第31話 声・一
見つめた瞳が大きく揺れ、泣いてしまうと俺が動揺した直後。
「賀茂さん!?」
慌てて腕を伸ばし、抱き留める。覗き込んだ顔色の悪さに、俺は血の気が引く思いがした。
賀茂さんの顔色がこんなにも悪くなっているのは、扉の隙間から流れ込む異界の空気のせいだけじゃないだろう。目をきつく瞑っているのも。俺が打ち明けた事実が、彼女を打ちのめしたに決まっている。
『そうやってあんたは自分の目的のために、何も知らない、ただの人間の娘でしかないあの子の情をもてあそんだ。あたしは、それが許せないんだよ』
山中の橋での事故以来、賀茂さんから向けられていた感情の色が変わったことには、気づいていた。自慢じゃないけどこの外見と人付き合いの良さで、恋愛感情を向けられることは少なくなかったから。バイト中に向けてくる視線、鬼祭りへの誘い、郷土資料館への案内の申し出、時々見せる表情と仕草。最初は勘違いかと思ったけど、何度も重ねられれば勘がそうだと俺に告げた。血の故郷に戻って来てから思いついた、始祖の協力を得られなかった場合の強硬策――――賀茂さんの好意を得て、彼女にあやしまれることなく奥宮へ連れて行ってもらう計画がきわめて順調に進んでいることは、肌身に感じられた。
俺の頭上で
仕方ないんだという自己弁護に、ふざけるなと言わんばかりに鋭い痛みが俺の胸を貫いた。きつく唇を噛み、片方の拳を握りしめる。
何が仕方ない、だ。賀茂さんは‘オカルトと古いものが好きな優しい先輩’の俺を信じ、好意を抱いてくれていたのに、俺は彼女を利用することばかり考えていたじゃないか。こんな善良な、年下の女の子を。自分が背負う業なんて今日このときまで何も知らずにいた、普通の女の子を。仕方ないなんて言葉で済ませていい仕打ちじゃない。
ごめん、父さん、祖父さん。人をむやみに傷つけるなって言いつけ、破って。
苦痛から逃れるためなのか、浅くゆっくりした呼吸を繰り返す賀茂さんを俺は抱え上げた。そこに、大太刀を肩に乗せた
俺が事実を語るきっかけを投げつけてきた男は、いつものように嫌な笑みを浮かべた。
「どうやらその女に嫌われたらしいな? 司」
「……義孝、そこをどいてくれ」
「わかった、と俺が言うと思うか?」
湧きたつ感情を抑えての俺の懇願を、義孝は一蹴した。そうだろう、ここで引いてくれるなんて俺は少しも考えていない。どうすればこの男を出し抜けるかと思考を巡らせるための、見苦しい時間稼ぎにすぎない。
「
「っだから嫌だって言ってるだろ!」
叫んで、俺は義孝に向かって駆けだした。
「っの馬鹿が!」
その言葉と共に大太刀が俺に向けて突き出される寸前、俺は足に思いきり力を込めて石畳を蹴った。
跳躍は、間一髪で大太刀から逃れた。大太刀どころか義孝の頭上を越えて長い浮遊感が続き、ほんの少しだけ離れたところに着地する。そのまま振り返らず、全力で駆ける。
「走り人その行く先は真の闇、後へ戻れよ、アビラウケン!」
一つ手が打ち鳴らされ、後戻りの呪が放たれる。しかし直後、激しい電流が走るような音と光が俺の周囲を包んだ。
さっきの風に続いて、山で唱えた呪文が効果を発揮したのだ。だが、これで呪文の効果が消えてしまった。あとはひたすら逃げるしかない。
情けない話だけど、逃げることしか俺は思いつかなかった。術も武芸も義孝に叩き込まれたけど、俺は今まで一度も義孝に勝てたことがない。戦場を含めたたくさんの修羅場をくぐった経験の差は圧倒的で、義孝が本気にならなくても勝負はついていた。その記憶と賀茂さんの存在を考慮すれば、まともに戦うのは愚策としか思えなかった。
もっと鬼の血が濃ければよかった。俺がもっと、義孝と互角に戦えるくらい強かったなら。義孝のように、あやかしの人脈があったなら。そうだったらきっと、賀茂さんをこんなことに巻き込まずに済んだのだ。
義孝も昔、同じようなことを思ったのだろうか――――――――
今は敵である男に俺が思いを馳せた――――馳せてしまったそのとき。
――――――――!
風が吹き抜けると同時に、背中に熱い痛みが走った。叩きつけられた衝撃に足がもつれ、走れなくなる。
とっさに賀茂さんを強く抱きしめ、庇う。頭と肩にまず衝撃があって、息が詰まった。
背中が焼けるように熱く、激しい痛みが俺を襲った。そして背中を液体が這う感触。そこから力が滴り落ちていくようだ。痛いという言葉が頭の中にあふれていく。
「先輩……?」
「賀茂さん……ごめん、大丈夫?」
小さな声が俺を呼ぶ。俺はなんとか身体を起こし、それに応えた。
「先輩、怪我したんですか?」
「俺のことは気にしなくていい。……ちゃんと家に連れて帰るから」
そう、無理に微笑んで俺は頭を撫でる。そうだ、早くこの子を連れて帰らないと。彼女のことを、家族の人が待っている。
石畳を歩く音がして、俺はそちらを向いた。義孝は、理解しがたいといった顔で俺を見下ろす。
「……司、何故その女を庇う。何も殺すわけじゃないんだ、そこまでして守る必要はないだろう」
「俺たちのことに、賀茂さんは関係ないだろ。忠憲の力を継いでいようと、彼女は普通の人間として生きてるんだ。俺たちは、彼女を巻きこむべきじゃなかった」
今までさんざん利用しようとしておいて、どの口が言うのかと哂う声が心の中に木霊する。ああ、本当にそうだ。善人になるには遅すぎる。
大人しく従えば、義孝は賀茂さんを殺さないだろう。岩屋守の鬼の血が、それを許さないはずだから。でもそんなことは関係ない。俺がもう彼女を利用したくないし、彼女が利用されるのを見ていたくないだけだ。
「先輩、背中……!」
身体を起こした賀茂さんが悲鳴のような声をあげた。ただでさえ悪かった顔色は一層悪くなって、いっそ白くなっている。これだけあの扉から離れているのだから、異界の空気を浴びているせいではないだろう。
「ごめん、賀茂さん。ちょっとあの馬鹿と喧嘩してくる」
「先輩……!」
制止の声をあげる賀茂さんに魔除けの短い呪文をかけ、俺はゆっくりと立ち上がった。意識して足に力を込め、呼吸を整える。
「義孝。お前こそ、なんでそうも岩屋へ行きたがるんだよ。行きたきゃ行けばいいし、この程度は許してやるけどさ。けど、岩屋へ行くことは、無関係な人を巻き込んででもやりたいことなのかよ」
「…………お前にはやはり、わからないようだな」
「ああ、わからないな。わかりたくもない」
瞳を揺らし、呻くような低い声で言う義孝に、俺はそう吐き捨てた。
ほんの数ヶ月前まではわかっていたつもりだったし、納得もしていた。実を言えば今でも、仕方ないよなって思ったりしている。不老を知られないよう、義孝が出会いと別れを繰り返す日々を過ごしてきたことは容易に想像がつくし、あやかしの存在を知る一部の人間とかに身を狙われていたことは知っているから。この俺様男に別れや人間の愚かさで絶望するような繊細さがあるとは思えないけれど、だからと言って何も感じていなかったとも思えない。
だけどもう、理解はしても納得はできない。仕方ないなんて思えない。
義孝の目がきつく閉じられ、次に目を開けたとき、あいつの顔は別のものになっていた。冷たくさえない、稽古のときとも違う淡々とした面。それでいて威圧感は生半可なものではなく、俺の心を震わせる。
「邪魔をするなら……司、お前だろうと容赦しないぞ」
「すでにしてないだろ。あとで俺の分の服も弁償しろよ」
大太刀を肩に乗せて構える義孝に軽口で応え、俺も構える。……義孝、きっと手加減してくれないだろうな。異界へ行くんだってずっと言い続けていたし。
勝てる気はしないけど、もう逃げられないのだ。腹をくくるしかない。
せめて五分、いや三分だけでも昏倒させることができれば――――――――
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