第五章 奥宮の向こう
第25話 奥宮へ
「――――はじめまして」
ちっとも『はじめまして』じゃない人に挨拶して、約三十分後。私は数ヶ月ぶりに、山登りをするはめになっていた。
「遅い。早く歩けよ」
「貴方が早すぎるんですよ! もうちょっとゆっくり歩いてください」
木にもたれかかり、余裕の表情で両腕を組んでいる人にいらっとして私は言い返す。けれど、その人が聞いてくれるわけがない。案の定、どうしてと言わんばかりに肩をすくめた。
「地面が均されて歩きやすいだろう、ここは。よく歩いてるってあのばあさんに聞いたし、もっと山歩きに慣れてるかと思った」
「よく歩いてるって言っても、奥宮参り以外じゃたまの散歩くらいしかしませんよ。その散歩だって、大して歩きませんし。大体、都会育ちなのになんでそんなに山歩きに慣れてるんですか」
「歩き慣れてるからに決まってるだろ。がちゃがちゃ言ってないで、行くぞ」
言って、彼は自分の前まで歩いてきたばかりの私を放って歩きだす。私が息を弾ませているのなんて、まるで無視だ。他人を労わる気持ちがないかな、この人は。
ああもう、私はどうしてこの人――――
店長にシフトを空けてもらって、我が家の恒例行事である稲刈りをしたところまではよかったんだよ。田んぼの農耕機だけでは刈り取れなかった部分の稲を刈り、刈った稲穂を束にして穂架に掛けて、天日干しにする。年に一度と言えど毎年やっているから、もう手順もコツも大体覚えている。
ここまではよかったのに、おばあちゃんは何を思ったのか、滞在中の暇潰しにと稲刈りを手伝ってくれたという奇特な観光客をお伴にして、奥宮へ行けって私に言いつけたのだ。地区のならわしに興味があるようだから連れて行ってやろう、ということらしい。
おばあちゃんに名前を呼ばれた時点で逃げればよかったと、今からすると思う。それとも、この人が鬼の大太刀を盗んだって言えばよかった? でも伊月先輩は自分に任せてほしいって言ってたし、証拠もないからしらを切られたら追及できない。私が追及したところで、親戚さんがぼろを出すとも思えないし。
だから私は、おばあちゃんの言うことを大人しく聞いて、親戚さんと二人きりになってから改めて追及するしかできなかった。それも鼻で笑い飛ばされ、一蹴されたけどね。ああもう、腹が立つったらない。
親戚さんは私を振り返りもせず、どんどん先へと歩いていく。その歩みはさっきまでより少し遅いけど、私を置いていくことには変わりない。
そしてとうとう、背中が木々の向こうに消えてしまう。だから私は声を張りあげた。
「先に行っても、道知らないんじゃ着きませんよ。私は急ぎませんからね!」
「……」
私の脅しめいた一言が効いたのか。足音はぴたりと止んだ。
私がのんびりと歩いて親戚さんのところへ到着すると、彼は私を不機嫌そうな顔で睨みつけてくる。その顔を見てちょっとだけ優越感を抱いた私は、悪い子じゃないはずだ。
それにしても、この人、よほど奥宮へ行きたいみたい。そんなにあれって珍しいのかな。伊月先輩が言うには、そういうものがあることはそれほど珍しいことではないみたいなんだけど。
奥宮は神社に付属する御社の一つのことで、元々その神社があった場所とか、信仰上重要なんだけど神殿を建てるのが大変な場所とかに建てられたものが多い、とは伊月先輩の話。この地区では、里山の奥にある小さな社を指している。
伊月先輩に話したように、私の家や『
――――峠道と奥宮は境界なんだよ。
私が小さい頃、奥宮まで私の手を引きながら、おじいちゃんはそう言った。
だから、昔の地域の人たちは峠道を整備した後、そこから外れて鬼の領域へ行こうとしなかった。奥宮へ行くこともせず、代わりに神社で祈りを捧げて終わり。一部の家だけが山へ踏み込んで奥宮へ行き、鬼に感謝を伝えることにした。
これは、そういうならわしなんだよ――――――――
おじいちゃんはそう、私に今でも言い聞かせる。地区の守護者である鬼を祀る神社と奥宮への祈りを欠かさないように、って。そんな我が家に先祖代々続く信心を、この地域で生まれ育ったおじいちゃんとおばあちゃんは守っている。そして、孫娘である私にお鉢が回ってきたというわけだ。
親戚さんは忌々しそうに言う。
「……浅知恵が回る女だな」
「鬼の大太刀を盗んだ上、奥宮に行きたいからっておじいちゃんとおばあちゃんにごますりに来た貴方に言われたくないです。後で伊月先輩に言いつけますから」
「好きにしろ。それより、行くぞ」
私はまた脅してみたのだけど、今度は肩をすくめられるだけだ。本当にどうでもいいのだろう。商店街の脇道で会ったときも、伊月先輩を軽くあしらっていたし。他に、この人を懲らしめるいい方法はないのかな。
それきり無言で、私たちは苔むした石畳の上を歩いた。私がいないと奥宮へ着けないと理解したのか、親戚さんは私の前に出ようとしない。先を歩く私の後を黙々とついて来る。
――――のだけど。
「……遅い」
「私は女なんですから、当然じゃないですか。少しは気を遣ってください」
後ろから聞こえてきた苛々した声に、私も似たような色の声を返した。親しくない年上の人だからと遠慮する気持ちはとうに失せている。こんな人に遠慮なんてするものか。
反抗する私が気に食わなかったのか、親戚さんは舌打ちした。
そして。
「っちょっ何するんですか!?」
「お前が来るのを待つのは面倒だ。そのとろい足に合わせてやる」
手首を掴まれ、引きずるように歩かされた私が抗議すると、親戚さんはそう一蹴した。いやこれ、合わせているんじゃなくて、引きずっているって言わないでしょうか。
腕を引っ張ってみたけど、もちろん敵うわけがない。私は抵抗を諦めて、彼に合わせて歩くしかなかった。
道を示す以外は黙って歩きながら、視界の端に映る横顔をちらりと視線を向け、私は心の中でため息をついた。
こうして黙ってれば、ただの美形さんなのになあ。しかし、この俺様な性格がすべてを台無しにしている。きっと誰かと付き合ったとしても、適当に遊んでポイ! とかしているに違いない。付き合っちゃいけない男の人の典型例だ。
ほんと、一緒に歩いているのがどうして伊月先輩じゃないんだろう。絵付けをやった日の夜に電話で誘ったけど、用事があるからってまた断られたんだよね。こういうことに興味があるのは伊月先輩だって同じなんだし、せめて先輩も一緒だったらよかったのに。
……ああでも、それはそれで喧嘩になっていたかもしれないかな。このあいだの喧嘩腰からすると。うわ、どのみち、ろくでもない展開しかなかったのこれ?
途中で石畳の上から外れ、さらに木立を歩いていると、やがて木々の中に、人工物の上の部分が見えた。苔むしてもう自然のもののような、茅葺の屋根。
親戚さんの顔が嬉しそうに輝いた。用無しとばかりに私の手首を離すや、段差を飛び降り、社へと駆けていく。
これなら教えなきゃよかった。文句を心の中で呟き、私も坂をゆっくり下りて社へ向かう。
……あれ?
社に近づいて、私は眉をひそめた。
玉垣に囲まれた茅葺屋根の小さな社は、一年前と変わらず、森の中に鎮座していた。玉垣も含めて石畳以上に苔むしていて、あまり人工物という感じがしない。すっかり森に同化して、人間が造ったものではないかのように馴染んでいる。
でも、今はなんだろう。社が森から浮き上がっているみたいな感じがする。色彩は完璧に調和しているのに、何故かそうと思いきれない。新緑の葉が生い茂る枝に一枚だけ、ほんの少し暗い緑の葉があるような、気づいてしまうと気になって仕方ない違和感がある。
何か、おかしい。見ているだけで胸がざわざわする。普通じゃない、危険だって頭の中で誰かが言っている。
でも、ここにお参りしないと駄目なんだよね……嫌だなあ。
「なるほど……案内させたのは正解だったわけだ」
「…………あの、ちょっとどいてくれませんか。社にお供えしたいんで……」
社だけでなく、私に背を向けたままぶつぶつ呟いている親戚さんにも不気味さを感じつつ、私は彼にそっと近づいた。
できれば、どちらにも近寄りたくない。けど、持ってきた稲を社にお供えしなきゃいけない。稲をどこかに捨てるかどうかしてお供えしたことにして逃げるという選択肢は、ものすごくやりたいけど無理だ。この期に及んでまだ、『神様や仏様へのお供え物を粗末に扱うと罰が当たるよ』という、小さい頃から聞かされたおじいちゃんとおばあちゃんの脅し文句が効いている。ああ私、骨の髄までこの地区の子だよ。
親戚さんが社の前からどいてくれるのを待って、私は鞄から稲穂と神酒、三方を取り出した。三方に紙を敷いて稲穂を置き、神酒を添えて、おかしな気配がする社におそるおそるお供えする。
――――山の鬼さん、私は悪い子じゃありません。だからさらって食べたりしないでください
――――悪いことが起きませんように
いつになく心をこめてお祈りして、私は合わせた両手を解いた。これでようやくお勤めは終わりだ。親戚さんがちょっとごねるかもしれないけど、さっさと帰ろう。
――――――――と思っていたのに。
「……!」
さて帰ろうと振り返った私は、目の前に突きつけられたものを見て息を飲んだ。
黒く、長い棒――――いや、大太刀。
「鬼の大太刀……! やっぱり貴方が盗んでたんですか!?」
「ああ、あんただけじゃなくて、これも鍵になるからな」
親戚さんはさらりと意味不明なことを言う。悠然とした表情は、冗談で言っているようには見えない。
やばいよこの人、実はストーカーじゃなくて真性のやばい人だ。
でも、なんでこの人が鬼の大太刀を今持っているのだろう。私が見ていた限り、彼は長い棒状のものを持っていなかった。奥宮の場所を知らないはずだから、あらかじめ置いておいたなんてのもないだろうし。
「その社の扉を開けろ」
「はい? 開くわけないじゃないですか。そう造られてな」
「開けろ」
苛立ちも何もない、厳然たる声で親戚さんは繰り返し、私に命令した。大太刀の切っ先を私の鼻先から喉元に変え、主導権が誰にあるのか、より明確に示す。
私はこのときはじめて、自分の呑気さを罵りたくなった。
どうして今の今まで、私はこの人が危険じゃないと思っていたのだろう。地域の宝を盗むような人だというのに。やっぱり危険人物だ。
「司たちはあんたに優しいんだろうが、俺は違う。……さっさと開けろ」
三度目の命令は、さすがに苛立ちの色を混ぜていた。言外に、従わないなら、という響きが聞こえる。
山の鬼さん、私は悪い子じゃないのに。
一体私のお祈りのどこが気に食わなかったのだろうか。私は心の中で、山の奥深くに棲まうという二匹の鬼に説明を求めた。
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