第二章 落ちる乙女は

第7話 落ちた・一

 私が伊月いつき先輩を好きだと自覚するようになったのは、梅雨の終わりの頃だと思う。




「はい、お邪魔しました。失礼します」


 人柄の良さがにじみ出た人懐こい笑顔のおじいさんに一礼し、私はトタン屋根の小屋を後にした。

 里山の深く、獣の世界の一歩手前。空は私が小屋に到着したときと変わらず、雲が一面を覆い尽くしている。空気も湿っていて、山中の様々な色が濃く暗く見えた。


「うわこれ、雨降る? 最悪……」


 一応レインコートは持ってきているけど、それでも雨は嫌だ。特にこんな山の中でなんて、危険しかないし。去年の豪雨のときみたいに土砂崩れが起きたら、巻き込まれなくても生きた心地がしないに決まってる。

 そんな危険な天気になりそうだっていうのに、なんで私がこんな山の中を往復しなきゃいけないはめになっているのかといえば、ひとえにおばあちゃんのせいだ。

 二時間近く前。農家である我が家の手伝いを終わらせ、さあ里彩に借りた少女漫画を読むぞ! と自室へ戻ろうとした私に、おばあちゃんはお手製の漬物を入れた瓶を寄越してきた。知り合いの陶工さんにお皿をもらったお礼に漬物を届けたいけどまだ仕事がある、だから暇なお前が代わりに行ってこい、というわけだ。

 もちろん、断れるはずがない。で、私は自転車で数十分かけて、山中の小屋を訪ねるはめになっていたのだった。


「もう、おばあちゃん、おじいちゃんにトラックに乗せてもらえばいいのに……なんで私に頼むかな……」


 どうか山を下りるまで天気が持ちますように、と自転車を漕ぎながら私は心の中で祈り、ペダルを漕いだ。

 山で仕事をする人たちが使っているこの道は、舗装されているもののパスが一台通れる程度の幅しかなく、道路の片側はガードレールがない。しかもカーブがいくつもあるから、曲がった先に何があるのかわからないときている。地元の人間でも使う人はそれほど多くはない道だから、もちろん、人通りも少ない。

 要するに、何か事件や事故があっても当然だよね、な道なのだ。大雪とか土砂崩れとかで通行止めになることもあるし。ぶっちゃけ、なんでおばあちゃんの知り合いさんがこんな道の先に住んでいるのかわからない。いつの時代の世捨て人ですか。

 こんな何が起きるかわからない道の向こうへ、十六になったばかりの孫娘を自転車でお使いに行かせるのだから、おばあちゃんは本当に厳しい。なんとか無事にお使いはできたけど、文句を言いたくなるのは当然のはずだ。うん。


雪消ゆきげ、無理してついてこなくていいからね。帰りたくなったら帰っていいから」


 自転車のカゴの中、底の網にしっかりと掴まる大きな烏――雪消に私は声をかける。すると彼は澄んだ声で鳴き、私に応えてくれた。

 傷のある嘴が特徴のこの烏は、名前をつけてあげているものの、うちで飼っている子というわけじゃない。四年くらい前、この山で大怪我をしているところを保護してあげたことがあって、山に帰してあげてからも町で私を見かけると寄ってくるのだ。烏は人間の子供と同じくらい賢いというから、恩人の顔を認識しているのかもしれない。

 今日も、お使いに行こうとするところで鉢合わせし、そのままお伴になってくれている。変質者と出くわしたときは助けてくれるはずだ。……多分。

 家に着いたら真っ先に梅ジュースを飲んで、まだ一緒にいてくれていたら雪消にも水をあげよう。心の中で予定を立てながら、数本の丸太を縄で繋いだだけの橋を渡ろうとしたときだった。

 嫌な音がしていて不安だと思っていたら、その嫌な音が突如色を変えた。

 そして、浮遊感。

 え、まさか嘘――――――――――――




 痛い。その言葉が頭の中にぼんやりと浮かぶ覚醒だった。

 ただただ、痛い。体中が泣きわめくみたいに痛みを訴えている。頭もずきずき痛くて、考えることを邪魔しにくる。何この痛さ。気を失ってしまいたい。

 それでもなんとか目を開けると、枝葉が視界の端を飾る曇り空が見えた。鳥は一羽もいなくて、鳴き声も聞こえてこない。代わりに、川の豊かな流れの音が聞こえてくる。

 動きたくないと絶叫する身体を無理やり起こし、自分の体を見下ろせば、腕も脚もいたるところに赤い擦り傷ができていた。頬も熱いから、傷ができているのだろう。当然、服は泥だらけだ。それどころかブラウスもプリーツスカートも、破けている箇所がある。


「さいっあく……っ」


 思わずこぼしたところでずきずきと全身のあちこちが一層痛みを主張し、私は悲鳴を飲み込んだ。

 なんでこんなに身体が痛いのだろう。体験したことのない強さで襲ってくる複数の痛みから、泣きそうな気持ちで周囲を見回してみると、やっぱり周りは森の中だった。一方は崖で、他は木々が生い茂る中を川が流れ、私の近くを通り過ぎていくばかり。自分がどこにいるのかなんて、これではわからない。

 中学の頃から使っている自転車はそばに転がっているのだけど、おかしな方向に曲がってしまっていて、もう使いものにならないのは一目瞭然だった。一辺が平らにされた数本の丸太も、無造作に転がっている。その内一本は、わたしのすぐそばにあった。

 ……ああ、そういえば私、橋から落ちたんだっけ。

 ということは、ここはあの橋のほぼ真下で、私はどれだけの時間なのかわからないけど、気絶していたってことだよね。漫画とかでたまに出てくる気絶ってどんな感じなのだろうと思っていたけど、最悪だ。どこもかしこもが痛いだけで、他には何もない。


「電話しないっ…………いっ!」


 立ち上がろうとして、左の足首の辺りに走った激痛に私は耐えられず、悲鳴をあげた。足から力が抜け、その場にうずくまる。

 何この痛さ、普通じゃない。落ちたときに捻ったのかな。それとも骨折? 今まで経験したことがないからわからないけど、どっちにしても痛いし、これじゃここから動ける気がしない。

 どうしよう。周りを見回し、私は途方に暮れた。

 ケータイは鞄の中なのに、その鞄は手を伸ばしても届かない場所にある。歩いて取りに行こうにも、足がこの状態の上、身体を支えるものもないのに行けるわけがない。

 雪消も見当たらない。ということは、うまくカゴから脱出できたのかな。あの子が巻き込まれてなくてよかったけど――――

 でもその代わり、私は一人ぼっちだ。


「嘘お…………」


 胸の奥がしんと冷えた。頭の中は真っ白で、何も考えられない。

 小屋への行き来には橋を通るしかないのだから、橋が落ちたことはいずれ誰か気づくはずだ。おじいちゃんたちも探しに来るだろうし。だから、それまで頑張れば大丈夫なはず。

 でも、それはいつ? 橋の落下に気づいたとして、私にも気づいてくれる? ここは橋があった辺りの随分下で、木もたくさんあるから、気づかなくても不思議じゃない。それに、この天気だ。そのうちに雨が降るかもしれない。

 何日も前に遭難していた人が発見された、といういくつものニュースが私の脳裏をよぎった。冷えていた心に恐怖が沁みわたっていく。

 身体が震えた。


「誰か、誰か助けてっ……!」


 声の限りに叫んでみたものの、誰かの耳に届くわけがない。辺りに誰もいないし、川の音が私の声を飲み込むのだから。その事実を改めて思い知らされ、私はいよいよ絶望した。涙腺が緩んで、涙がこぼれ出す。

 なんでこうなったんだろう。ただおばあちゃんのお使いをしていただけ、自転車を漕いでいただけなのに。どうしてこんな目に遭わないといけないの?

 身体が、足首が痛い。風にそよぐ枝葉のざわめきは、私を哀れんでいるようにも、嘲笑っているようにも聞こえる。


 ――――悪い子は、山に棲む鬼に食べられてしまうよ


 不意にそんな、小さい頃に聞いた、おじいちゃんやおばあちゃんの声が耳によみがえった。言いつけを破ったり、度が過ぎる悪戯をしたときのお決まりの脅し文句。


 町を囲む山々の奥深くには、今でも二匹の鬼が棲んでいる。彼らは人間の血肉が好物で、時々山を下りて獲物を探すんだよ――――


「~~~~っ」


 思い出してしまったおそろしげな声音は今、聞いたときと同等以上の恐怖で私を包んだ。

 鬼たちは山から下りてこないし、そもそも鬼なんてこの世にいない。地区の昔話だ。そうわかっていても、この状況では笑い飛ばすなんてできない。

 誰か、誰か助けて――――――――!

 そうして声を殺して泣いて、どのくらい経ったのだろうか。涙はとうに枯れ、後悔する気力も失せた静寂の中、川の音にも負けず、力強い音と声が聞こえた。

 ……翼の音と、烏の鳴き声?


「雪消?」


 私が名を呼ぶのと、木立から雪消が姿を現すのはほぼ同時だった。雪消は私のすぐそばにある丸太を目指し、留まる。


「雪消っ……!」


 私は思わず、烏にしては大きな雪消の身体を抱きしめ、この情が深い烏の体温を存分に味わった。彼の温かさが身体に沁みわたっていくと共に、鳥ではあるけれど誰かが助けに来てくれたという安堵が胸に生まれる。


「私を助けに来てくれたの? ありがとう雪消」


 耳にささやくと、雪消はどういたしましてと言わんばかりに、私の頬に嘴を寄せた。胴とは違って、冷たく硬い。けどそれ以上に、この子の優しい気持ちが嬉しい。探しに来てくれるなんて、雪消はなんていい子なんだろう。

 私が雪消の存在に救われていると、誰かが茂みを踏みしめる音がした。はっとして私はそちらを見て、目を瞬かせた。

 だって――――――――

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