第26話 怒り・一
「すみません、開けてください」
そう『
待つことなく、扉はきいと開く。ただし勝手に、だ。開けた先には作業場の風景が見えるばかりで、扉を開けた人物の背中すらない。
「……」
自分が入る場所の異様さを改めて理解し、俺は『夢硝子』の中に入った。
作業場を抜けて店内へ入ると、店主の姿はこちらにも見当たらなかった。肩の紫紺から袖の白へのグラデーションが鮮やかな着物を着た若い女性店員がレジの前で暇そうに座り、上品な身なりをした五人の客が高価そうな商品をじっくりと見て回っているだけだ。
その客たちは、店の奥から現れた場違いな俺を目に留め、じろじろと無遠慮に眺めまわした。何故、どうしてといった色の視線を向けられ、俺は首をすぼめる。仕方ないことだと理解していても、こういう視線は心地いいものではない。
早く用事を済ませて出よう。俺は思いきって店員に声をかけることにした。
「すみません、店主はどちらにいますか」
「…………貴方の後ろに」
す、と店員が俺の後ろを指差した途端。尋常ではない気配を感じ、俺はびくりと振り返った。
そこには、作業場にいなかったはずの女店主の
「誰かと思えば坊やかい。
「彼女は家の手伝いですよ。……話があります。どこかで話せませんか」
「……仕方ないねえ」
内密の話だと言外ににじませて俺が尋ねると、静さんは息をついて踵を返した。ついて行くと、彼女は作業場まで戻って足を止める。
空気の変化を感じ、俺はほっと息を吐いた。
こうして一度入ってから戻ってみると、店内の空気が異様であることがよくわかる。気まずいとか誰かが怒っているとか、そういうレベルじゃない重苦しさ――――多分、畏怖と言っていいものが満ちていたのだ。ここにもそうしたものは漂っているが、店内と比べればずっとましだ。きつく締めていた袴の帯を解いたときのように、息がしやすい。
窓を開けて煙管の煙をくゆらせ、で、と静さんは俺に促した。
「あんたのことは陽から聞いてるから、大体想像がつくけど……一体何の話だい?」
「…………岩屋へ連れて行ってください」
知られているのなら、話は早い。俺は単刀直入に懇願した。
奥宮と地区の人に呼ばれているあの古い社は、人の世と異界である鬼の岩屋の境目だ。鬼の縄張りを示すと同時に、異界への扉になっている。元々あった空間のひずみを、
その奥宮の封印を解くためには、
だから俺は、この人に会わなければならなかった。
彼女こそが、奥宮の向こうのそのまた向こう――――鬼の岩屋に棲んでいた青鬼なのだから。
人間の女に化けた鬼がす、と目を細めた刹那、この作業場までもが異様な空気に包まれた。
「……そんなことのために、あんたは梓に近づいて、あたしのところへ来たのかい」
「違います。彼女と出会ったのは本当に偶然ですよ。この地区へ来たときは、噂だけを頼りに貴女や陽さんを探すつもりだった。たまたまこの近くで彼女に声をかけて、案内してもらっただけです。大体、俺みたいな半端者に誰が誰の業を継いでいるかなんてわかるわけがないじゃないですか」
「そんなこたどうでもいいよ。梓と会ってからの、あんたの魂胆はどうなんだい」
「……」
言い訳じみた説明は、静かに怒れる鬼に叩き斬られる。鬼の怒りを鎮める言葉など即座に思い浮かぶわけもなく、俺は釈明を諦めるしかなかった。
「…………言い訳はしません。でも俺が賀茂さんに貴女たちの店への案内を頼んだのは、俺にはそうするしかなかったからです。貴女たちはこの地区に留まらずあちこちを転々としている上、こうして店に術をかけて居場所を隠し続けていた。あやかしの伝手もろくにない俺だけでは、貴女の店を見つけることすらできない。彼女に案内してもらうしか、貴女を見つける方法は俺にはなかったんです」
「へえ、あたしを探すためにねえ」
そう、ぞっとするくらい艶やかで、それでいて凄みのある笑みを女鬼は口元に刷いた。けれど目は少しも笑っていない。
だからこそおそろしく、俺は鳥肌が立つのを抑えられない。恐怖が俺の身体を駆け巡る。
「陽の店を探したのは仕方ないとして、私を探すなって、陽に言われなかったのかい?」
「言われました。でも、俺は貴方に会うためにこの地区へ引っ越して、『
「はっ! ご苦労なことだね。なら、何のために……は愚問かい」
俺が怯みそうな自分を奮い立たせて答えれば、そんな剣呑な声と表情が返ってきた。
鬼に限らず、あやかしはこの世に実在している。それどころかその中には、この鬼の夫婦のように、人間の社会に人間として溶け込んで生活しているものだっているのだ。ならば、人間より長命の彼らが人間の、あるいは自分たちが作りだした文字で文献を記すのは当然のこと。『茨木書店』のように人外が経営する店の中には、そんな人外ものの文献を取り扱っている店が少なくない。
俺と義孝は、そうしたあやかしの文献や噂話をかき集め、先祖が伝えなかった伝承を知った。
この地に棲んだという鬼の夫婦には、奥宮の向こう、この世ならざる世界にあるものを守るという役目がある。誰が、何故そんな役目を彼女たちに与えたのかは文献に伝わっていない。ただ、彼女たちが神々の座所だという異界へ通じるゆがみを封印し社とし、誰も立ち入ることができないよう守り続けていることは紛れもない事実。
その鬼の夫婦が、閉ざされた天岩屋戸をこじ開けた
神より託されたものを守るために社を封じていることも、俺たちはあやかしたちが伝える記録から知った。
静さんは両腕を組み、目を眇めた。
「……あんたが何のためにあたしを探してたのかはわかった。でも岩屋へは行かせられないよ。あたしにはあたしの因果がある。あんたがあたしの末裔でもだ。自分がしたことの後始末は、自分でつけるんだね」
「っだから俺は貴女に会いに来たんです!」
「くどい!」
食い下がろうとする俺を斬り捨てるように、静さんの大喝が飛んだ。
……その声の激しさに、形相に、燃え盛るような怒りの気配に。今度こそ俺は竦んで動けなくなった。
「あたしゃあんたに腹が立ってるんだよ。梓と出会ったのは偶然だろうから許してやるとしても、あんたは一目見て自分とあの子との縁に気づいて、あんたはあの子に近づこうとした。あたしがあの子に売った簪を見て、あの子にこの店へ案内させようとした。……あんたは、岩屋へ行くためにあの子を利用したんだ。違うかい?」
「……」
「自分が梓に懐かれてることを、あんたは知ってたはずだ。そのためにあんたは『頼りになる優しい先輩』として、今まであの子を構ってたんだから。そうやってあんたは自分の目的のために、何も知らない、ただの人間の娘でしかないあの子の情をもてあそんだ。あたしは、それが許せないんだよ」
「……!」
青鬼の怒りはまっすぐ、俺の胸に、喉元に突き刺さった。もう息がしづらいどころの話ではない。静さんと目を合わせることができず、俺は目を逸らした。
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