の出店に、誰もが目を向けては立ち止まり、好きなだけ買っていっては楽しんでいる。輪投げやくじ引きで当てたのだろう、蛍光ブレスレットもいたるところで見られた。

 結構な匂いを漂わせていたいか焼きを完食した里彩は、さあて、と目をぎらつかせて出店に向けた。あのー、一体どれだけ食べる気ですか?


「次は何食べよっかな~?」

「里彩、そろそろ食べることから離れたほうが……境内に着くし」

「だって、こんなときじゃないとベビーカステラもいか焼きも食べないし! 食い溜めしとかなくちゃ!」


 私が苦笑しながらたしなめるのだけど、里彩はむしろぐっと握り拳をして力強く言い切る。あんまり堂々としているものだから、後で食べればいいんじゃ? という喉まで出かかったツッコミを私は飲み込んだ。うんこれ、言ったら絶対反撃をくらうよね……。

 と、臆病な私は空気を読んで自重するのだけど。


「里彩、食べ過ぎはよくないんじゃないかなあ。あずま先輩にふられてやけになるのはわかるけど、太ったら余計に意識してもらえなくなると思うよ」

「ふられてないわよ! 先輩が怪我で、一緒にお祭りに行けなくなっただけ! てかなんであんたが知ってるのよ!」


 のんびりした声による容赦ない指摘に、里彩はまさに噛みつくといったふうで反論した。

 あ、だから里彩も一緒に来ることになったんだ。日頃話題にしている部活の先輩をどうして誘わないのかと思っていたのだけど、納得。


「まあまあ、里彩。食べても里彩ならすぐ痩せるよ。テニス部だから、私より運動してるわけだし。それに、私も伊月先輩と一緒に行けなくなってたから、二人と一緒で嬉しいよ」

「そうよね。新しく浴衣買っても、見せる相手がいないんじゃむなしいもんね」


 里彩を宥める私の隣で、優希はうんうんと何度も頷いて言う。ちょ、優希、痛いところを。それ、ぐさっとくるんだけど。

 雑誌のモデルに負けないくらい可愛くて気配りもできる彼女の、巨大な欠点がこれだ。一体どうしてそんな性格になったのかと思いたくなるくらい、歯に衣を着せない。彼女に私たち以外の女友達があまりいないのも、この言葉のきつさにうんざりする人が少なくないからだ。なんだかんだ言って彼女と中学から付き合いを続けている私と里彩は物好きだと、たまに思わないでもない。


 そうこうしているうちに、私たちは大きな赤い鳥居の前まで着ていた。その向こうには長い石段があり、人々が神社へ向かっている。石段を見上げれば夜闇の中、明かりに照らされる本殿の屋根が見える。

 石段を登りきり、山の中腹にある境内へ足を踏み入れると、やっぱり人だかりができていて、本殿の前に組まれた舞台は屋根しか見えないありさまだった。行事までまだ二十分もあるのだけど、皆考えることは同じみたい。

 人々の合間から見えないかと背伸びしたりしていた優希は、ため息をついた。


「やっぱりここからじゃ遠いね。私、見えないかも」

「優希の背じゃ、見えないかもね。こっちのほうへ来るのは久しぶりだったから、忘れてた」


 屋台のほうは毎年欠かさず回っているのだけど、境内のほうはあまり来た覚えがない。だって毎年この混みようだし、芝居の内容は変わらないもん。知り合いが演者を務めているならともかく、あまり見る気になれない。この時間帯だけ、屋台がちょっと空くしね。


「大丈夫二人とも。こういうこともあろうかと、小細工してきたから!」


 自信たっぷりに里彩は言うと、私と優希を手招きする。私と優希は顔を見合わせ、どちらからともなく里彩について行った。

 里彩が人々を尻目に向かったのは、境内の際――落下防止に張り巡らされたフェンスの前だった。卒業写真のときに使う銀色のアルミ製の台のようなものが折りたたまれ、地面に置かれている。


「よし、誰も気づいてない!」

「里彩、これって……」

「アウトドア用のベンチ。ちょっと遠いけど、この上に乗れば見えるでしょ」


 にやり、と里彩は私に笑ってみせると、ベンチに手をかけた。

 三人でベンチを組み立てて乗ってみると、里彩のもくろみどおり、視界良好。緑青色の屋根瓦と赤い柱の立派な本殿も、集まった人々の頭の数々も、その間にもうけられた空間も一望できる。離れていると言っても境内はそれほど大きくないから、双眼鏡がなくても巫女さんの顔までばっちりだろう。視力は自信あるのだ。

 振り返れば、明かりが灯る参道や町の大通り、真っ黒な山々も視界いっぱいに広がっている。見上げた夜空に月は見えなかったけど、星がいくつも瞬いていた。私に続いてベンチへ上がった里彩と優希も、この景色に満足の声をあげる。星空なんてそんなに珍しいものじゃないけど、お祭りだからかな、なんだか特別な景色に見える。


 夜景にはしゃいで写真を撮ったりしていると、あっという間に時間は過ぎた。それを知らせるように、舞台のそばに白単と藍色の袴、烏帽子といういでたちの男の人たちが現れる。

 舞台と奏者の準備が整っていくのを見ていた里彩が、あ、と声をあげた。


「梓のお父さんがいる。今年も吹くんだ」

「え、どこどこ」


 里彩の声につられて、優希も私の父親を探そうとしている。いや優希、あんな冴えないおじさんをわざわざ探さなくても。単に、お囃子で篠笛を吹くだけなんだし。


 唐突に、どおん、と大太鼓の音が境内に響き渡った。

 どおん、どおん。たたん、かかっ。

 紺色の鉢巻と前掛けと股引といういでたちの男の人が、引き締まった腕をさらし、大太鼓を叩いている。時に速く、時に遅く。強く弱く。縁や胴を叩いて音を鳴らし、旋律を奏でる。

 たった一台の大太鼓だけだというのに、私は少しもそれを感じなかった。代わりに、場の空気が張りつめ、音の波の数々が場を支配し、人々を圧倒し、わずかな静けさも乱せなくしているのを肌身に感じる。そう例えるなら、おばあちゃんやおかあさん――――怖い人に叱られているときのような、一瞬たりとも気を緩めることのできない緊張感。


 どん、と一際強い一打が空気を震わせた。それきり音は止み、静けさが満ちる。

 けれど拍手する間もなく、社務所のほうから、赤い人影が組み上げられた舞台へ走ってきた。

 真っ赤な衣に黒い縁取りの深紅の羽織り、緋袴を着た人だ。ただしそれは、まとっているのが人間であるというだけ。顔には役を表す赤い鬼の面を被っている。二本の角、太い眉、金色の目、大きな牙。出店のお面と同じものとは思えない、小さい子供が泣いて逃げるおそろしげな顔だ。

 赤鬼は舞台の中央まで来ると、大仰な動作できょろきょろと辺りを見回した。敵がいないことを確認し、手に持っていた細長いものを口に運ぶ。もう片方の手には、身の丈ほどもある長大な黒い抜き身の大太刀を持っている。


 ――――それらは、この鬼が人を食べる、おそろしくおぞましい存在であることの証拠。


 人食い鬼の登場を端緒に、奉納の舞台は始まった。

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