第6話 別離(メモリーズ)

 私が法学部に入学したとき、潤一郎は医学部の3年生。


 父が検事だったことで私が法曹界を目指したように、父親が医師だったことが彼を医学の道へと向かわせた。ただ、いつも彼の言葉の端々には医者になることに対する疑念が見え隠れしていた。


 180センチの身長に胸板の厚いがっちりとした体格。付属高校でラグビーをしていたことで大学でもラグビー同好会に所属していた。無精髭ぶしょうひげとくたびれたラガーシャツがトレードマークで、いつも大きな声で笑っていたのが印象に残っている。


 初めて潤一郎に会ったのは、私が大学に入学して間もない頃。確か付属高校出身の友人に連れられてラグビーの試合を見に行ったとき。ラグビーを生で観るのは初めてだったが、大声を上げて突進する彼の姿にくぎ付けになったのを憶えている。目立っているというだけでなく、その圧倒的な存在感に目を奪われた。素人の私がノーサイドの笛が鳴るまでゲームに集中していたのは、一にも二にも彼の存在感があったからに他ならない。


 思い返すと、そのプレーはチームを勝利に導くことを目的とした、緻密に計算されたものだった。あるときは切り込み隊長としてチーム全体を鼓舞こぶし、あるときは司令塔としてメンバーの力を引き出し、またあるときはおとりとしてチャンスメイクをする。彼の一挙手一投足がとても心地良く、私の口からは終始歓声が発せられていた。


 それが私たちの出会いだったことを考えると、潤一郎は私にとって特別な存在だったのかもしれない。そうでなければ、堅物かたぶつでプライドが高い私が、ルールもよくわからない競技を見てあんなにはしゃぐなんてあり得ないことだから。


 ただ、私たちの関係は微妙だった。


 付き合っていたわけではないが、いつも昼食はいっしょに食べていたし、定期的にふたりで飲みに行ったりもした。いつの間にかそれが当たり前のこととなっていて違和感はなかった。しかし、気持ちを告げられたこともなければ、交際を申し込まれたこともない。もちろん、男と女の関係になったことなどあり得ない。


 顔を合わせれば他愛もない話が熱い議論に発展する。知らない人が見たら、それは口喧嘩くちげんかをしているようにしか見えない。今思えば、昼食時の学食で毎日のように議論を交わしていた私たちは有名人だったのかもしれない。


 要するに私たちは似たもの同士だった。


 曲がったことが大嫌いで理に適わないことを押し通そうとするのが許せない、正義感の塊。権力を持つ者が持たない者をさげすむのを見過ごすことができない、弱者の味方。人が困っているのを見ると首を突っ込まずにはいられない人情派。同じ価値観を有していたことで、大学を卒業して違う道に進んでからも、私たちは変わらぬ関係を保つことができた。私が司法修習生となった6年前の夏、彼から「あのこと」を告げられるまでは。


★★

『潤一郎、話って何? 模擬裁判の準備があるからあまり時間がないの。手短にお願いね……どうしたの? 神妙な顔して。身体の具合でも悪いの?』


「いや、そういうわけじゃない」


 昼休みに潤一郎から電話があり「仕事が終わったら話をしたい」とのことだった。その日は時間がとれないことを告げたが、彼からどうしてもという申し出があり、結局30分だけお茶をすることにした。


『何かあったなら遠慮せずに言って。私とあなたの間で隠し事はなしよ』


「陽子に聞いてもらいたいことがある。ただ、陽子に言ってもどうにもならないことかもしれない」


 視線を手元に落として奥歯に物が挟まったような言い方をする潤一郎。

 やはりいつもの彼とはどこか違う。


『今日のあなた、本当に変だよ。いつもなら人目をはばかるようなことでも大声で話すのに。アレはアレでちょっと辛いんだけどね……いつも私に言ってくれるじゃない? 「言葉にしないと前に進まない」って』


「わかった。話すよ」


 顔を上げて私の目をじっと見つめると、潤一郎はゆっくりと話し始めた。


「NGO組織で『ワールド・メディカル・サプライ(WMS)』って知ってるか?」


『うん。世界で医療が満足に行えない国に対して医療技術やサービスを供給している機関でしょ? 欧米や日本ではバックアップしている企業も結構あって、先進国の中には補助金を出している国も多いよね。その活動は世界的にも高く評価されていて「国連以上」なんて声も聞こえる超NGO。法曹界でも「WMSの力がこれ以上巨大になったら彼らを取り締まる独自のスキームが必要」なんて話してるよ。半分冗談だけどね。潤一郎の病院でもWMSのことが話題になってるの?』


「……WMSの派遣で中央アジアのT国へ行こうと思ってる」


 潤一郎がポツリと言った一言に思わず耳を疑った。


『T国って……最近まで内戦が続いてた、中央アジアの国だよね? 報道では数万人の人が亡くなったなんて言われてる。実際はその何倍もの人が処刑されたとも噂されてる。新政府ができて国連の監視団は引き上げたけれど、あれは「形だけの終戦」だよ……潤一郎、そんなところに行っちゃダメ。絶対に行っちゃダメだよ。死にに行くようなものだよ。どうしてあなたがそんな危険なところへ行かなければいけないの? 病院の命令? そんなの断っちゃいなよ』


「さすがは陽子。よく知ってるな。でも、これは誰の命令でもない。俺が自分で決めたことだ」


 想定外の言葉に驚きを隠せなかった。


『潤一郎……自分が何を言ってるのかわかってるの? 正気の沙汰さたとは思えないよ。さっきも言ったけれど、死にに行くようなものだよ。あなた「病気で困っている人のために一生を捧げる」なんて言ってたよね? ここで死んじゃったら困ってる人はどうなるの? 彼らを見捨てることになるんだよ。それに、K大付属病院の神崎先生があなたのこと高く評価してくれてるんでしょ? 後継者として育てたいなんて。先生の下でがんばればいいじゃない……あなたは未来がある人なんだよ! そんなリスクは冒すべきじゃないよ!』


 思わず語気を荒らげた。とにかく潤一郎に考えを改めてもらいたかった。


「お前の言うことは相変わらず理に適ってる。反論するのが難しいよ。お前が検事になれば、日本の悪人どもがびびって犯罪が減るだろうな。でも、陽子……ろくな司法制度がなくて、罪もない人が無実の罪で投獄されたり命を奪わたりするような国があったとしたら、お前は見て見ぬ振りができるのか?」


『何を言うかと思ったら……論点をすり替えるような詭弁きべんを使わないでよ! あなたらしくないよ!……そう。わかったわ。質問に答えてあげる。でも、もし私の答えにあなたが反駁はんばくできなかったら、T国行きを止めるんだよ。わかった?」


 感情を顔に出すことはほとんどない私だったが、このときだけは違った。彼を見る私の目は、獲物を狙う野生動物のように鋭かったのではないか。 


「わかった。俺を納得させることができたら諦めよう」


 そんな私に動じることなく、潤一郎は冷静に言う。


『約束したわよ。これはあなたと私の間で成立した、れっきとした契約。書面がなくても契約は口頭で成立する。後で誤魔化ごまかそうとしたってダメよ。そのときは、あなたを債務不履行で訴えるから』


「わかってる。俺が今までお前に嘘をついたことがあるか?」


 私は心の中で自分にプレッシャーをかける。

 「ここは死んでも負けるわけにはいかない」と。


『法制度というのは国によって千差万別。その国の政治、文化、歴史、宗教、その他いろいろな要素によって整備される。一国の法制度を変えるということは、政治体制を変えるということにつながる。つまり、武力による侵略行為がなければ制度を抜本的に変えることは不可能に近い。NGOはもちろん国連レベルでも実現は無理。「できない」という結果が見えているものに命を投げ出すのはナンセンス極まりない。仮に、国家に敵対する団体からSOSが来たとしても、それは国としての総意ではない。耳を傾け行動に移すことは国家自治の観点から好ましくない』


「なるほど……じゃあ、質問を変えよう。陽子の論理ロジックからすれば、結果が出るなら、つまり、人の命を救うことができるのなら『行ってもいい』、『行くべきだ』と考えていいんだな?」


『ど、どうしてそう言う結論になるのよ! そもそも、あなたが行くことで何人の人が助かると思ってるの? もしかしたら、行ったその日にテロに遭って1人も助けられないかもしれないじゃない! それに……その仕事はあなたじゃなくてもできる。あなたがやるべきことじゃないわ!』


「お前らしくないな。どうしてそんな『可能性』の話を持ち出す。現にここ半年テロは発生していない。なぜお前は『初日にテロが起きる』なんていう脅し文句を持ち出す? それに『俺じゃなくてもできる』なんて、それこそ論点のすり替えじゃないか? 俺は、俺ができることを、俺自身がやりたいんだ。俺がやってはいけない理由があるなら説明してくれないか」


 言葉に詰まった。潤一郎の言葉に重みが感じられる。いつもとどこか雰囲気が違う。ただ、ここは負けられない。どんな手を使ってでも勝たなければならない。


『じゃあ……私はどうなるの? 残された私はどうなるのよ? あなた、私と離れ離れになることを何とも思わないの? 昔学食で言ったよね? 「困っている人がいたら、とりあえず駆けつけることが大切だ」って。でも、T国なんかに行ったら、私が困っていてもどうしようもないじゃない!』


「ごめん。それは……」


『言い訳なんか聞きたくない! いつもそばにいてくれたのは単なる気まぐれだったの? 刺激的な議論ができる人なら誰でもよかったの? 私は違う。これからも潤一郎にそばにいて欲しい。困ったときに力を貸して欲しい。あなたがいたから私はこれまでがんばって来れたの!』


 自分の言っていることが論理的でもなければ客観的でもないことはわかっていた。感情的な言葉を並べて潤一郎の心情に訴えかけようとしている、ズルイ自分にも気づいていた。ただ、ここは絶対に譲れなかった。


 しかし、それは潤一郎も同じだった。


「ごめん。でも、やっと見つけたんだ。自分のやりたいこと……俺、子供たちの元気な姿が見たいんだ。世界中の子供たちに幸せでいて欲しいんだ。日本の子供のほとんどは恵まれた環境で暮らしている。でも、T国の状況は日本とは雲泥の差だ。WMSの情報では毎日数百人が栄養失調と疫病で亡くなっているらしい。確かに俺一人が現地に行ってどうにかなるものじゃない。ただ、WMSのバックアップがあって同じこころざしをもつ者が集まれば結果は変わる。死者の数を1桁減らすことができるかもしれない……いや、絶対にできる」


 不意に潤一郎の顔にいつもの笑みが浮かぶ。


「陽子、お前にはお前の使命がある。司法試験に合格したのは、神様が『悪を懲らしめる』という使命をお前に与えたんだ。お前は大きな期待に応えなければいけない……ただ、俺にも俺の使命があったんだ。大層な期待はされていないが、お前に負けないように期待に応えたいと思う……困ったことがあったらすぐに連絡してくれ。いつでも帰ってくる。お前のためなら絶対に帰ってくる。そして、お前の力になる。約束する」


『何があっても連絡なんかしない! これからは、他人の力なんか一切借りない! すべて自分の力で解決してやる!」


 潤一郎の言葉をさえぎるように、私は店中に聞こえるような大声で言った。

 荒い息遣いと激しい鼓動まで店の隅々まで響き渡っているような気がした。


『今、私にはわかったことがある……頼れるのは自分だけだってこと……あなたなんか大嫌い! 二度と私の前に現れないで! 今すぐT国でもどこへでも行けばいいわ!』


 早足にその場を後にする私。潤一郎が何か言いながら追い駆けてくる。私は無視して歩き続けた。らちが明かないと思ったのか、彼の手が私の手を捕まえる。しかし、すぐにその手を振り払った。そして、目を合わせることなくタクシーに乗り込んだ。潤一郎が走りながら何かを叫んでいる。ただ、嗚咽おえつで聞きとることができなかった。


 それが潤一郎と交わした、最後の言葉。6年経っても忘れることのできない、私の捨て台詞。捨てたのか捨てられたのかは、いまだによくわからない。


★★★

 静まり返った病院の廊下から足音が聞こえる。

 それは私の病室の前で止まった。シャールの鋭い眼差しが扉の方へと向けられる。


「おいでなすったようだ。君の『白馬の王子様』の力、特と見せてもらうよ」


 つづく

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