第8話 落ちた・二

賀茂かもさん!? どうしたの!?」


 そんな驚愕の声と共に木立から現れたのは、同じ学校の先輩であり、同じところでバイトしている伊月いつき先輩だった。緑青色のフード付きパーカーに砂色の帽子、暗緑色のリュック。完璧な日帰り登山の服装だ。

 伊月先輩は私のそばまで来ると、顔や足首の傷を見て顔をしかめた。リュックを下ろし、ポーチを取り出す。


「なんで伊月先輩がここに……?」

「見てのとおり、山歩きの途中だよ。そしたらその烏が飛んできてさ。こっち来いって感じに俺の服の袖を引っ張るもんだから、とりあえず後を追いかけてきたんだ。……傷口の応急処置するから。靴下、脱いでもらえるかな。できる?」

「は、はい……」


 伊月先輩に指示されるまま、私は左の靴の靴紐を緩め、先輩の助けを借りてなんとか靴と靴下を脱いだ。白い靴下を染める鮮血の色を見て、改めて血の気が引く。

「すごく沁みると思うから、その烏を抱きしめるほうがいいかも」

 天然水のラベルが巻かれたペットボトルの口を開け、片手にはポーチから取り出した綿を持って伊月先輩は言う。私はごくりと唾を飲み、一度放していた雪消ゆきげを抱きしめた。


「――――はい、これで終わりだよ。よく我慢したね」


 足首だけじゃなく、私の頬の擦り傷まで応急処置を施し終え、伊月先輩はそう私に微笑みかけた。

 けど、それに応じる余裕は私になかった。だって、消毒する前も後も大して痛みは変わらないどころか増しているような気さえするのに、できるわけがない。何これ、これが消毒? 小学校のときに膝を擦りむいてしてもらったのとは、比べものにならないんですけど。落ちたときのものとは別の種類の痛みは、泣きたいくらいだ。

 そんな私の身体、というより左の足首は、伊月先輩いわく、かなりひどい形でやられてしまっているらしい。とはいえ、この崖から何本もの丸太や自転車と一緒に落ちていることを考えれば、奇跡的な軽傷だろう。下手すれば即死だったかもしれない。……そう思うしかない。

 応急処置の後片付けをしながら、伊月先輩は私に問いかけてきた。


「それにしても、賀茂さんもなんで山に? こんな山奥、女の子が自転車に乗って一人で来るものじゃないだろう?」

「そうなんですけど、祖母に頼まれて、この先にある陶工さんの小屋へ漬物を届けに行ってたんです。その帰りに、橋を渡ろうとしたら突然橋が落ちて……」


 伊月先輩に事情を話していると、次第に感情が昂ぶっていき、たまらず私は涙をこぼした。

 目覚めたときの、もしかしたらこのまま一人で死んでしまうのかもしれないという絶望はまだ生々しく私の胸に残っていた。そう、もし雪消がいなければ、伊月先輩を連れて来てくれなければ、私は一人ぼっちで死んでしまうかもしれなかったのだ。

 ――――――――こんな、人がたまに行き交う場所のすぐ近くなのに遠い場所で。誰にも気づかれず、知られずに。

 恐怖に震える私を宥め、慰めるように雪消はかあと一鳴きした。伊月先輩も私の頭をぽんぽんと撫でてくれる。


「大丈夫だよ。そこの烏がいるし、俺もついてるから。まずは家族の人に連絡して、それから病院へ行こう?」


 と、伊月先輩は私に優しく微笑んでくれる。私の手をぎゅっと握って、言葉のとおり、大丈夫だよって言うみたいに。

 ああ、もう大丈夫なんだ。先輩が助けてくれるんだ。


「~~~~っ」


 安心が身体の隅々にまで沁みわたっていって、涙をこらえることなんてできなかった。頷くと、その拍子に涙が次から次へとこぼれ出した。私はぎゅっと目を瞑り、こくこくと何度も頷いた。

 そうして、泣けるだけ泣いて私の昂ぶった気持ちがひとまず収まり、伊月先輩が私の荷物を集めてくれた後。壊れてしまった自転車はひとまずその場に置いて、道路へ向かうことにしたのだけど。


「せ、先輩っ私、重くないですか……!?」

「いや全然。俺、割と力持ちだって知ってるだろう? 落としたりしないから、安心してよ」


 慌てる私に、リュックを背負う伊月先輩はにっこり笑ってそんなことを言った。

 実際、私の背や膝裏に回された腕は震えもしていないし、山道を歩く足取りは重くない。顔もまったく平然としていて、強がっているわけではなさそうだ。

 けど、そんなことはこの際どうでもいい。問題なのは、伊月先輩に抱き上げられているってことだ。世に言うお姫様だっこですよ、皆さん。

 同年代の異性、しかも学校で一、二を争う美形に抱き上げられて、年頃の女の子が平然としていられるわけがない。足首は変わらず痛くても、芸能人もびっくりな顔から目を逸らしても、私を包む感覚はばっちり正常なんだから。むしろ人生最大かもしれないこの恥ずかしさのせいで、彼の存在を全身で感じざるをえないこの状況も強く意識してしまう。

 ……今度からお菓子はちょっとだけ控えよう。うん。ちょうどいい機会だし。お財布のためにもなるし。

 そんな乙女の決意を私がしている一方。少し先にある木の枝に留まって私たちを見下ろす雪消を見上げ、伊月先輩は苦笑した。


「……烏、そんなに睨まないでくれないかな。さっきだって、君のご主人様に何もしなかっただろ?」

「い、いえ。先輩、雪消はうちで飼ってる子じゃないんです」

「あれ、違うの?」

「はい。四年前に怪我してるところを助けてから懐いてくれてるだけで、今日はたまたまついて来てくれて……雪が大分溶けてきた頃に会ったから、雪消って呼んでるんです」


 少しだけ見下ろす高さにある秀麗な顔にどきどきしながら、私はそう説明した。

 ああ、と伊月先輩はひとつ頷いた。


「そういえば、ものすごく動物に懐かれる子が一年にいるって、クラスの奴が言ってたな。小学校の縦割遠足のとき、動物園のふれあいコーナーがすごいことになったとか。それであだ名が『動物ホイホイ』……あれ、君のことだったんだ」

「あ、あはは……そんなこともありましたね」


 誰ですか、そんな昔のことを言いふらしたのは。小学校の頃の黒歴史が脳裏によみがえり、私は乾いた笑いしか出なかった。

 いやだってあれ、大混乱としか言いようがなかった。檻の中にいる動物たちが私を見るなり騒ぎだし、フェンスにしがみつきアクリルの壁にぶつかるようにして私に近づこうとしただけじゃない。私がふれあいコーナーに一歩足を踏み入れると、お客さんに餌を食べさせてもらってた子を含めたコーナー中の動物たちが、こぞって私のところに駆け寄ってきた。それこそ、王様のもとへ馳せ参じる騎士たちのように。ええ、ある意味恐怖だった。居合わせた職員さんや他のお客さんも呆気にとられていたなあ……。

 まったく不思議なことだけど、私は小さい頃から、鳥や獣にやたらと好かれる性質だった。それはもう強烈で、他の人になら警戒心むきだしの犬だろうと気性の荒い猛獣だろうと関係なく、私を見た途端に大人しくなるか、あるいは私を近づこうとする。伊月先輩が聞いた縦割遠足はその典型例で、小学校の頃は、魔女だのなんだのとからかわれたものだった。


「羨ましいなあ、動物にそんなに懐かれて。俺、賀茂さんとは反対に、動物に警戒されやすいから、小学校の遠足のときはふれあいコーナーに行くなって友達に言われたんだよ。動物に逃げられるからってさ。だからその烏が飛んで来たときは、ちょっと嬉しかったんだけどなあ……そんなに甘くはないか」


 はあ、と伊月先輩はわざとらしいため息をつく。私に対する気遣いであるのは、明らかだった。

 それからも、伊月先輩は私に話しかけては、気を紛らわそうとしてくれた。かといって歩くことを疎かにし、私を乱暴に扱うこともない。どれもを並行してこなしながら、自分を導く雪消の後を追い続けていた。

 ゆらゆら不規則に揺れる揺り籠だ。けれどレインコートを着せてもらっていることもあってかあたたかくて、安心できた。張りつめていた神経がするすると緩んでいく。

 ……あ、なんだか眠くなってきた。瞼、開けていられない。


「……眠いなら寝ればいいよ。ちゃんと君の家族のところへ連れて行くから」

「でも……でも寝たら、重くなります……」

「平気だよ。だからほら、おやすみ賀茂さん」


 息だけで小さく笑い、伊月先輩は指先で私の眦を撫でる。

 もう限界だった。伊月先輩の声を聞いたのを最後に、私の意識はあっけなく落ちた。




 それからは、まあ大変だった。

 意識を取り戻したのは病院で、まったくこのお転婆は、と両腕を組むおばあちゃんの顔にまず迎えられた。どうやら伊月先輩は私が眠った後、山を下りてひとまず神社へ行ったらしい。で、宮司さんは即刻電話してくれて、私はめでたく病院行き。私の家への連絡も、宮司さんがしてくれたんだって。

 連絡を受けて即刻軽トラを飛ばして病院へ駆けつけたおじいちゃんは、あんまり泣くものだからおばあちゃんが強制的に家へ帰したそうだ。さすがおばあちゃん。我が家最強なだけある。翌日には里彩りさ優希ゆうきもお見舞いに来てくれて、暇潰しの少女漫画とかを色々貸してくれた。……里彩の趣味満載の、ちょっと大人路線のは遠慮したけど。

 でも、そんなふうに持ってきてもらった暇潰しの道具を、私は上手く活用することができなかった。

 入院してからずっと、退院して学校へ行くようになってからも、私は何度も伊月先輩のことを考えた。というより、考えようとしなくても勝手に先輩のことばかり思い浮かんだ。

 すぐ近くにある顔。

 さり気ない気遣い。

 全身で感じる体温、鼓動。

 ――――どれも、忘れることはできない。

 伊月先輩とはバイトが同じだけど、だからといって特別親しいわけじゃなかった。都会から転校してきた文武両道の美形と学校では評判だったし、バイト中も色々助けてくれたりして、女子にもてて当然の人だとは思っていたけど、それだけで。優しくて頼りになるいい先輩、の枠を外れることはなかった。

 なのに入院中、会いたくて、話したくてたまらなかった。学校やバイトの帰りに何度か来てくれたけど、全然足りなくて。やっとバイトに行けるようになって伊月先輩と話せたとき、笑顔になることはできたけど、本当は泣きたいくらい嬉しかった。

 きっとただのつり橋効果だと、わかっている。

 それでも、伊月先輩へ向けていた私の感情は事故以来、色を変えたのだった。

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