第六章 語り告げること
第33話 理由を話そうか
奥宮へ行ってからのことをごまかすのは、簡単だった。
お供え物をして軽く見回るだけにしては結構な時間が流れていたはずなのだけど、奥宮の中――――この世と異界の狭間というのはこの世と違う時間の流れ方をしているらしく、この世では大した時間が流れていなかったのだ。どこかの少年漫画みたいな話だけど、ケータイの日付と時間がそうだったし、私が家に帰っても誰も驚いてなかったから、そうなのだと信じるしかなかった。
親戚さんとは、山で別れたことにしておいた。だって……ねえ。あれじゃそうするしかないよ。ありがたいことに、おばあちゃんたちはあっさり納得してくれたから特に問題はなかった。変な方向に話が進むこともなかったし。拍子抜けしたくらいだ。
取り返した鬼の大太刀はその日の夜に、店長がこっそり郷土資料館へ返した。あの熊みたいな図体でどうやって、なんてつっこみは鬼だからの一言で完全クリアだからいいんだけど、『うちの馬鹿がやらかしてすまなかった』って律儀にも謝罪の手紙を添えていたものだから、二日もしないうちに地域新聞に記事が載ってしまっていた。そりゃそうだよね、普通、そんなことをする犯人一味なんていないもの。私がそう感想を言ったときの、店長の憮然とした顔がなんだか可愛いと思ってしまったのは秘密だ。きっと
そんな感じで無事に隠蔽工作は成功し、私は月曜からまた学校とバイトに勤しむ日々が始まったのだけど、
そして、いつもなら伊月先輩と一緒にいられる日も一人でバイトをこなして約一週間後。放課後になるのを待って、私はバイトの休みを学校や商店街で満喫せず、山へ向かった。
「伊月先輩」
奥宮へ行くときに使う古い峠道の入り口で待ってくれている人を見つけて呼びかけると、切り株に腰かけて文庫本を読んでいた伊月先輩は顔を上げた。
本を閉じ、近づいていく私を見て少し目を見張り、微笑む。
「来てくれたんだ」
「……怪我、大丈夫なんですか?」
「ああ。まだ完全に復調というわけじゃないけどね。明日からはバイトへ行くよ」
「そうですか……無理、しないでくださいね」
私はたどたどしく、そう願うように言う。伊月先輩はわかってる、と柔らかな声で頷いた。
あのおかしな世界で見た、伊月先輩の真っ赤に染まった上着が忘れられない。綺麗な空色だったのに、血の色がどんどん広がっていったのだもの。扉の前にいたときよりはふらつかなくなった視界にそれが映ったとき、私は自分の血がどこかへ引いていく音を聞いたような気さえした。手足がじんと冷え、痺れて。私以上どころではない苦痛があるはずなのに、親戚さんに立ち向かおうとする真っ赤な背中が怖かった。
「それと……親戚さんは…………」
「あいつはぴんぴんしてるよ。先祖返りで、無駄に頑丈だから。いくら遠い親族と言ってもあれで『
「あはは……」
うわあ、想像するだに苛々する生活だよ。学校が終わったらすぐ買い物して家に帰ってたってことは、夕方からはずっとあのいじめっ子気質な人と二人だったわけでしょ。買い物くらいは代わりにしてあげたほうがいいかもと思っていたけど、やらなくてよかったのかもしれない。
そんな嫌な人がどうして自分が泊まっていた旅館『鬼灯』じゃなく、伊月先輩の家で療養しているかといえば、静さんのおみ足のせいだ。
狭間の世界で、親戚さんが伊月先輩の怪我を治した後。ところで坊や、と静さんは親戚さんに向け、とてもとても綺麗な顔で笑った。でも私は背筋が凍った。ものすっごく綺麗だったからっていうのもあると思うけど、予感で。
立ち上がった親戚さんも、それを察知していたとは思う。顔がなんだか硬かったし。でも逆らえるわけがなく、静さんに向き直った。
そして一秒後、親戚さんの姿はいくつもの音を引き連れて、私の視界から消えていた。さらに数秒後には、岩壁に何かがぶつかって落ちる音。
『……少し、やりすぎじゃないか』
『どこがやりすぎなもんかい。梓をさらったことは、当の
『……』
鬼の夫婦のそんな会話が頭上で交わされていたと思うのだけど、私は内容をろくに理解することができなかった。多分、伊月先輩も同じだったと思う。
なんで静さんの浴衣の裾が乱れて、真っ白なおみ足が覗いているんでしょうか。私はその疑問を静さんにも店長にもぶつけることができず、岩壁のそばでぴくりとも動かない親戚さんを呆然と見ているしかなかった。
そうして骨折して気絶し、店長に伊月先輩の自宅まで運ばれた親戚さんは、部屋の主を苛つかせながら気儘な療養生活をしているというわけだ。
……今更だけど私、ものすごく無謀なことしてない? 静さんに邪魔入れたよね? あの鬼伝説は半分くらいでたらめだって静さんは笑っていたけど、山の鬼は怖いというところは本当だよこれ。
それにしても……頭にくると口では言っていても、伊月先輩、親戚さんに対して全然怒ってないんだよね。なんというか、仕方ないよなあいつ、って感じ。背中を斬られてかなり痛い思いをしたはずなのに。それがなんだかとても不思議だし、同時に当然だとも思う。
「じゃあ、行こう。山の中なら、誰にも聞かれないから」
「はい」
本を鞄にしまい立ち上がった伊月先輩に促され、私は頷く。ゆっくりと歩きだした先輩の後をついて行った。
私がここへ来たのは、最後の授業が終わって間もない頃に、話がしたいと伊月先輩からメールが届いたからだ。
『奥宮へ続く古い峠道で待ってる、嫌なら来なくていいから』
二つの文だけで構成された、実に淡々としたメールだった。電話で言ってくれればいいのに、わざわざこんな、私がいつ気づくかどうかわからない方法だなんて。大した用事じゃないのかなって、メールを読んだときは一瞬思った。
でもそんなことを思ったそばから、私は放課後に峠道へ行くことしか考えてなかった。続いて思い浮かんだのは、峠道の麓で私を待つ伊月先輩の姿。……行くことしか考えられない自分が、なんだか馬鹿みたいだと少しだけ笑えた。
伊月先輩は峠道を少し歩いてから外れると、木立の中に転がる古木に腰を下ろした。私も少しだけ距離を置いて、隣に座る。
辺りはとても静かで、私が橋から落ちたときのように鳥の声もない。もちろん、人の気配なんてこれっぽっちもない。今どき古い峠道を歩くのは、物好きな観光客か登山好きな人くらいのものなのだから当然だけど。誰にも聞かれたくない話をするにはぴったりだ。
「それで、先輩。話って……」
「…………俺がどうして君を利用しようとしたのか、話そうと思って」
「……!」
数拍の躊躇いの後、一思いにといったふうに伊月先輩は切りだす。胸に走った貫くような痛みに、私は息を飲んで手をぎゅっと握った。
言葉は凶器だとよく言うけど、本当だ。最初に受けた衝撃ほどじゃないけど、それでも改めて言葉にされるときつい。勘違いじゃないって、逃げ道を目の前で封鎖されるみたいだから。私はもう、現実と向き合うしかなくなってしまった。
私の顔が硬くなったからか、伊月先輩は顔をゆがめた。
「無理に聞かなくてもいいよ。俺が楽になりたいだけだから。ごめん、俺の自己満足に付き合わせようとして」
「いえ、聞きます。私も……なんで伊月先輩がそんなことをしたのか、聞きたいですから」
ゆっくりと首を振り、私はそう、髪を掻き上げ後悔する伊月先輩に言った。
だってそうしないと、納得できない。この一週間、学校で
きっと私が知らなくてもいい話だし、聞くのが怖い。でも聞かなきゃ私、伊月先輩にこれからどんな顔をしていればいいのかわからないままだ。胸に抱えたもやもやを抱えて、先輩後輩の関係でいるだけになってしまう。そんなの嫌。
……ああ私、本当に伊月先輩が好きなんだ。また自覚して、なんだか笑いたい気分になってくる。本当に私、馬鹿だ。
私が本気で聞く気なんだってわかったのか、伊月先輩は少し目を見張った。瞳を揺らし、それから目を伏せる。――――まるで、観念したとでもいうように。
そうして伊月先輩は話し始めた。
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