第32話 声・二
そのときだった。
「――――俺の太刀で何を遊んでいる」
俺の背後からそんな、無愛想な声が聞こえた直後。俺の隣に疾風が生まれた。
風をまとった巨体はすぐ、
赤の始祖を前にして、義孝が浮かべた上っ面だけの笑みは、さすがに緊張の色が濃かった。
「申し訳ありません。俺の家には、青の始祖から授かった小太刀がなかったものですから」
「御託はいい。返せ」
「返しますよ。そいつに岩屋への扉を開かせてからですが」
「……」
義孝がうそぶくと、
先に動いたのは、義孝だった。俊足で陽さんへ迫り、大太刀が陽さんに届かない距離で振るう。
だが、義孝が大太刀を振るうよりも早く、陽さんは動いていた。巨体にそぐわない速度で義孝の前、大太刀の切っ先が届くだろうところまで一気に距離を詰める。
そして風が生まれるより前に、陽さんは大太刀を片手で掴んだ。
「陽さん!」
思わず俺は声をあげたのだが、心配はまったくの無用だった。
何故なら、大太刀を握りしめる陽さんの大きな手から、一滴も血が流れていないのだ。太い腕は小揺るぎもしていない。義孝のほうこそ、力を込めるあまりに顔がゆがみ、身体が小刻みに震えている。
「返してもらうぞ」
言うや、陽さんは空いているほうの手で、義孝の手首の裏を鋭く突いた。一見軽いように見えるけど、実際は相当な衝撃があるのだろう。義孝の大太刀を握る力が弱くなった隙に、陽さんは力ずくで大太刀を奪った。
「くっ……」
義孝は手首を抑え、後ろへ跳んで陽さんから距離をとった。当然だ。陽さんは伝説に登場する赤鬼。大太刀の真の所有者なのだ。たとえ先祖返りでも、勝てる相手ではない。
「店長……?」
「……店を閉める段取りに手間取って、遅くなった」
俺の足元で呆然とした声があがると、陽さんは義孝がいるというのに俺たちのほうを振り返り、そんな弁明をした。それから俺に視線を向ける。
「つらいなら、座ってろ。どうせもう来る」
「来るって……」
もしかして、と俺が言いかけた途端。――――――――空気が変わり、俺は絶句した。
義孝が生み出した威圧感を駆逐して、異様な気配が辺りに漂った。
振り返りたくない。そう思うのに気づけば俺は、背後から聞こえてくる足音の主を確かめるために振り返ってしまっていた。
参道の向こうから、
肌もまた太陽を知らないかのように白く、それら以外の色彩は、唇の真紅だけ。さらには表情までもが冷たく、氷でできた人形のよう。彼女を見ているだけで、自分が凍りついてしまいそうだ。
気が抜けた俺は、その場に座り込んだ。詰めていた息を、腹の中が空っぽになるくらい吐き出す。
「先輩、怪我は……!」
「平気……とはさすがに言えないけど、まあなんとか。俺、鬼の血のおかげで、普通の人より少しは頑丈だから。
「私は平気です。先輩がさっきのおまじないをしてくれたから……」
緩々と首を振り、泣く寸前の顔で賀茂さんは言う。言葉のとおり、真っ青だった彼女の顔色は赤みが差していて健康そうだ。
どうかこの喧嘩から彼女を守ってください、と強く願って唱えたおかげだろうか。何より今、彼女は俺を見てくれている。予想外の効果にこそ、俺はどこにいるのかわからない神に心底感謝したくなった。
俺たちが気を緩ませているあいだに、
「梓、すまないねえ、うちの馬鹿どもに付き合わせてしまって。でももう大丈夫だよ。すぐ終わらせるから」
「終わらせる……?」
急転した事態に頭がついていけていないのか、青の始祖がまとう空気に呑まれてしまったのか、賀茂さんは不安そうに繰り返した。それに頭を撫でることで応え、青の始祖は立ち上がる。
緩みかけていた空気は、そうして再び硬直した。
「……まったく、梓をさらって岩屋に入ろうとするとはね。どうしてこうもろくでなしに育ってるのかね、あたしと陽の末裔どもは」
怒りに凍える声が、人の世と異界の狭間の世界に響いた。張り上げたものではないけれど、空気に怒りを溶かし込んでいく。――――世界が、青の始祖になる。
俺の心臓が、畏怖に震えた。
これが、神の血を引く鬼。日本中のあやかしにおそれられる女鬼の本性にして、実力。
「鬼の宝に手を出そうとした報い、覚悟してるだろうね?」
極寒の眼差しと声が義孝に投げられる。言葉のとおりに覚悟しているのか、それとも言葉を返すことを諦めているのか。義孝は何も言わない。静かな表情で構えることを答えにする。
――――――――殺される。
俺の頭の中を、雷のような何かが駆け抜けた。立ち上がる際、背中に激痛が走ったけど無視する。
痛みになんか構っていられない。義孝を助けないと――――――――
けれど。
「やめて!」
憤怒に満ちた世界に、震える声が沁み落ちた。ぴちゃん、と水滴が滴り落ちる幻聴が俺の耳に響く。
「静さん、やめてください!」
賀茂さんがもう一度懇願すると、怒れる女鬼は振り返って足元を見下ろし、目を眇めた。
「……この馬鹿は、あんたをさらったんだよ?」
「私はそんなこと、どうでもいいんです! それより、先輩が怪我してるんです。助けてください!」
賀茂さんはそう、女鬼の着物の袖を掴んだ。
「静さんが伝説の鬼だっていうなら怪我を治したりできないんですか? そういう術とか、道具とかで。早くしないと先輩が……!」
お願いします、と賀茂さんは繰り返した。
長い沈黙の後、青の始祖がため息をつくと共に、岩屋の空気から怒りがゆっくりと消えていった。義孝や陽さんが放っていた威圧感も失せ、ただ冷えた洞窟のものになる。それは俺がここへ来たときのものなのだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「…………俺が治す」
空気さえも静まりかえる中、構えを解いた義孝がぽつりと言った。はあ、と小さな息をつく。
「止血の術くらいは知ってる。大体、司だって鬼の血を引いてるんだ。俺も加減はしてやったんだから、その程度で死ぬか」
「そんなの知りませんよ! 人間は怪我したら痛いし、血が流れすぎたら死ぬんです! 治せるなら早く治してあげてください!」
「……だから、司は死なないと言ってるだろうが」
賀茂さんが眉を吊り上げ噛みつくように言い返すと、義孝はうるさそうに顔をしかめた。両腕を組んだ青の始祖にさっさとおし、と圧力をかけられ、肩をすくめる。
……こいつ、やっぱり手加減してやがったんだ。だからこうして俺は平気なふりをしていられるわけだけど、それはそれで腹が立つ。
最近は軽くしか武芸や術の稽古をしてなかったけど、また真面目にやろう。せめて、俺一人でも義孝の顔を一発くらい殴れるようになりたい。
義孝がこちらへ来るまでに俺がそんな決意を固めていると、司、と陽さんが俺を呼んだ。
「……もう、くだらん策を考えるのはやめろ」
「…………はい」
静かな声で諭され、俺は静かに目を閉じた。
賀茂さんの好意を得る計画なんて、最初から必要なかったのだ。賀茂さんは俺のことをただの先輩だと思っていた頃から、俺の話をちゃんと聞いてくれていたのだから。自分が傷つけられたことより、自分を傷つけた俺の傷を気にかけるような子なのだから。
本当のことを話せなくても、彼女の歓心を買うような真似をする必要はなかった。――――するべきではなかった。
どうして俺はいつも、気づくのが遅いのだろう。
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