第30話 特別の意味

 壁に縫い止められた私を見た伊月いつき先輩は、眉を吊り上げた。


義孝よしたか! お前……!」

「安心しろ。怪我は一つもさせてない。だが、あの短刀は俺とあやかしが術をかけた特殊な代物だからな。俺以外の奴が下手に抜こうとすれば、いくら忠憲の業と力を継いでいても、手のひらくらいは怪我するかもな」


 ちょ、それ、マジですか。私は顔を引きつらせ、短刀を握りかけていた手を引っ込めた。さすがにそれは嫌だよ。


「それにしても、八咫烏やたがらすに導いてもらったとはな。お前、昔から動物に嫌われてただろう」

「俺以上に嫌われてるお前に言われたくない」


 楽しそうな親戚さんの言葉を、伊月先輩は躊躇いなくぶった切った。


「お前が大太刀を盗んだことも、賀茂さんをさらったことも、始祖たちにもう知られてるぞ。特に青の始祖は、賀茂かもさんがさらわれたことを本気で怒ってるからな。今のうちに賀茂さんを解放したほうが、まだ殺されずに済むかもな」

「へえ、始祖たちが。それはおそろしいだろうなあ」


 伊月先輩が降伏を促すが、親戚さんはそんなことをうそぶいてまるで他人事のよう。少しも怖がっているようには見えない。まるで、昼休憩で大して怖くない話を聞いた男子生徒だ。

 それよりも……始祖『たち』って。

 私は不意に、しずかさんと店長が思い浮かんだ。

 伊月先輩と親戚さんは伝説の鬼の末裔で、その伝説の鬼は夫婦。伊月先輩と親戚さんは、私に『夢硝子ゆめがらす』へ案内させようとしていた。

 それに…………ああそうだ。店長も、春にお店の前で初めて会ったとき、私の顔を見てとても驚いていたんだ。――――親戚さんみたいに。

 店長が私の顔を見て驚いたのは、私が雪消ゆきげを肩に止まらせていたからじゃなくて――――――――

 私が静さんに抱きしめられて何故か懐かしさみたいなものを感じたのも、人肌のぬくもりのせいじゃなくて――――――――


「……伊月先輩。始祖って、静さんと店長のことですか?」

「……!」


 私が問うと、伊月先輩は目を見開き息を飲んだ。しまった、とか、知っているのか、といったふうの驚きが見える。

 その顔に、次には怒りが混じった。


「義孝、お前、話したのか!?」

「ああ。こいつが忠憲ただのりの生まれ変わりだってことも、俺とお前が岩屋守の鬼の血を引いてることもな。だが始祖とのつながりのことは話してないぞ。そこまで馬鹿じゃないらしい」


 何が悪い、とでも言いたそうに親戚さんは肩をすくめた。そんなことより、と話を変える。


「お前も来たならちょうどいい。つかさ、さっさとこの女を使って中へ入るぞ」

「冗談じゃない。賀茂さんを放せ」


 伊月先輩は間髪入れず拒否する。肩に止まる雪消も構えて色めき立つ。

 すると、親戚さんは目を眇めた。


「……お前、本気で言ってるのか?」

「決まってるだろ!」


 ちょっ嘘!?

 私は絶句した。なんと、伊月先輩は不敵に笑うや、大太刀を持っている親戚さんに向かって走りだしたのだ。伊月先輩、何考えているの!?

 親戚さんが大太刀を薙ぐと、強い風が生まれて伊月先輩と雪消に襲いかかった。彼らがそれに行く手を阻まれているあいだに、親戚さんは私を縫い止めていた短刀を素早く抜き取って私の手を掴む。


「ちょ、何を」


 私の問いには答えず、親戚さんは私の手を自分の手で包んだ。そして無理やり、社の扉に押し当てる。

 きぃん、と強い耳鳴りと立ちくらみがした。視界が白く燃え上がって、何も見えなくなる。音も遠ざかり、耳鳴りの音だけが聞こえる。

 ぎいいいいいい…………――――――――

 現実から遠のいていた五感は、扉が開くその音で元に戻った。真っ白になっていた私の視界に、親戚さんの手に包まれた私の手に押されて開いていく扉と、その隙間から覗く向こう側の景色が映る。

 雲ひとつない青空や連なる青い山々、眼下の雲海。その一点から色とりどりの濃霧が絶え間なく生まれては四散し、七色のきらめきとなって宙を漂っている。

 そんな空には見たこともない姿をした鮮紅や浅葱、土色の魚が泳いでいて、その代わりであるかのように、扉の眼前を流れる小川からは瑠璃色や黄土色、苔色の鳥が飛び出してくる。茂る草木は普通の緑の数々だ。新緑や千歳緑、若草、木賊、萌黄。いくつもの色合いで、大地を彩っている。

 でも、私が扉の向こうをこっちとは違う世界なのだと確信したのは、そんなありえない景色だったからじゃない。

 だってほら、こんなにも冷たくて怖い空気が漂ってきている。真冬の肌が痛むくらいの寒さに、誰かが本気で怒っているときの空気を加えたみたい。逃げなきゃって身体が叫んでいる。吸えば吸うほど頭がまたぼうっとしていて、身体も重くなってくる。こんなの、今まで感じたことないよ。


「はっ離してください……!」


 親戚さんを振り仰ぎ、私は全力で彼に抗った。もちろんそんなのが通用するわけがなく、私の手は彼の力によって、さらに扉を押すことになってしまう。扉が開いていき、冷たく異質な空気がどんどん辺りに満ちていく。

 駄目、これ吸ったら――――――――

 かあ

 私の意識が遠のきかけたそのとき、澄みきった烏の声が聞こえた。その途端、私の意識ははっきりする。白木の扉が視界に映る。

 でも振り返って、風から逃れた雪消が頭上から親戚さんに襲撃をかけているのを見て、血の気が引いた。親戚さんは舌打ちすると私を壁に押し付け、大太刀で雪消の嘴や爪を防ぐ。


「雪消、駄目! 怪我しちゃう……!」


 親戚さんの後ろから私は声をあげた。が、雪消は親戚さんへの執拗な攻撃をやめないのだ。黒い刀身では防ぎきれなかった傷が、親戚さんの顔や手の甲に増えていく。

 それが鬱陶しくなったのか、雪消が一度上空へ飛び上がったのを狙って親戚さんは大太刀を振るった。風が吹き荒れる。

 それに一拍遅れるか遅れないか。気配を一切断っていた伊月先輩が、突然親戚さんの前に姿を現した。ぎょっとした親戚さんが構えようとしても、遅い。

 伊月先輩は親戚さんの懐に飛び込み――――思いきり殴り飛ばした。

 木の葉のように、と人が吹き飛ばされている様子を形容したりするけど、まさしくそれだった。親戚さんの身体は、一度テレビで見た大晦日のボクシングどころじゃなく、五メートルは確実に吹き飛ぶ。

 うわー、人間ってこんなに飛ぶんだー……いや、ちょっとだけ人間じゃないらしいけど。


「賀茂さん! 大丈夫!? 怪我してない!?」

「は、はい」


 親戚さんのことを見もせず振り返る伊月先輩に肩を抱かれ、呆然としていた私はこくこくと頷いた。ほっと息をついた先輩の安堵した顔は、セミナーハウスで似たようなやりとりしたときよりもその色が濃い。

 伊月先輩には強がってみたけど、実のところ、私の身体のだるさは増すばかりで、いよいよ目眩もするようになってきていた。足元がぐらぐらしていて、まるで不安定なボールの上に乗っているみたい。意識しなくても、呼吸は深くゆっくりしたものになる。……これ、まずいよね絶対。

 早く、扉を閉じないと。でないと私、きっともたない。


「――――お前、思いっきり殴りやがったな…………」


 そんな恨み言が聞こえ、はっとして伊月先輩の後ろを見てみれば、こちらへ歩いてくる親戚さんが血を吐き捨てていた。驚くべきことに、殴られた頬は赤くなっていたものの、親戚さんが堪えた様子はまるでない。あんなに飛んでいたというのに、どれだけ丈夫なの。


「人を殴っていいのか、司。人をむやみに傷つけるな、って正俊まさとしとおるに戒められてたんじゃなかったか?」

「お前に心配してもらうようなことじゃない。賀茂さんを助けるのに必要なことだし」


 と伊月先輩は私を背に庇うようにして、親戚さんを睨みつける。伊月先輩の肩に乗る雪消も同じだ。


「もう諦めろよ、義孝。賀茂さんをさらったお前を、始祖たちが許すわけがない。その大太刀も、郷土資料館に返せよ。お前なら簡単なことだろ?」

「ここまで来て、諦められるか。お前こそ、諦めるのか? 始祖に会えたようだが、お前だって始祖に嫌われてるんじゃないのか?」


 何しろ、と親戚さんは口の端を上げた。とても嫌なふうに。

 ともかく今のうちに扉を、と身を翻しかけた私は、視界の端に見えたその笑みに嫌な予感がして、思わず動きを止めてしまった。


「その女を利用しようとしたのは、お前も同じなんだから」

「……………………え?」


 利用? 伊月先輩が、私を?

 私が振り返ったからか、親戚さんはいっそ優しい声で続けた。


「俺があんたと青の始祖の繋がりに気づいたのは、あんたが挿してた簪が、司の家に代々伝わる簪に似ていたからだ。それに、さっき話した業のせいなのかはわからんが、あんたを見た瞬間にひっかかるものがあった。懐かしいってな。岩屋守の鬼から受け継いだ血のせいだと考えれば、説明がつく」

「……」

「だったら、わずかでも鬼の血を継ぐ司も、あんたの血と業に薄々気づいていたはずだ。どうせあのデートも、青の始祖のところへ案内させてる途中だったんじゃないのか?」

「……」


 言い当てられ、私は言葉を失くした。

 鬼祭りの夜、私の簪に気づいた伊月先輩は、どこで買ったのかと気にしていた。デートの後も、『夢硝子』へ行こうと言いだしたのは先輩だ。セミナーハウスの裏では、私が親戚さんに『夢硝子』への行き方を教えなかったのだと知って、安心して。

 ――――全部、私が忠憲の力を受け継いでいて、静さんの簪を持っていたから? ここへ来るために必要だったから?

 ――――いつもオカルト話を聞いてくれて嬉しかったってあの言葉は、嘘なの?

 ――――何も知らなくていいっていうのは…………。

 なにそれ。

 私は目を見開いて、半身を私に向け、表情を強張らせた伊月先輩を見つめた。


「…………先輩、ほんとなんですか…………?」


 言葉をこぼした声は、喉と同じでからからに渇いていた。鼓動がひどくうるさくて、耳に直接張りついているみたいだ。ただただ、胸が痛くて苦しい。

 私は、伊月先輩が嘘だと言ってくれるのを待った。なのに、先輩は何も言ってくれない。瞳を揺らし、両の拳を握りしめて私を見つめるばかりだ。

 じゃあ、じゃあ――――――――


「…………君が忠憲の力を受け継いでいるかどうかは、君が『茨木書店』へ俺を連れて行ってくれるまでわからなかったよ。それは本当だ」


 喉の奥から絞り出すように、何も言えないのを無理に吐き出すように、伊月先輩は小さな声で言う。

 さっきから止まない目眩がひどくなった。靴でしっかり踏みしめているはずの石畳にひびが入り、砕ける幻聴が聞こえた。

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