第54話 ~再び、2012年~
再び、2012年。
「ちょ、ちょい待ち」
だいぶ酒が進んでいたが、義兄さんの目はそれほど酔ってはいなかった。しかし僕の話を否定しようとして焼き鳥の刺さっていた串を指揮棒のように振るのは、紛れもなく酔客の仕草だった。
「いやいや、いやいやいやいや。コウくん、さっき、言ったじゃん。彼女に振られたって」
「そうですよ?」
嘘は何も言ってない。
言っていないことはあったが。
「振られたあと、僕はまりあさんに、プロポーズしたんです。結婚してくださいって」
「………それって、いつのこと?」
「高三の秋です」
「え? じゃあ、振られた直後にプロポーズしたの? それでオッケーもらったの?」
義兄さんの矢継ぎ早な質問に、僕は苦笑して頬をかいた。
「振られた直後にプロポーズしたのは本当です。………ただ、答えはまだ、もらってません」
「ん? ん? どういうこと?」
「僕は、かれこれ四年、………もうすぐ五年ですけど、まりあさんの答えを、待ってるんです」
「………えぇぇー?」
義兄さんは、赤くなった目をぱちぱちさせてから、頭を抱えた。
「…………ごっめん。ちょっと、振られたあとのことから、順番に話してくれる? どういう経緯があって、そんなことになってるの?」
そう問いかけられたのは、これで五度目だった。
姉さんたち全員に説明した順序を、僕はひとつひとつ辿りはじめた。
「まりあさんに別れ話をされたあと、しばらくして、僕は光子姉さんと話をしたんです」
五年前、光子姉さんは言った。
結婚をする、と。
「僕はそのとき初めて、光子姉さんが誰かと付き合ってるのを知りました。………そして、驚きました」
光子姉さんの特異体質は、「恋をしない限り健康体でいられる」だ。
そして、だからこそ逆に、「恋をすると体調を崩してしまう」体質だった。
「だけど光子姉さんはその当時も、変わらずに健康でした。いつもどおりに健康でした。………恋をしているはずがありませんでした」
だから―――僕は尋ねた。光子姉さんに恋人がいるとは信じられなくて。
「その人のことが好きなの、と質問したら、愛してるわ、って光子姉さんは答えました。疑問が解けない僕は、続けて尋ねました。その人に恋をしているの、と」
光子姉さんは言った。
恋はしていないわ。
愛しているのよ。
「姉さんは『恋をしなくても、誰かを愛することはできる』と言いました。………それを聞いたとき、僕は、自分の間違いに気付きました」
格子、恋愛がどうして二文字なのか知ってる?
恋と愛があるから、恋愛なのよ。
―――光子姉さんは、少しだけ頬を赤らめて、そう言った。そう教えてくれた。
「僕は、………僕がまりあさんに抱いていた感情は、恋ではなくて、愛だったんです。僕にとっては、誰よりもまりあさんが大切です。まりあさんのことなら、何でも受け入れられます。…………世間一般的にはそれを愛と呼ぶのだと、そのときになって、知ったんです」
恋ができないと、恋愛はできないと思っていた。
「僕は………というより、僕とまりあさんは思い違いをしていました。それでよかったんです。まりあさんが恋をして、僕が愛をすれば、それだけで恋愛だったんです」
「それで………プロポーズしたの?」
熱っぽく語っていた僕に、義兄さんが不思議そうな顔で尋ねた。
僕は頷いた。
「そうすることが、僕にとっては自然でした。結婚するのにほかの誰かは考えられません。もはや積み上げてきた年月が、僕をそうさせるのに十分でした。僕はまりあさんを、世界で一番、愛していましたから」
もちろん、家族という例外を除けば。
―――なんて素晴らしい矛盾なのだろう。
世界一愛する相手が、たくさんいるなんて。
「ただ、………やっぱりまりあさんは、混乱していました。電話でプロポーズしてきた僕に、考えさせて、と言いました」
恋人の契約だけは、はっきりと終わった。
あとはまりあさんの選択を待つだけだった。
他人同士になるか、婚約者になるか。
「一応、ちょこちょこと、僕のほうから連絡は続けています。遠距離恋愛ってわけでもないです。………僕はまだ、まりあさんの決断を待っています。次にまりあさんから電話がかかってきたとき、返事を聞かせてもらえることになってます」
「………コウくんは、それでいいの? もし、まりあちゃんが、別の人と付き合い始めたら……そうなっても、いいっていうの?」
「構いません。僕は確信しています。僕は一生、恋をしません。大切な人たちを愛するだけです。何が大切かはわかっていますから」
「恋……しないの?」
「しません。はっきり言うと、僕は完全に受身なんです。僕を好きになってくれる人しか、僕は愛しません。だから僕は、『植物系』なんです」
恋ができなくともいいと、僕はようやく思えるようになっていた。自分にとって大切かどうかもわからないものに恋をするよりも、大切なものだけを愛せれば、それでよかった。
僕を好きだと言ってくれたまりあさん。僕の価値を認めてくれたまりあさんは、愛するに足る、大切な存在だった。
恋はいらない。大切なものが何かが、わかってさえいれば。
もちろん、今もゆにさんへの恋を続けている因子姉さんを否定するわけではないが―――
「なんか、すっげー飛び抜けた思想を聞いた感じ」
「そうですか?」
「うん。………コウくん。その理屈だと、もしもこの先、格子くんを好きだと言ってくる女の子がふたり以上現れたとしたら、重婚でもしない限り、全員を愛することはできないよね?」
法学部の大学院に進んでいるのだ。重婚が犯罪なことは知っている。
「僕はそもそも、不誠実な愛し方はしませんし、………なにより、結婚をするとしたら、今はまりあさん以外には、考えられません」
「まりあちゃんが、コウくん以外の誰かと結婚したら?」
「そんなこともあるでしょうけど、………そうですね。そのときになったら、考えてみます」
僕と凛さんは、大声で笑った。
「いい返事が来ることを祈ってるよ」
「ありがとうございます」
「………ところで、院を卒業したら、就職はどうするの? やっぱり警察?」
よくわからないけど、と義兄さんは、芋のロックを口に含んだ。
警察官という進路は、考えに入れていた。陽子姉さんの夫の輝夫さんからも勧められていた。
「それもいいかなって、思ってた時期もありました。………でも今は、やりたいことができましたから」
「やりたいこと?」義兄さんがグラスを置いて、身を乗り出してきた。「コウくん、やりたいことが見つかったの?」
義兄さんの驚きには頷ける。昔のころの僕だったら、未来の僕に、やりたい仕事が見つかるなんて、思ってもいなかっただろう。
僕は、まっすぐに凛さんの瞳を見つめた。
「僕は………探偵になります」
「………探偵?」
「はい。僕の……僕たちの、お母さんを探すためです」
姉さんたちは、会いたかったり会いたくなかったり、どうでもよかったり、それぞれがお母さんについて思っている。
そして僕は―――この世のあらゆることに興味のない僕にとっては、僕の「母親」である「歯車元子」は、例外的に、興味のあることだった。
「会ってみたいんです。純粋に興味があるんです。僕のお母さんが、どんな人なのか。何を思って、三回も結婚して、僕たちを産んで、僕たちの前から消えたのかを、知りたいんです。………怒りも哀れみもなく、興味だけがあるんです。会ってみたいんです。生きているうちに」
「それが………コウくんの夢?」
「はい。これが僕の、生まれて初めての、将来の夢です」
僕が真剣に語ると、義兄さんは頷いてくれた。グラスを合わせて乾杯した。
「………で、実際どうするの? どっかの探偵事務所に就職するの?」
「今、ひとつの探偵事務所で、簡単な仕事を手伝わせてもらっています。大学院を卒業したら、一旦そこで働かせてもらうつもりです。それで、時機を見て、独立します」
「ふーん。………事務所とか構えるわけだ。この辺で?」
「お母さんは、ずっとずっと遠くにいると思いますけど、地元が拠点になると思います」
それに、と、僕は続けた。
「あのマンションは、ひとりで暮らすには大きすぎますから。将来的にはあそこを事務所にしてもいいかなって」
上の三人の姉さんたちは、すでに結婚して家を出ている。因子姉さんは埼玉だか千葉だかでアパレルの仕事をしながら、ゆにさんと同棲している。しばらく帰ってくるつもりもないだろう。そろそろ築二十年になろうかというマンションの一室が、どれほどの値段で売れるというのか。売却して現金化するのならともかく、住んで使う分には姉さんたちからの文句はないはずだった。たとえ探偵事務所にしてしまっても。
「そっか、探偵かー。そんな選択肢もあるもんだなぁ」
「探偵になったら、仕事の合間にお母さんのことを調べられるかと思うんですよ。僕、誰とでも仲良くなれる自信ありますし。仕事にしてしまえばお金もかからないし、好きなだけ調べられますし」
「そうだね。んじゃ、開業したら、お祝いは弾まないとね」
そう言ってから、凛さんはおかしそうに笑った。
「………まだ四億円くらい、祝儀が残ってるんだよ。使い道がなくてさ」
「………そうじゃないかとは思ってました」
「陽子さんも、思い切ったことをしたもんだよ」
二年前の結婚式にて、陽子姉さんは、一万円札三枚と一緒に、サッカーくじを一枚、ご祝儀袋に入れていた。
もうそろそろ当たるだろう、という陽子姉さんの予想は大当たりで、確か六億円くらいになった。結果的に陽子姉さんが出したご祝儀は、六億飛んで三万円という法外な金額になった。一応は結婚式の祝儀のマナーである奇数額なのが馬鹿馬鹿しい。
しかし―――それきりだった。
陽子姉さんはそれっきり、宝くじを当てることはなくなった。
今までに良くも悪くも陽子姉さんの運命を左右していた体質が、消えたのだ。
「何でだろうね」
「仮説はありますよ。陽子姉さんが結婚したからです」
「………ん?」
「陽子姉さんが結婚したから、自分の特異体質を失ったのかもしれません。蟻が必要のなくなった翅を自分でもぎ取るように、もう余分なお金を必要としなくなったから、能力が消えてしまったのかもしれません」
光子姉さんについても同じことが言えた。妊娠期間中は体調管理に気をつけていたが、それ以前の結婚してしばらくの間、光子姉さんは普通と同じくらいの頻度で体調に浮き沈みが出るようになった。まったくの普通の人間になっていた。
「………え? じゃあ、うちの奥さんも?」
「どうでしょうね。量子姉さんは性格に由来するところが大きいですから」
しかし、確実なことがひとつだけある。
現在の量子姉さんを、ひとりで出歩かせてはいけないということだ。
「今、量子姉さん、何ヶ月ですっけ?」
「八ヶ月」
「女の子でしたよね?」
「そうだね。………なんだか、年が明ける度に、親族が女だらけになっていくねえ」
やれやれといった感じで、凛さんは苦笑した。
2010年の三月に陽子姉さんは結婚し、同じ年末に
翌年の2011年。今度は光子姉さんが結婚した。一年後、つまり今年の三月ごろに、
姉さんたちが結婚して、これで親戚の男女比率が均されるかと思っていたら、生まれてくる子供はみんな女の子だった。そして今年さらに、姪っ子がまた増える予定だ。
ふと、思い出したことがあった。ひとつ酒の肴にしようと、僕は話してみることにした。
「義兄さん、陽子姉さんの娘の晶子ちゃんですけど」
「その子がどうかした?」
「………陽子姉さんが一緒に買い物に出かけたとき、福引があったらしいんですよ。ガラガラの。回すやつの」
「………まさか」
「はい。そのまさかです。晶子ちゃんがガラガラを回したら、三等の、商品券一万円分を当てました」
僕からの報告を聞いた義兄さんは、ぽかんと口を開けたあと、ぶんぶんと首を振った。
「いや、いやいや、ありえないよ。コウくんたちの特異体質が遺伝するなんて」
「僕も、偶然だと思いたいです。ただ一応、……今度こそ、気を付けてくださいね?」
「………なにに?」
「量子姉さんのお腹にいる赤ちゃんは、もしかすると将来、誰にも断りを入れずに日本一周の旅に出るかもしれない、ということです」
僕の忠告を聞かなくて量子姉さんを失踪させたことのある凛さんは、少しだけ顔が青ざめた。
「………ちょっと怖いな。嫁さんならともかく、娘となると」
「でしょう?」
義兄さんは、空いた皿を下げにきた店員さんに芋ロックのお代わりを頼み、僕はウーロン茶を頼んだ。その夜は呑みすぎていた。
義兄さんと他愛もないことを話しながら、考える。
僕たちの特異体質は、娘たちに受け継がれている。そんな気がする。ただ、それが発現する機会はほとんどないだろう。
何故なら、きっとそんな特異な運命など必要なく、ありきたりで平凡な幸せが、彼女たちを待っているから。
ありきたりで平凡で、しかしそれは、かけがえのない―――
ぴりりりりり、と。
僕の思考を分断するように、ポケットの中で携帯電話が着信した。通話だった。
断りを入れて、僕は電話に出た。義兄さんは運ばれてきた芋ロックを口に含んでいた。
「もしもし。………うん。………久しぶり、まりあさん」
義兄さんは酒を吹き出した。
げほげほとむせ返っている凛さんに紙ナプキンを差し出しながら、「ああ、いやいや、何でもないよ。続けて」僕はまりあさんに、話を促した。
口元を拭った凛さんが、「マジで?」と、口だけを動かして尋ねてきた。僕がそれに頷くと、それからじっと興味深そうに、僕を見つめてきた。祈るような目でもあった。
僕のほうは全然何ともないのに、凛さんのほうが緊張していた。
「それで、………まりあさん。答えは決まった?」
僕は、ある意味誰よりも身勝手な人間だと思う。それを反省するかと問われても、きっとしないだろう。
まりあさんの意志は実のところ、僕には関係がないし興味もない。
「………………わかった。じゃあ、もう一度言うね」
ただ、僕の価値を認めてくれたまりあさんが、世界で誰よりも大切であるという事実。
「僕と、結婚してください」
それを、愛すだけなのだから。
それは当然のことなのだ。
人は本来、本当に大切な人が誰かなんて、ちゃんとわかっている。
人生の幸せは単純だ。
―――愛すべし、愛すべき人を―――
「………うん。わかった。答えてくれてありがとう」
夜は更けていく。
義兄さんとの酒宴は、これを境に勢いをつけて、朝まで続いた。
歯車の食性 ~完~
歯車の食性 朽犬 @pocket2
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