第四章 信じること
第17話 絵付け・一
「ありがとうございましたー」
客の会計を済ませ、私は愛想良く送りだす。そしてまた、中年女性が持つカゴの中の、彼岸花の絵付けがされた二つのガラスのコップを手にとった。
店内に並ぶ商品は、窓から差し込む光を通して輝くガラス細工。八人ほどの女性客が、その中をのんびり歩きながら、あるいははしゃぎながら見て回っている。賑やかなのは、私と同じ制服を着た女子高生三人だ。絵付けがされた風鈴やコップ、トンボ玉などを見てはひそやかに、けれど興奮した様子で手にとっている。
よくこの騒がしい中で描いていられるなあ。清算を終えて客をまた一人見送り、私は座敷で作業している女店主に視線を映した。
そう、私にレジを任せている美人な女店主は、絵付けの真っ最中だ。何枚もの真っ白な小皿につけられた絵の具を筆につけ、その筆も使い分け、大小さまざま、色とりどりのガラス細工に何かの絵を施していく。
その集中しきった面差しは、妖艶でありながらも鋭く、おそろしくも美しい刃のよう。力任せに振るわれていただろう鬼の大太刀とは違う、典雅な刀だ。武器なのに人を魅了する、素晴らしい細工が施された小太刀。
着崩した浴衣姿の美女が真剣な表情で作業をしている姿は、眼福の一言に尽きる。これであの大熊みたいな店長の奥さんだなんて、世の中は本当に何が起きているかわからない。
そう、私が今日に限ってここでバイトをしているのは、彼女と『
いやほんと、店長に奥さんがいるって聞いたときはびっくりした。今まで聞いたことなかったし、店長にはものすごく悪いけど、どこからどう見ても美女と野獣だもの。せいぜい、女王と戦士。酒場の女将と山賊の頭でも通用するかもしれない。一体どんな出会いと成り行きで結婚したのかな。気になる。
ともかくそんな二人だったので、営業時間中に絵付けをするから人手が欲しい――――という奥さんからの電話を受け、店長は私に救援に行けと言ったわけだ。……正直、『茨木書店』は店員いなくてもやっていけなくもないわけだしね。なんで二人も雇っているのか謎だよ。
お客さんが一人、二人と帰っていき、やがて店内は静かになった。時間が時間だからか、次のお客さんはなかなか来ない。『茨木書店』なら、遠方から来たというお客さんが閉店ぎりぎりまで居座ることもあるのだけど、『
不意に、皿に軽い物を当てる澄んだ音が店内に響いた。
音がした座敷を見てみると、女店主――
静さんは疲れごと吐き出すかのように深々と息をつくと、私を振り返ってにかりと口の端を上げた。
「手伝い、御苦労さん。たまにレジを打つばかりで、退屈だったかい」
「い、いえ。お店の中を見てるのは面白いですから。ガラス細工の絵付けも、初めて見ますし」
「ああ、そうだろうね。この町にはガラス職人の工房もないようだし。まあ、
と、立ち上がった静さんは座敷の飾り棚に置いてあった煙管を手にとり、慣れた仕草で煙管に火を点け口にした。しばらくすると、紫煙が煙管の口から立ち上り、店内を漂い消えていく。
美人はやっぱり何をやっても美人だなあ。それにしても、陽って一体……あ、店長の名前だったっけ。いつも店長って呼んでいるから忘れがちだけど、夫婦なんだから名前で呼ぶのは普通だよね。
私が一人納得していると、そうだ梓、と不意に静さんは教えたばかりの私の名を呼んだ。
「なんなら一つ、あんたも絵付けをやってみるかい?」
「絵付けを? いいんですか?」
「構わないよ。今日はわざわざ手伝いに来てもらったからね。ほら、おいでおいで」
にっこりと笑顔で、静さんは私を手招きする。う、やっぱり、ちょっと低くて艶っぽい声で名前を呼ばれるのはなんだか心臓に悪い。この笑顔だし。
それはともかく、絵付けなんてめったにできることじゃない。少しだけ悩み、私は静さんの誘いに甘えて座敷へ上がらせてもらうことにした。
「何がいいかい? トンボ玉、グラス、風鈴。どれでもいいけど」
「え、と……じゃあグラスで」
尋ねられ、私はなんとなくやりやすそうなものを選択する。だってトンボ玉は小さいし、風鈴は持つ手に力を込めすぎて割ってしまいそうで怖い。グラスなら、まだ描きやすいよね……多分。
絵皿の周囲を私に譲った静さんは、座敷の奥へ一度下がると、しばらくしてから透明なグラスを持って戻ってきた。続いて、絵付けの仕方を簡単に教えてくれる。
そうして私は、人生初の絵付け体験をすることになった。
とはいっても、難しいことは何もない。絵付け専用の筆を使うと言っても、感覚は絵の具用の細い筆と同じだ。幼稚園のときに、透明なプラスチック板にマジックで絵を描いたのを思い出す。電子レンジに入れて加熱すると、描いた絵ごと小さくなってしまうのが不思議だったあれ。
難しいのは、頭の中に思い描くデザインを下描きなしで描くことだ。間違えても、やり直しができない。それをごまかして描くしかない。
……なんか私、ものすごく無謀なデザインに挑戦している気がする。後悔がちらりと頭をよぎったけど、もう遅い。
お客さんが来たら集中できないかもと思っていたが、そのお客さんが来ないのか、あるいは私が集中しすぎているのか。次第に、色んな音が遠くなっていった。思考というものが働かなくなり、世界が狭まる。自分と絵の具と筆と、グラスしか存在を認識できない。そこに絵を描くことだけで、私の頭の中がいっぱいになっていった。
青、黒、白、緑。絵皿に乗る原色のまま、あるいは他の色と混ぜて透明なガラスに塗りつけることに没頭して、どれくらいが経ったのか。最後のひと筆を描き終え、私は筆を絵皿に置いた。
大きな息を吐き出すと、張っていた神経が緩み、身体の重みや強張りが感じられた。目もなんだか変だ。達成感よりもまず、何時間もテスト勉強をした後のような疲労感が私を包む。
でも、やっと完成した。グラスを見下ろし、その満足感から私の口元が緩んだ。
「できたかい」
静さんの艶やかな声が背後から聞こえてくる。土間から聞こえてきたそれにはいと答え、彼女を振り仰ごうと身体をひねった私は、背後に腰を下ろしていた人を見て目を瞬かせた。
「
「あ……こんにちは
何故かぼんやりして私のほうを見ていた伊月先輩は、私が声をかけるとはっと我に返った。どこか慌てたふうで挨拶してくる。
……? なんで先輩、そんなに驚いた顔なの? まさか私、そんなに変な顔してた?
私が瞳をさまよわせて内心であわあわしていると、静さんはくつくつ笑いながら座敷のほうへ歩いてきた。
「さっき、シャッターを下ろそうとしたら外でそこの坊やを見つけてね。あんたが前にここへ来たとき、一緒にいたのを覚えてたからね。中に入れてやったんだよ」
「へ? あ……!」
言われて今気づいたけど、窓の外が向かいの景色じゃない。シャッター下りてるじゃん!
はっとなって時計を見てみれば、やっぱり閉店時間はとっくに過ぎている。全然気づかなかった。
「す、すみません。こんな時間まで……」
「いいよ。誘ったのはあたしだし、邪魔じゃなかったからね。さて、どんなのができたんだい?」
座敷の端に腰を下ろし、静さんは白い手を伸ばしてグラスを催促してくる。うわ、指も細っ。肌も白くて、眩しいくらいだ。……駄目駄目、比較しちゃいけない。
陶磁器みたいな腕と手に見惚れながら、私はグラスを彼女に渡した。
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