第18話 絵付け・二
一方は、青い流水に土色の篠笛。くるりと反対側に向ければ、上が少し開いた丸の中に千歳緑の葉。おばあちゃんのお気に入りの文箱を飾るデザインと、賀茂家の家紋だ。
言葉にすれば簡単だけど、実際には結構難しい。何しろ、目の前に手本があるわけでもなく、下描きはなし、間違えればおしまいなのだから。しかもそのデザインも、はっきり覚えているわけではない。……うん、どうしてこんなのを考えついた、私。
「へえ、古典文様の組み合わせとは、なかなか粋じゃないか。こっちは蔓に一つ葵ときた。これはまた古臭いのを思いついたねえ。あんたの家の家紋かい?」
「はい。それ、葵なんですか? 葵の家紋って、確か徳川家の家紋ですよね」
「そうだよ。家紋は一口に月だの龍だの桔梗だのと言っても、それぞれ色んなやつがあるんだよ。葵紋一つとっても、五つ葵、糸輪に豆葵、唐草葵、二葉葵……何十とね。徳川の家紋は、そのうちのいくつかってだけさ。家紋を全部数えたら、千じゃきかないかもしれないねえ」
呪文みたいな名前をいくつも呟き説明しながら、静さんは私のグラスをじっくりと眺めまわす。私はなんだか恥ずかしくなった。それなりに頑張りはしたけれど、本職の人に敵うはずがない。
「し、静さん、私のをあんまり見ても……」
「いやいや、初めてにしては上出来だよ。いいデザインだし、あんたみたいに若い子が、こんな昔ながらの絵を思いついて描くのも珍しい。よっぽどこういうのが当たり前な家なんだねえ」
「当たり前というか……まあ、古いものは多いですね」
何しろ、リフォーム前はトイレが母屋の外にあったような家だ。今でも敷地内の蔵を開ければ、博物館へ行かなくても昔の生活用品をじっくり手に取って観察することができる。由緒ある旧家でもないのに衣桁が普段から使われている家なんて、今どき田舎でもうちくらいのものだろう。
静さんはやっと、私が描いたグラスを壁際の新聞の上に置いた。
「十五分あれば絵の具は乾くけど、明日にでも取りに来るといいよ。今日のところは本格的に暗くなる前に、そこの彼氏に送ってもらいな」
にやり、と静さんは口の端を上げる。ちょ、静さん!?
私は一気に耳まで真っ赤になって、両手をぶんぶん振った。
「ち、違います! 先輩は彼氏じゃないです!」
「おや、違うのかい。こんなに可愛らしいのに。見る目がないんだね、そこの坊やは」
私が全力で否定しているのに、静さんは煙管を口に含んで愉快そうに笑って言う。ああこの人、絶対面白がっているよ。顔がそうだもの。到底太刀打ちできる気がしない。
「……店主、あんまりからかわないであげてください。ほんとに俺たち、付き合ってないですから」
助けの舟はため息とともに出された。どこかうんざりしたような顔で、
静さんはくすくす笑った。
「まあ、このくらいしておいてやらないと、
「……店主」
額に手を当て、いい加減にしてくれといった響きで伊月先輩は静さんを呼ぶ。けど静さんは悪びれもせず、笑うばかりだ。
そんなこんなで勝手口から店を出て、二人で静さんに一礼した後。私は伊月先輩に誘われ、途中まで一緒に帰ることにした。
夏ならまだ明るい時間だけど、空はもう夜の気配を濃くし、暗くなり始めていた。商店街も橙に似たほのかな色の街灯が点き、商店から漏れる明かりが夕暮れのうっすらとした闇に目立って見える。
退院祝いにとおじいちゃんに買ってもらった臙脂色の自転車をついて歩く私の隣で、ところで賀茂さん、と伊月先輩は言った。
「なんで絵付けやってたの? 店長に言われてレジ打ちを手伝ってたって、店主から聞いたけど」
「はい、お客さんがいなくなってたときにやってみないかって誘われたんで、つい……気づいたらこんな時間になっちゃってました」
「随分集中してたからね……でもそのぶん、いいのができたんじゃない? 店主が褒めてたし、俺もああいうデザインは好きだな。賀茂さんは、絵を描くのは得意なの?」
「……! 得意というか……ああいうデザインを描くのが好きなだけですよ」
私はなんとか息を飲んでこらえ、あははとごまかすように笑った。やばい、なんか顔逸らしたい。でもやったらなんか変だよね。絶対、顔赤いのばれてるし。
嬉しいのと照れくさいのと恥ずかしいので、夜の涼しい空気なんてもう感じられない。周りに人がいなくてほんとによかった。こんなところを友達に見られてたりしたら、恥ずかしくて二度と家の外に出られない。
喜んでいいのか何なのか、ここで私たちは駅前通りに着いた。こちらは商店街とは違って、どこか冷たい白の街灯だ。はっきりした色遣いが目を引く飲食店の電飾、何より漂ってくる匂いに引き寄せられるように、見覚えのあるおじさんたちが店の中へ入っていく。
「ああ、ここに繋がってるんだ。俺の家、この近くなんだよね」
「あ、そうなんですか」
じゃあ、ここで別れたほうがいいよね。先輩は遠回りになっちゃうし。……もうちょっと一緒にいたいけど……でも、そんな我がまま言ったりなんかしたら、デートのときに見た先輩たちみたいに伊月先輩は引くよね…………。
「それじゃあ、私はここで失礼します。伊月先輩、また明日」
名残惜しいのをこらえて、私はそうぺこりと頭を下げた。少しでも一緒に帰れたんだから、今日のところはこれで満足しなきゃ。
――――だったのに。
伊月先輩に背を向けた直後、私の手を温かなものが包んだ。大きくて、ざらざらしていて。――――最近、感じたばかりの感触。
「伊月先輩?」
びっくりして先輩を見上げると、先輩もまた驚いた顔をして、私の手を掴む自分の手を見ていた。自分の手がしていることなのに、それを自分は望んでいなかったかのように。
数拍して、慌てて私の手を離した。私の顔から目を逸らす。
「ご、ごめん……」
「いえ……」
目を逸らし、私は緩々と首を振った。
でも突然跳ねた鼓動が痛いし、顔は熱いし、肌を撫でる涼しい空気がもっとって、鬼祭りのときみたいに私に訴えてくる。もっと一緒にいたい、あの信号までくらいはって。
そんなの駄目。伊月先輩が目のやり場に困っている様子だし、私と先輩の家は反対方向なのだから。デートしたときに見かけた人たちみたいに、先輩を困らせちゃ駄目だ。
でも、あと少しだけとねだる気持ちを私が抑えているっていうのに、伊月先輩はぎこちなく微笑んだ。
「……家まで送るよ。最近は、自転車に乗ってても襲われることがあるみたいだから」
「え? いえそんな、先輩、家に着くの遅くなっちゃいますよ」
「構わないよ。どうせ急いで家へ帰る必要もないし」
私がぶんぶん首と手を振ったっていうのに、伊月先輩はそう肩をすくめてみせる。いえあの、そんなおそれ多いことは……!
なのに、伊月先輩は私の自転車のハンドルを握って前へ押した。私が軽く握っただけの自転車は、簡単に私の手から離れて通りを歩きだす。えっあの、ちょっと?
私が慌てているのに、伊月先輩はまるで気にしたふうもなく歩いていくから、私は後を追いかけるしかない。なんだろうこの展開、百貨店のときと同じような…………。
自転車を質にとられては、どうしようもない。私は諦めて、伊月先輩に送られることにした。
歩けば歩くほどに、通りを満たしていた明かりはだんだんと少なくなり、電灯が等間隔に足元を照らす田んぼが左右に広がるようになっていく。他の明かりは、所々に建つ家から明かりがこぼれているだけ。音も、テレビの音や車が走るさえ聞こえてこない。私たちの口数も少なくなっていったから、今はもう自転車のタイヤが回る音と私たちの足音くらいのものだ。
百貨店や鬼祭りのときとは違う、完璧な二人きりだ。まるで、世界に私たち二人だけしかいないみたい。そんな錯覚すら覚えてしまう。
送り狼には二種類あるって、伊月先輩は言ってたな。現代で使われるみたいなあとで美味しくいただくためについてくるのと、見返りを求める代わりに守ってくれるのと。
伊月先輩は優しい狼さんだ。見返りも何も求めず、私に良くしてくれる。私が心配だというだけで、わざわざ遠回りをしてくれる。友達のために悪者になった、おとぎ話の青鬼みたいに優しい。
でも…………。
まるきりは怖いけど、ほんの少しだけ、伊月先輩が悪い狼になっても構わない。そんな妄想が浮かんで、私は自分にどん引きした。
…………道が暗くてよかった……………………。
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