第27話 怒り・二
言葉の刃に引きずられるように、罪悪感が俺の腹の底から湧き上がった。さらには他の感情さえ次々と引き出され、目を逸らしていた俺の本音を、否応なく俺の前にさらけ出す。
そう、今までだって、俺は何度も罪悪感にさいなまれた。鬼祭りのときに手を握ったのは、
不意に、女の子の声が耳元でしたような気がした。先輩、と躊躇いがちに呼ぶ声。申し訳なさそうに、あるいは元気いっぱいに呼びかけてくる、聞き慣れた声。
それから、セミナーハウスの裏での必死な顔が脳裏に思い浮かぶ。鬼の大太刀は地域の宝なのだと、だから取り戻さなければならないと、鬼の伝説が残るこの地区の住民を体現した言葉と表情の数々。
そして『
どれもどうということのない一場面なのに、心に焼きついて離れない。
……これだから、俺は何も考えないようにしていたんだ。賀茂さんのことを深く考えれば考えるほど、身勝手な自分の姿に嫌気がさすから。俺は、
深いところへ転げ落ちていくような物思いを、俺は両の拳を握ることで無理やり断ち切った。
そうだ。どんなことをしてでも、人を傷つけてでも俺は目的を遂げると決めたのだ。そのためにこの数ヶ月、罪悪感から目を背けてきたんじゃないか。今更引き下がれるわけがない。
こんなところで負けるな。
「…………だからこそ、俺を岩屋へ連れて行ってください」
竦む己を叱りつけ、震えたまま、俺は美しい鬼をまっすぐに見据えた。
「身勝手だということはわかっています。でも俺は、岩屋へ連れて行ってもらうために今まで努力をしてきたんです。貴女を探すために、賀茂さんを騙すようなこともしました。……だからこそ、俺はここで引き下がるわけにはいかないんです」
「……」
「お願いします」
せいいっぱいの誠意を込めて、俺は頭を下げた。それ以外に、気持ちを表す方法がわからなかった。
そのときだった。
がしゃ――――……ん
翼の音に続く破砕音が、緊迫しきった場の空気ごと何かを盛大に壊した。
思わず頭を上げると、賀茂さんが
……霊鳥だよな? こいつ。東征する神武天皇を導いたという神話を持つ、熊野の山々を本拠とする霊鳥一族のはしくれのはず。一応は俺より年上で。
……いやそれよりこいつ、大抵の鍵を開ける力があったはずじゃ………………。
「
俺が片方の頬をひくつかせているあいだに、
が、雪消が強い調子で一声鳴くや、静さんの顔色は一変する。訝しげ、というよりはまさか、と言うような。
静さんがあの子、と緊迫した声で霊鳥に尋ねるのを聞いて、背筋に冷たいものが走った。
「……賀茂さんに何かあったんですか」
「……
何もあってほしくない。そんな俺の願いを、感情が失せているのか押し殺しているのかわからない声で、静さんは否定した。
どく、と心臓が嫌な音をたてた。全身の血がすうっと冷えていくのが、自分でもわかる。
誰が彼女をさらったのかも。
「……っ!」
押し寄せる後悔に、俺は目眩がしそうな思いがした。
何故俺は、
たまらず、俺は店から出ようとした。
が、静さんのそばを走りぬけようとした瞬間、がっと腕を掴まれた。思わず払いのけようとしたが、白く細い腕は小揺るぎもしないのだ。まるで大男の太い腕であるかのように。
「お待ち。どこへさらわれたかわかるのかい?」
「奥宮です。義孝は、
そして義孝は伝手を駆使して調査することが得意で、人をたぶらかすことにも秀でている。賀茂さんの家族に取り入り、奥宮参りを任された賀茂さんに同行させてもらうことくらい簡単だろう。
「ああ、そういやもう一人、来てるんだったね。八咫の坊の話によると」
「ええ。両親と祖父が死んだ後、俺はあいつに育ててもらいました。あいつも……俺とは違う理由で岩屋へ行きたがってます」
「へえ……二人して、ねえ」
俺が答えた途端、ぽてりとした赤い唇が艶やかに吊り上がった。
先ほど見たものより強い感情をあらわにした笑み。俺は華やかなそれに何故か、闇夜に燃え盛る業火を連想した。……女の人の笑みを見なきゃよかったと思ったのは、人生で初めてだ。
八咫の坊、と静さんは雪消を呼んだ。
「この坊やを奥宮の向こうへ連れて行きな。いくら半人前でも、そのくらいできるだろ?」
その問いに、雪消は翼を強くはばたかせて鳴くことで答えた。当然、と言ったのだろう。賀茂さんに懐いているこの烏が、彼女のことでそれ以外の答えを返すわけがない。
雪消の答えを待たずに静さんは閉じられていた勝手口に近づくと、扉に触れた。すると一瞬、ぞわりと俺の背筋を何かが撫でていく。
そうして静さんが扉を引いてみれば、扉の向こうには山の緑に沈む奥宮が見えていた。神社の神職に案内してもらった、鬼の縄張りとの境目。
その、開かないはずの扉が開かれている。けれど義孝はおろか賀茂さんの姿もなく、扉は緩く吹く風に揺られもしない。
「お行き。岩屋の話は、梓をこちらへ連れ戻してからだよ」
「……わかりました」
女鬼に命じられ、逡巡の後、俺は両の拳を握りしめて了承した。
できるなら、早く岩屋へ入る許可が欲しい。けど、この状況では話せることではない。今は、賀茂さんを助けるのが先だ。
そう己に言い聞かせ、俺は扉をくぐった。
すると、初秋の山の気配が俺を包んだ。涼しい空気、土や緑のものが混ざりあった複雑なにおい、足裏の土や石の感触。すべてが人工的なものから大自然のものに変わる。
逸る気持ちを抑え、俺は呼吸を整えると拍手を打った。目を瞑り、この世ならざる世に住まうという神に祈りを捧げる。
「……東海の神、名は阿明、西海の神、名は祝良、南海の神、名は巨乗、北海の神、名は禺強、四海の大神、百鬼を退け、凶災を蕩う。急々如律令」
何度も紡いだことのある呪文を唱えるのは、こんなときでも容易だった。ほんの刹那、俺を包む空気が涼しくも重いものに変容し、元のものに戻る。
人ならざるものからの災いを防ぐこの呪文を俺を教えてくれたのは、義孝だ。家族を早くに亡くした俺を引き取ったあいつは、伝説や神話だけでなく、こうした呪文の類も教えてくれた。義孝の知り合いの中にはあやかしが多くいて、必然的に俺もそうしたものと関わらざるをえなかったから。彼らからすれば弱者の俺が生きていくには、必要だった。
義孝にこれが通用するのかはわからない。だが、俺は今から自分より強い男に戦いを挑むのだ。それこそ神にでも縋りたい気持ちだった。
ばさり、と翼の音をたて、俺の頭上を雪消が通りすぎた。木々の枝葉の合間を迷うことなく、まっすぐに飛んでいく。
賀茂さん、どうか無事でいてくれ。
彼女自身と義孝に強く願い。俺はまた八咫烏に導かれ、社の中へと飛び込んだ。
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