第7話 少女(サラ)
病室のドアが開くと、食器の後片付けをしていた母の手がピタリと止まる。
「あなた、そちらにいらっしゃるのは……潤一郎さん……西郷潤一郎さんじゃありませんか?」
驚きと喜びがいっしょになったような声を上げる母に、父が興奮した様子で答える。
「そうだ。潤一郎くんだ。廊下で彼の姿を見つけたとき、私も自分の目を疑ったよ。音信不通だった彼が、こんな時間に、こんな場所にいるなんてとても信じられなかったからね。ただ、潤一郎くんの居場所がわかれば、今日のパーティーには間違いなく招待しただろうから、私たちの思いが通じたのかもしれないな」
「本当に不思議なことがあるものですね。最後に潤一郎さんに会ったのは、陽子ちゃんが司法修習生だったときですから、かれこれ6年前。でも、つい最近お話したような気がします。いずれにせよ、来ていただけてうれしいわ。きっと陽子ちゃんも喜んでいますよ」
笑顔を浮かべて感慨深げに言葉を交わす父と母。
「大変ご無沙汰しています。以前お世話になった西郷です。こんな夜分に申し訳ありません。ただ、陽子さんのことを知って居ても立ってもいられなくなり、こうして参った次第です」
感慨に
「先程伴さんにはお話しましたが、俺がここへ来たのはいくつかの偶然が重なった結果です。何から話したらいいのか……まずは、この6年間にあったことをお話します。自分で言うのもなんですが、本当にいろいろなことがありました。今回日本の地を訪れたのは『この
潤一郎は自分の隣に視線を向ける。
そこには、車いすに座って寝息を立てる、小さな女の子の姿があった。
「この子は『サラ・オースティン』。8歳の女の子で2年前から俺といっしょに暮しています。と言っても俺の子ではありません。俺が尊敬する先輩医師の娘……忘れ形見です」
言葉を選ぶように静かに語る潤一郎。忘れ形見という言葉の後で少し間が空く。
「以前、俺と同じように、WMS(ワールド・メディカル・サプライ)を通じてT国へやってきた医師がいました。名前は『アンソニー・オースティン』。年齢は36歳。もともとイギリスの大学病院の助教授でしたが、テレビのニュースでT国の状況を知り、大学を辞めてT国入りしました。奥さんのマーガレットと娘のサラを連れて。それは、俺がT国へ行く半年前の話ですから、危険度は段違いでした。親や親戚に猛反対されたようで、出国する際に縁を切られたと言っていました。彼の話を聞いて……他人事とは思えなかったのも事実です」
バツが悪そうに下を向く潤一郎。確かに私が吐いた暴言は同様の内容を含んでいた。父と母は首を横に振りながら彼の言葉を否定する。
「アンソニーは、医者としても優秀でしたが、何より現地の人に親身になって接する姿勢がとても立派でした。また、何事にも貪欲で妥協を許さない、彼の前向きな姿勢は他の医師の手本となるもので、俺たちに大きな影響を与えました。さらに、マーガレットやサラに大きな愛情を注いでいるのもわかりました。彼は良き医師であるのと同時に、良き夫であり、良き父でもありました。彼が医療チームの代表になって俺たちの活動は順調に進み、それに比例するように新政府による復興政策も軌道に乗りました。まさに、医療と政治ががっちりとかみ合い、車の両輪のような役割を果たしていました。しかし、順風満帆と思われた中、ある事件が起きました。今から2年前。サラが6歳のときのことです」
サラが眠っているのを確認する潤一郎。
小さく息を吐くと、ベッドの横にあるクリスマスツリーに目をやった。
「市街地のあるレストランでサラの誕生パーティーが開かれました。その店はサラのお気に入りで、毎年彼女の誕生日には気の置けない仲間が集まりました。店のオーナー夫妻もとても温かい方で、アンソニーの家族とも懇意にしていたようです。とても良いパーティーでサラは終始笑顔を見せていました。ただ、食事が終わってデザートを食べているとき、それは起きました。ちょうど俺の携帯に緊急の電話がかかってきて、店の外で話をしていたときのことです。
サラと年が同じぐらいの可愛らしい女の子がサラに近づいてきました。彼女は両手に抱えきれないほどの大きなバラの花束を持って、サラに『ハッピー・バースデイ!』と言いました。どの人もそれは店が用意したサプライズだと思ったようで、大きな拍手が沸き起こりました。ただ、オーナー夫妻は顔を見合わせて首を
彼女はサラと女の子の間に割って入ると花束を凝視します。そして、バラの花に隠された小型の爆弾を目の当たりにしたのです。間髪を容れず、アンソニーが2人を抱きかかえました。その瞬間、爆音ととともに店は吹き飛び、あたりは火の海と化しました。
幼い少女を使った自爆テロ。ここ数年のWMSの支援活動を良く思わない反政府組織の仕業でした。店の外で電話をしていた俺もただでは済みませんでした。
店内は『地獄絵図』といった形容がピッタリでした。サラをガードしたマーガレットと2人を守ろうとしたアンソニーは見る影もありませんでした。まさに『100%助からない』と確信できる状態でした。サラはと言えば、両足が吹き飛び頭から血を流していましたが、かろうじて息はありました。夫妻がサラの盾となることで彼女を守ったのです。
そのとき、俺は信じられない光景を目の当たりにしました。しゃべれるはずのないアンソニーが目を開けて俺に言ったのです。『Jun-ichiro…please…please…Sarah…help her…(潤一郎…どうか…どうか…サラのことを頼む…)』と。
その瞬間、俺はラガーマンが自分を
潤一郎は眠っているサラの顔をじっと見つめると小さく微笑んだ。
病室は水を打ったように静まり返る。父は怒りの表情を
「何とか一命は取り留めたもののサラの容態は思った以上に重く、生きているのが不思議なくらいでした。両足は緊急手術により応急処置を行いましたが、火傷の状態がひどく、合併症を併発して何日も生死の境を
それには2つの理由がありました。1つは、アンソニー夫妻が命をかけて守り抜いた彼女のことを絶対に助けたかったから。もう1つは、俺たちが決してテロには屈しないことを世間に知らしめたかったから。サラの命を救うことで、テロリストの卑劣な行為を否定し武力は無意味であることを示すのが、俺たちがやらなければならないことだと思いました。
そして、事件から8ヶ月が経過したある日、サラが目を開けたのです。そのときの喜びは口では言い表せないものでした。俺は病院中に響き渡るような
不意に潤一郎の表情が険しくなる。
「ただ、それが俺とサラの戦いの始まりだったのです。彼女の目には何も映っていませんでした。視力が完全に失われていたのです。また、数ヶ月のこん睡状態に置かれたことで、記憶の錯乱が見られました。目が覚めたのに目が見えない。しかも、記憶がところどころ欠けていて自分が何者なのかわからない。さらに、足がなくなっていて身体中に痛みが走る。そんな状況に置かれたら大人でも耐えられません。ましてや、サラは当時6歳でした。
俺はサラにいろいろな言葉をかけました。時間をかけてスキンシップを図ろうとしました。しかし、すべて拒否されました。俺の言葉を一切聞こうとせず、俺の手は即座に跳ねのけられました。俺たちの間にはコミュニケーションなど皆無の状態でした。当たり前です。極度のパニック状態に置かれている者がどこの馬の骨ともわからない者に気を許すなんてあり得ません。俺がサラでもきっと同じことをしたと思います。
検査の結果、身体機能に障害が残ったものの、思考機能に異常が認められなかったのは不幸中の幸いでした。ただ、あの事件により彼女が受けた、精神的なダメージは計り知れないほど大きいものでした。そんな状態で過酷な現実を受け入れるのは無理がありました。
しかし、俺は諦めなかった。絶対に諦めたくなかった。サラと俺の間に何かしらの信頼関係が生まれれば、それがきっかけとなって事態は好転すると考えました。俺自身のことをわかってもらうにはどうすればいいか? 毎日そればかり考えていました。
そんなある日、俺は『あること』を彼女に話して聞かせることにしたのです。それは、俺の大切な思い出……陽子と交わした言葉やいっしょに過ごしたときのこと。それをサラに話して聞かせることにしたのです。当時なかなか表せなかった気持ちといっしょに」
つづく
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