第35話 真を捧ぐ
私は、
一体何をどう考えていいのか、わからない。話に感情がついていけなかった。なのに胸は早鐘を打って、痛い。
だって…………伊月先輩が? 目の前にいるこの人が、盗みの共犯をしたり、元カノさんを意識不明の重体に? 嘘、そんなことするわけが…………。
でも、伊月先輩の横顔も、まとう空気も今話したことが嘘じゃないって訴えてくる。自分は犯罪者なんだって。ひどいことをしたんだって。
「その人は、今は……」
「……まだ意識が戻ってないはずだよ。鬼祭りの直前に容態が悪化して、一時はやばかったんだけどね。持ち直して以来、連絡を頼んでる奴が何も言ってきてない。だから、病院で眠ったままだと思う」
乾いた私の声に合わせるかのように、伊月先輩もまた淡々と答えた。けれど顔は少しも冷たくない。代わりに、知らない人みたいな濃い影がある。多分、後悔とか罪悪感とか、そういう色。
私はぐ、と拳を握った。
「そのことと、先輩が岩屋へ行こうとこっちへ引っ越しまでしたことは、どうして繋がってるんですか?」
「……俺は、岩屋にあるという泉の水――
長く重い息を吐き出し、伊月先輩は私にそう願いを打ち明けた。
変若水は、日本神話では、月を司る神である
そう、らしいという、あくまでも噂。静さんと店長がああして扉を閉ざし、誰も入れようとしないから、長い時を生きるあやかしのあいだですら眉唾ものの話がまことしやかに言い伝えられているだけなのだ。
それでも伊月先輩は、元カノさんを昏睡状態にしてしまったことを後悔し、そんなあるかどうかもわからないものに縋ろうとした。けど、同じく変若水を求める親戚さんには協力しなかった。また誰かを傷つけてしまうのが怖かったし、親戚さんに対して腹が立ったから。元カノさんのことを気にも留めず、まだ自分に片棒を担がせようとする親戚さんを許せず、伊月先輩は家出した。
そして、先祖の赤鬼が書店を営んでいるらしいという噂を聞いてこの地区へ足を運んで、私と出会って『
「始祖たちの許しがなくても、忠憲の力があればあの扉を開けることができるからね。でも、君がよそ者の俺と二人きりでこの地区にとって大事な奥宮まで行ってくれるとは思えなかったし、手荒なこともしたくなかった。
それが、俺の計画。そう伊月先輩は締めくくった。
私は、伊月先輩の話をただ呆然と聞いているしかなかった。
……そっか、だから伊月先輩、鬼祭りに行けないって電話してきたんだ。元カノさんの容態が悪化して、病院へ見舞いに行きたかったから。鬼祭りの日にあんな顔をしていたのも、まだ意識が回復しない元カノさんの見舞いをしたからで。
私に優しかったのも、その人を目覚めさせるために変若水が欲しかったからで…………。
忠憲の力がある人なら、私じゃなくてもよかったんだ。
事実に理解がようやく追いついた。その途端、理解と共に私の身体で少しずつ溜まっていた感情と熱は、一気に弾けそうになった。
怒りなのか悔しさなのか悲しみなのか、それともその全部なのかわかんない。でも多分、全部だと思う。ともかく、胸の奥から喉に向かって言葉と熱がこみ上げてくる。目も喉も胸も、どこもかしこもが熱を帯びる。
…………あ、やばい。泣きそう。瞬きしていないと、涙が落ちる。
駄目だよ私。こんなところで泣いちゃ駄目。こんなことで泣いてどうするの。先輩だって扱いに困るに決まっている。
そう自分に言い聞かせているのに、涙は勝手ににじむ。こんなのひどい、あんまりだって声が頭の中に響く。
やばい。流れちゃう――――
でも、涙は流れなかった。伊月先輩が、私の眦に溜まった涙を拭ってくれたから。
「……ごめん」
伊月先輩は私を見つめ、言った。
「謝って済む話じゃないけど……ほんとにごめん。こんな卑怯なことをしないで、奥宮へ一緒に行ってくれって、信じてもらえるかどうかは別にして、最初からちゃんと君に頼めばよかった。なのに、利用しておきながら後ろめたくて肝心なことを言いだせなくて、ずるずる先送りにして……
「静さんが?」
って、それやばいんじゃ。洞窟の壁に叩きつけられて気絶した親戚さんを思い出して私が青くなると、私が何を想像したのかわかったのか、伊月先輩は小さく笑った。
「大丈夫、殴られたり蹴られたりはしてないよ。ほんとに怒鳴られただけ。静さんは、忠憲のこととか関係なく君を気に入ってるんだと思う。もし君の力がきっかけになったとしても、それだけでさ。陽さんも、『静は可愛いものが好きだから』って言ってた。陽さんも、ちゃんと君自身を見てるんじゃないかな」
「……」
そうなの、かな。店長はいつもと変わらないし、『
でも…………今まで二人が私を見て、別のところを見ているようなこともなかったとは思う。今から思えば私が忠憲の生まれ変わりだとわかっていたからこそに違いない、静さんの謎めいた言葉も、きっと伊月先輩を好きな私に向けたものだっただろうし。……それに、忠憲の生まれ変わりとして二人が私を見ているなんて、信じたくないよ。
私は、木の上に置いている手をぎゅっと握った。
先輩が明かした真相は私にとってひどいもので、正直言ってまだ胸は痛いし、泣きたいし、伊月先輩に色々と言いたい気持ちもある。特に、伊月先輩が元カノさんのために、どんなことをしてでも変若水を手に入れようとした事実が一番きつい。そのための道具として、私は利用されそうになっていたってことでしょう? そんなのあんまりだよ。
でも、先輩が必死だったことは伝わってきた。それだけじゃなく、元カノさんを意識不明にしたこと、彼女のため私を利用しようとしたことを後悔しているのだとも。静さんが代わりに怒ってくれたことも。だから怒るにも怒れない。伊月先輩がこんなにも自分がしたことを悔いているのに、追い打ちなんてできない。
「……静さんは、変若水をくれたんですか?」
「一口分だけくれたよ。俺を助けてって言った君に免じてね。その量でどうにもならなかったら諦めろってさ。……それで昨日、病院に行ってきた」
「……」
「彼女の意識は戻らなかったよ。でもきっと、そのうちに効果が出てくると思う。鬼がかたくなに守り続ける異世界の水に効果がないなんてことは、ないはずだから」
どこか自分に言い聞かせるように、遠くを見て伊月先輩は言う。
私はその横顔を見つめ、強く唇を噛んで、喉までせり上がってきた言葉をもう一度胸の奥へとしまい込んだ。
言えるわけがない。もし元カノさんが目覚めたら、泥棒だって訴えられるかもしれないだなんて。それは元カノさんに対しても、伊月先輩に対してもひどすぎる。先輩だって、そうなるかもしれないことは理解しているはずだ。
……ああ、だから伊月先輩は中途半端にしか色々なことを知らされていない私に、何もかもを話そうとしたんだ。因果応報。自分がしたことの報いはいつかどこかで受けなければならないって、わかっているから。――――たとえそれが、自分の逮捕という結果だとしても。ううん、だからこそそうなる前に、私に話そうとしたんだ。
一つ深呼吸をして気持ちを落ちつけてから、私は伊月先輩、と名を呼んだ。
「……どうして、先輩は私が誘ったのに奥宮へ来なかったんですか。変若水を手に入れるチャンスだったのに」
「……!」
「それに、岩屋の前でも、親戚さんに協力すればよかったのに。怪我してまで私を守る必要はなかったじゃないですか。そもそも、私を騙して奥宮へ案内させるのは、先輩なら簡単なのに」
「……」
私の問いに、伊月先輩は目を見張った。
こんな質問をするなんて、嫌な女だと自分でも思う。伊月先輩が私に罪悪感を抱いているのを知っているくせに、意地が悪すぎでしょ。
でも私はこの一週間、ずっと伊月先輩に聞きたかった。静さんに会えるようになって、私は用無しだったからですかって。
ごめんなさい、伊月先輩。でも私、本当の先輩が知りたいんです――――――――
そう願う私は、伊月先輩の目にどう映っていたのだろう。一度唇を引き結んだ先輩は、意を決したように私を見つめた。さっきまでのどこか力ない様子は失せ、表情に、瞳に力強さが宿る。普段の先輩とも、岩屋の前で親戚さんと戦おうとしていたときとも違う眼差し。
あ、と思う間もなく私はその色に惹き込まれた。
「……俺は、自分の力のことも何も知らず、俺を信じて先輩だと慕ってくれる君を、もう俺の都合に巻き込みたくなかったんだ。静さんの許しがあれば、変若水を手に入れられる。君の力を借りずに済む。……君に、俺が鬼の血を引いてることも馬鹿をやらかしたことも知られずに済む」
「……」
「これからも‘オカルトと古いものが好きな優しい先輩’でいられるなら、殴られる覚悟で静さんに頭を下げるほうがいいって思ったんだ」
「……!」
「騙し続けるつもりだったのかって言われればそうとしか言いようがないし、言い訳はしない。でも、俺は君を傷つけたくなかった。君に話を聞いてもらえるのが嬉しいのも本当。…………その二つだけは信じてほしい」
最後まで私から目を逸らすことなく、伊月先輩は心の内をさらし、私に乞う。その真剣な声も表情も、言葉も、あっけないくらい簡単に私の心へ溶けた。代わりに、私の心の中にまだ残っていた怒りや疑いが霧散していく。
思い出すのは、セミナーハウスの裏でのどうかと祈るような言葉。『夢硝子』からの帰り道の、思わずといったふうで私を掴んだ手。狭間の世界での、私の無事を知ってほっとする顔。
残るのは、様々な痛みと失くせない想いだけ。――――本当に、本当に私は馬鹿だ。
私が忠憲の生まれ変わりだとしても、だからどうしたっていうの。私は私。賀茂梓だ。私の心が感じて決めたことは、誰かが決めたことじゃない。
私と伊月先輩が出会ったのは、伊月先輩が自棄になって近くにいる女の子に声をかけたから。私が親戚さんのことを怖がらないのは、私が能天気だから。
そして、私が伊月先輩のことを許すのは、利用されてもまだ好きだからだ。それだけの話。忠憲の業なんかじゃない。……ううん。それすら含めて、
「私、これからも先輩のこと、信じていいですか?」
まっすぐに彼を見つめ、願いを込めて問うと、伊月先輩は瞳を揺らし、顔をくしゃりとゆがめた。今にも泣きだしそうに、笑いだしそうに吐息を震わせる。
こくん、と大きく頷いた。
「…………ああ。君に信頼してもらえる男になれるよう、努力するよ。約束する」
そう言って、伊月先輩は私の両手をとった。まるで大切なものであるかのように、自分の誠意を伝えるためのように、私の両手を自分の胸に押し当てる。
私の思考は、そこで停止した。伊月先輩の目に映っているに違いない、真っ赤な顔を俯いて隠す。
だから、こんなのずるいですってば。好きな人にこんなことされて、こんな目で見つめられて、女の子が信じられないなんて言えるわけがないじゃないですか。
「……信じます」
どきどきしている胸に急かされるように、私はなんとかそれだけを伊月先輩に告げた。
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