第36話 また明日

「……先輩がどうして変若水を欲しがったのかはわかりましたけど、親戚さんはどうしてですか? 聞いてもはぐらかされたんですけど」


 伊月いつき先輩の話が終わり、ほのぼのしているのかどきどきしているのかわからない気持ちで帰ることになったのだけど。その道中、謎のままだったことがふと頭に思い浮かび、なんとなく伊月先輩に尋ねた。

 私の問いを受けて、伊月先輩の表情が変わった。これ、なんと言ったらいいのだろう。苦笑に見えるんだけど、よくよく見てみると困っているような、複雑なものにも見える。

 もしかして触れちゃいけない話題だったのだろうか。また私やらかした? と思っていると、伊月先輩は口を開いた。


「……義孝よしたかは、いくつに見える?」

「外見は二十歳くらい……ですよね。でも本当は幕末の生まれで、伊月先輩のご先祖様と一緒にこの地域を出たって聞きました。……その、歳をとらないのを気味悪く思われたからって」

「あいつ、そんなことまで話したんだ……うん。あいつ、俺の先祖の義貞よしさだと一緒にこの地区を出たんだよ。それからは俺だけじゃなく俺の父も祖父も曾祖父も、皆小さい頃に一度はあいつの世話になってる。この地域のこととか、岩屋守の鬼の血を引く者としての心構えみたいなものとか、あやかしの対処の仕方とか、そういう知識を教えるのも含めてね。父も祖父も、あいつのことを頼りにしてたよ」


 それはそうだろう。何しろ、伝説が今よりもずっと色濃く残っていた時代のこの地域で生まれ育った人なのだ。奥宮の場所どころか、私が知らない賀茂かも家のならわしだって知っていてもおかしくはない。伊月先輩のお父さんたちも、小さいころから親しんできた物知りでいつ見ても若いご先祖様は、どんなことでも安心して任せられたんだろうなあ。


「義孝はね、しずかさんたちみたいな、半端者じゃない鬼になりたかったんだ。そのために、変若水おちみずが必要だったんだよ」


 やるせなさそうに伊月先輩は言った。


「鬼はあやかしの一種だし、普通の人間なら、現代に伝わる方法であやかしになればいいんだろうけどね。でも鬼ってあやかしの一種なのに、異界にいるっていう神と似たようなものでもあるらしくてさ。特に静さんとあきらさんは天手力雄命あめのたぢからおのみことの血を引いてるから、二人の血が濃い義孝は、あやかしになれない。なろうとしても、血が拒絶するんだ」


 かといって、人間や鬼が神の導きなしで神になれる方法は、現存するどの文献にも口伝にも伝えられていない。それでも特別な鬼の血混じりの人間としてこれからも生きることが嫌なら、先祖と同じ、完全な鬼となってあやかしたちと共に生きるしかない。

 日本に限らず、異界のものを体内に取り込むことで登場人物の身体が変質してしまったり、その世界の住人になってしまう神話や伝説が世界各地にある。それは本当のことだからだ。飲食や呼吸は、その世界や事物が持つ力やルールを身体に取り込むこと。そうして異界の生き物になってしまった人々がいるから、語られ、脚色され、今に語り継がれている。


「だから、異界へ行ってその空気を存分に吸うか、始祖が守る変若水を飲めばいいって義孝は考えたみたいだよ」


 伊邪那美命いざなみのみこと黄泉国よみのくにの食べ物を食べて、地上に帰れなくなってしまったようにね、と伊月先輩は私に説明した。


「親戚さんが鬼の大太刀を盗んだのは…………」

「俺と同じで、あいつも、奥宮を開けるには始祖が子供たちに与えた道具が必要だって考えたからみたいだよ。あいつの家には道具が伝わってなかったし、俺の家のは俺が持ってたから。でも開かなかったし、始祖たちに岩屋へ連れ行ってもらうこともできない。だから君に開けさせようとしたんだ。……俺が君にしようとしたようにね」

「……」

「……義孝は『完全な鬼になれば面倒なことがなくなって、もっと自由に生きられる』って言ってたけど、それだけが理由じゃないと思う。その他の理由がなんなのか、はっきりとはわからないけど。でも、あいつが本気で幕末から完全な鬼になりたがってるのは確かでさ。育ててもらってる恩があるし、あいつは百何十年も苦労しながら人の世で生きてるんだし……手伝ってやってもいいかなって思ったんだ。……その結果、俺はとんでもない馬鹿をやらかしたわけだけどね」


 そう伊月先輩は、後悔がにじむ声で私に打ち明けた。

 …………ああ、やっぱり、そういう感じの理由だったんだ。納得の声が、私の心の中に落ちた。

 だって、狭間の世界で親戚さんの身の上話を聞いたときから、彼がずっと苦労していただろうことは想像がついたもの。もちろんつらいことばかりじゃなくて、楽しいことだってたくさんあっただろうけど…………でも、私なんかじゃ想像もできない感情が心に溜まっていても、不思議じゃないよ。

 これから親戚さんはどうするのだろう。まだ鬼になりたいのかな。静さんは伊月先輩には一滴だけでも与えたから、それなら自分もってまた何かたくらむのかな。……でもまあ、大丈夫だよね。あの人ならやりかねないけど、そのときは静さんがおみ足でひと蹴りだろうし。私も、親戚さんにさらわれないよう気をつけたらいいよね…………できるかどうかわからないけど。

 それからしばらくのあいだ、私は黙って歩いた。伊月先輩が話してくれたたくさんのことを整理する時間が欲しかった。伊月先輩も考えたいことがあるのか、話せることはすべて話してしまったのか、口を開かない。緊張しているわけでも和んでいるわけでもない、不思議な空気の中で私たちは山の中を歩いた。

 途中で木々の枝葉が途切れ、深い山々に囲まれた地区の姿が見えてきた。

 豊かに実った黄金の稲穂や刈り取られた後の渇いた色に彩られた田んぼ、その合間に古民家が建ち、電柱が道路の端を飾る、古き良き日本の田舎そのものの景色。その少し向こうには四角い建物が並び、背景には青い山々が連なっている。

 けれどきっと、伊月先輩はそんな秋の景色を見ていない。向こうの山を越え、親戚さんや元カノさんのことを考えている。そう思うと、胸が痛くなった。

 ……嫌だな、伊月先輩が元カノさんのことを考えているのは。仕方がないことなんだけど、でも、もう義理は果たしたのに、起きたら犯人だって言うかもしれないのにって思ってしまう。先輩が、自分がしたことをさっぱり忘れてしまうような人なのも嫌だけど。私、我が儘だ。

 別れたって伊月先輩は言うけど、本当はまだ――――――――


「……賀茂さん? どうかした?」


 自分の嫌な部分を見つけてしまうどころか飛躍して私が落ち込んでいると、私の様子の変化を不思議に思ったのか、立ち止まった伊月先輩は眉をひそめて私を見下ろした。

 いけない、伊月先輩がいるの忘れてた。私は慌てて首を振った。


「いえ、なんでもないですよ。ただ、あの人も理由があって変若水を探してたんだなあって思って」

「まあね。でも、賀茂さんは俺と義孝にもっと怒っていいんだよ? 俺たちが自分勝手なせいで、君は本来なら関係ないことに巻き込まれたわけだし」


 私がごまかすと、伊月先輩は眉を下げて申し訳なさそうに言う。まあごまかすと言っても、理由があったんだなあと考えていたことは本当だけど。

 私はへらりと笑ってみせた。


「別にもう怒ってないですよ。親戚さんが伊月先輩を怪我させたのはひどいと思いますけど、私自身はこのとおり、なんともないですし」


 伊月先輩のことはもう許したし、親戚さんのことも怒れない。伊月先輩の怪我についても、先輩が親戚さんのことを怒っていないのなら、私がどうこう言うべきじゃない。お気に入りのロングカーディガンを駄目にされたことも、岩屋の前で抗議済みだし。……そりゃまあお気に入りだったから、ちょっとは未練あるけど。ほんとに弁償してもらおうかな。

 ともかく、私が二人に対して怒ることはもう何もないのだ。もしかしたら、二人が言う忠憲の業とかいうやつなのかもしれないけど。


「それより、静さんに謝るよう親戚さんに言っておいたほうがいいと思います。静さん、すごく怒ってましたし。まず岩屋へ勝手に入ろうとしたことを謝らないと、『夢硝子ゆめがらす』に入れないし鬼にもなれないと思いますよ」

「……確かに」


 私がわざと茶化して言うと、伊月先輩は小さく笑った。けれどその表情をすぐに崩し、まったく、と言う。


「…………君は優しすぎるよ」


 笑みを壊してその表情は、さっきの誓いとどこか似て、けれど何かが違っていた。この子はもう、とでも言いたそうな苦笑。優しい感情をこぼしている。

 私の心臓が、高鳴った。

 …………やめてください、伊月先輩。その顔、反則ですって。

 優しすぎるなんて、伊月先輩は私のことを買い被りすぎだ。喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう能天気だから、二人に対しても怒っていないだけ。先輩が他の女の人と話していたり考えていたら嫉妬するような、心の狭い女の子なのだから。

 それでも、伊月先輩の心がこうして私の言葉で軽くなるのなら、今の私のままでいいのかな。先輩の話を聞いて、思ったことを素直に伝える。それだけでいいのかな……?

 穏やかになった空気の中、けれどどきどきしながら歩いていると、やがて麓が見えてきた。私がこっちへ向かっているときから風が少し強くなっていたけど、空はまだ綺麗な色のまま。水色よりはやや濃い、どこか透明感のある色を背景に、薄い雲が漂っている。


「賀茂さんはどうする? このまま家に帰る?」

「はい。先輩は?」

「家に帰っても義孝にからかわれるだけだから、夕方まで商店街をぶらついて時間潰すよ。どうせ、あいつの分の夕食も買わないと駄目だし」


 と、伊月先輩は肩をすくめる。ああそういえば、親戚さんは先輩の家にいるんだっけ。


「じゃあ先輩。また明日」

「ああ。また明日、賀茂さん」


 家に向かう道へ数歩踏み出し、私が手を振ると伊月先輩は笑顔で振り返してくれる。今日の空と空気のような笑顔。私が好きな、いつもの伊月先輩の顔だ。

 明日になれば、いつものバイトの時間が戻ってくる。古臭い匂い、ページをめくる音、顔色を変えるお客さん、伊月先輩の怪力に店長のため息。あ、雪消ゆきげの登場も加えたほうがいいかな。来るかどうかはわからないけど。

 早く明日になればいいのに。そう強く思いすぎたからか、私の足は知らず、速くなっていた。

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